届けたい言葉
部屋に入った瞬間、
静けさがゆっくり降りてきた。
同じ匂い。
同じ温度。
同じ光。
なのに今日は、落ち着かない。
鞄を置き、
上着を脱ぎ、
機械みたいに手を洗う。
何も考えないようにしているのに、
頭の奥には、まだ残っている。
「それでもいいよ。」
蛇口を閉めた手が止まる。
――どうして、あんなこと言えるんだ。
――普通、離れるだろ。
――面倒だと思うだろ。
理解できない。
できないはずなのに。
胸の奥が、じわりと熱を持つ。
⸻
ソファに腰を下ろす。
静かすぎる部屋で、
呼吸だけが大きい。
逃げたい。
全部なかったことにしたい。
明日、いつも通りに振る舞って、
少しずつ距離を戻して、
何事もなかった場所へ帰る。
それが一番安全だ。
それが一番、傷つかない。
ずっと、そうしてきた。
なのに今日は。
その「正しい選択」が、
ひどく空虚に思えた。
⸻
テーブルの上のスマートフォン。
触れるつもりはなかった。
連絡なんて、
する資格がないと思っていた。
それでも指先が動く。
画面が灯る。
彼女の名前。
それだけで、胸が揺れる。
何を送るつもりだ。
送ったら、戻れなくなる。
期待させるかもしれない。
また失望させるかもしれない。
怖い。
本当に、怖い。
それでも。
今ここで何も選ばなければ、
また黙って距離を取れば。
きっと自分は、
一生このままだ。
完璧な言葉なんてない。
優しさも、格好よさも持っていない。
あるのは、
情けないくらい不器用な、本音だけ。
震える指で、文字を打つ。
消して。
また打って。
それでも最後に残ったのは――
たった一行。
送信ボタンの上で、指が止まる。
ここを押せば、
もう前と同じ自分には戻れない。
逃げ続けていた場所には、戻れない。
それでも。
ゆっくり息を吸う。
――失いたくない。
その感情だけは、はっきりしていた。
小さく震える指で。
送った。
送信した瞬間、
全身の力が抜ける。
怖さは消えない。
不安も消えない。
むしろ大きくなる。
それなのに。
胸の奥に、
ほんのわずかな熱が灯っていた。
痛みに似ている。
でも確かに、前へ進んだ感覚。
スマートフォンを伏せる。
返事は、すぐには来ないかもしれない。
来ない可能性だってある。
それでも今日は、
待つことから逃げなかった。
初めて、
自分の足で立った夜だった。
静かな部屋。
彼はゆっくり目を閉じる。
明日が怖い。
でも。
ほんの少しだけ、
明日を願っている自分がいた。




