あの一行のあとで
彼が送ったのは
「逃げたくないと思いました。」
彼女の返信は
「あなたの隣にいたいと思っています。」
たったそれだけのやり取り。
けれど、
二人にとっては
これまででいちばん重い言葉だった。
朝の光は、いつもと同じだった。
改札を抜ける人の流れも、
エレベーターのわずかな混雑も、
始業前の少し乾いた空気も。
何ひとつ変わらない。
変わっているのは――
きっと彼だけだった。
昨夜、短い言葉を送った。
何度も画面を見返し、
既読がついたことも、
静かな返事も、
すべて胸の奥に残ったまま朝になった。
逃げなかった。
それだけで十分なはずなのに。
会社の入口が近づくほど、
足取りはわずかに重くなる。
もし、
感じ方が違っていたら。
もし、
困らせてしまっていたら。
考えれば、いくらでも沈める。
それでも――
来た。
逃げなかった朝だった。
フロアに入ると、
いつもの音が迎える。
キーボードの打鍵。
遠くの会話。
コピー機の低い駆動音。
日常は、何もなかったように動いている。
席に着き、
静かに息を吐いた、そのとき。
視線を感じた。
顔を上げる。
彼女が、いた。
こちらを見て――
逸らさず、
留めすぎず。
やわらかな時間の長さで。
そして、ほんの少しだけ。
安心させるような微笑み。
何も言わない。
確かめない。
昨夜に触れない。
ただ――
ここにいる、と伝えるみたいに。
胸の奥で、固まっていた何かが
ゆっくりほどけていく。
劇的な変化じゃない。
でも確かに、
昨日より呼吸がしやすい。
逃げなかった夜の続きに、
逃げなくてもいい朝があった。
それだけで、十分だった。
パソコンの電源を入れる。
立ち上がるまでの数秒。
もう一度だけ、視線を向ける。
彼女は仕事に戻っていた。
けれど、
さっきの微笑みの余韻は消えていない。
言葉はいらない。
昨夜の一行は、
ちゃんと届いていた。
午前の空気は、
ゆっくり日常の形に整っていく。
それでも彼の中だけ、
まだ少し時間が遅れている。
話しかけるべきか。
今はやめたほうがいいのか。
昨夜はあんなに必死だったのに、
朝になると、言葉はまた遠い。
そのとき。
「おはようございます。」
すぐ隣から、自然な声。
彼は一瞬だけ息を止め、
ゆっくり顔を上げる。
彼女が立っていた。
書類をひとつ持ったまま、
いつもの距離で。
特別な表情はない。
ただ、本当にただの朝みたいに。
「……おはよう。」
思ったより静かで、
でも震えてはいなかった。
それだけで、胸の奥に
小さな安堵が落ちる。
彼女はうなずき、
ほんの一拍の余白。
それは気まずさではなく、
急がなくていいという合図のようだった。
「今日、少し冷えますね」
窓のほうを見ながら、やわらかく言う。
昨夜には触れない。
けれど避けてもいない。
「……うん。ちょっと寒い。」
短い返事。
それでも彼にとっては、
逃げていない言葉だった。
それぞれの仕事に戻る。
キーボードに手を置いたとき、
彼は気づく。
さっきより、ほんの少し
呼吸が深い。
何も解決していない。
未来の形も決まっていない。
それでも。
ここから始めてもいい、と
思えた。
たった一言の
「おはよう」で。




