歩幅をそろえて
午前は、思っていたより静かに過ぎていった。
彼は何度か、無意識のまま
斜め前の席へ視線を向ける。
何も起きていないことを確かめて、
少し安心し、
少し物足りなくなる。
昨夜の言葉も、
今朝の「おはよう」も、
確かにあったはずなのに。
時間の中に溶けて、
輪郭が薄れていく。
キーボードの音。
紙をめくる乾いた音。
遠くの小さな笑い声。
均衡を壊す出来事は、何もない。
――ないはずだった。
「これ、先に確認お願いしてもいいですか。」
机の横から、彼女の声。
ごく自然な業務の調子。
周囲に溶ける距離感。
けれど胸は、一瞬だけ強く鳴る。
「……あ、うん。」
書類を受け取る手が、わずかに遅れる。
触れそうで、触れない距離。
昨夜よりも近いと感じるのは、
きっと気のせいじゃない。
彼女はすぐには離れない。
急かすでもなく、
探るでもなく、
ただそこにいる時間。
「……ここ、数字が一つ違う。」
画面を指しながら言う。
今朝より、少し自然な声。
「本当だ。助かります。」
小さな笑み。
それは“昨日を知っている人”の顔でも、
“何もなかった人”の顔でもない。
これからを待つ人の、静かな表情。
書類を受け取るとき、
指先がほんの一瞬だけ触れた。
偶然かどうか、確かめる前に
彼女は席へ戻っている。
背中は、いつも通り。
けれど彼の中には、
確かな変化が残った。
怖さではなく、
不確かさでもなく。
少しだけ、前へ進んだ感覚。
正午が近づく。
椅子が引かれる音。
「お昼どうする?」という声。
張りつめていた空気がほどける。
彼は立ち上がるかどうか、迷う。
行くか。
待つか。
何もしないでいるか。
何もしないことだけは、
もう選びたくなかった。
ゆっくり立ち上がる。
その動きが、自分でもわかるほど慎重だった。
視線を上げると、
彼女も同じタイミングで席を立っていた。
偶然と言えば、偶然。
けれど二人とも、
一瞬だけ動きを止める。
「……お昼、どうします?」
先に口を開いたのは彼女。
逃げ道のある、自然な一言。
ほんの一秒。
昨夜の自分。
今朝の不安。
それでも残った気持ち。
すべてが重なり、
静かに背中を押す。
「……少しだけ、外に出ませんか。」
小さく、けれどはっきりした声。
勇気というより、
後悔しないほうを選んだだけだった。
彼女は短い沈黙を置き、
大切に受け取るように頷く。
「はい。」
迷いのない声。
並んで歩き出す。
周囲から見れば、
ただの同僚の昼休み。
けれど外の冷たい空気が、
二人の距離をほんのわずかに変える。
言葉は少ない。
沈黙もある。
それでも、重くはない。
痛みでも不安でもなく、
そこにあるのは――
選び始めた静けさ。
交差点で信号が赤に変わる。
並んで立ち止まる。
同じ方向を見て、
同じ時間を待つ。
その当たり前が、
胸の奥を静かに満たす。
「……昨日、」
彼は言いかけて、止める。
まだ早い。
壊したくない。
彼女は促さない。
ただ、隣にいる。
やがて信号が青に変わる。
歩き出す。
言葉より先に、
歩幅がそろう。
それが今いちばん、
確かなものに思えた。
昼休みは、まだ始まったばかり。
この先で、二人はきっと
もう少しだけ
本当の気持ちに近づいていく。




