離れても、また戻ってこれる場所
仕事を終える時間になっても、
胸の奥の落ち着かなさは消えなかった。
約束は、
駅まで一緒に歩くだけ。
それだけなのに、
一日中そのことを意識していた。
帰る準備をしながら、何度も思う。
――やめたほうがいいんじゃないか。
――期待させるだけかもしれない。
――自分は、誰かを幸せにできる人間じゃない。
昨日と同じ思考。
けれど今日は、
完全には沈みきらない。
それでも会いたい。
その感情が、
彼を席から立たせた。
会社を出ると、夜の空気は少し冷たい。
彼女は先に外にいて、
街灯の下で静かに待っていた。
目が合う。
昨日より、ほんの少しだけ近い距離。
「……お疲れさま。」
「お疲れ。」
短い言葉。
それだけで胸がいっぱいになる。
二人は並んで歩き出す。
沈黙。
怖いわけじゃない。
言葉にして壊れるほうが、怖い。
彼女は急かさない。
同じ速さで、ただ歩いている。
その優しさが、苦しい。
やがて。
「……あのさ」
自分でも驚くほど、小さな声。
彼女は歩幅をゆるめる。
でも、止まらない。
逃げ道を残したままの待ち方。
だから、言わなければと思った。
「俺で本当に……」
言葉が途切れる。
情けなさと、自己嫌悪と、
それでも伝えたい気持ち。
絡まりながら、零れ落ちる。
「……やっぱり、俺、変だよな。」
笑ってほしい。
でも本当は、否定してほしい。
矛盾した願い。
彼女はすぐに答えなかった。
ただ、静かに彼を見る。
やがて。
「変じゃないよ。」
短い。
でも、揺れない声だった。
胸の奥に、まっすぐ届く。
「……でもさ」
止めたいのに、続けてしまう。
「たぶん俺、また同じことすると思う。」
怖くなって、距離を取って、
自分から壊す。
分かっている未来。
傷つける前に、
先に逃げ道を作るみたいに。
夜の音だけが流れる。
彼女は小さく息を吸った。
そして――
「それでもいいよ。」
足が止まりかける。
意味が、すぐには入ってこない。
「また離れても、
また戻ってくればいい。」
責めない。
縛らない。
ただ、在るだけの言葉。
「私は、ここにいるから。」
胸の奥で、何かが崩れかける。
壊れるのではなく、
ほどけていく感覚。
怖い。
でも、あたたかい。
駅の灯りが見える。
改札の前で、自然に足が止まる。
何かを言うべきだと分かっている。
でも。
言葉にしたら、この静けさが壊れそうだった。
「……じゃあ」
結局、それだけ。
彼女は微笑む。
「うん。また明日。」
いつも通りの声。
それが、いちばん優しかった。
彼は振り返らなかった。
振り返れば、戻りたくなるから。
電車の中。
窓に映る自分。
――また何も言えなかった。
――やっぱり自分はだめだ。
いつもの思考が戻る。
けれど。
今日は、それだけで終わらない。
「それでもいいよ。」
胸の奥で、何度も反響する。
否定されなかったこと。
離れる前提でも、
そこにいていいと言われたこと。
少しだけ、救われている。
それが、怖い。
一方で、彼女もホームへ向かう。
今日は、追いかけなかった。
引き止めなかった。
それでよかったのか。
本当は、名前を呼びたかった。
でも――
それをすれば、彼はまた怖くなる。
だから、待つほうを選んだ。
痛みを伴う選択。
それでも迷いはない。
彼はまた離れるかもしれない。
深く沈むかもしれない。
それでも。
戻ってくる人だと知っている。
根拠なんてない。
ただ、
弱さも優しさも見てきたから。
「……明日、か」
小さなつぶやき。
不安はある。
怖さも消えない。
それでも。
今日、彼は逃げきらなかった。
それだけで、十分だった。
同じ夜。
違う場所。
壊れていない。
でも、完成もしていない。
ただ――
昨日より、
ほんの少しだけ前に進んでいた。




