それでも隣にいたい
彼女の小さな微笑みを見たあとも、
胸の奥の温度は消えなかった。
むしろ――
気づいてしまったからこそ、
そこに意識が集まっていく。
仕事を始めても、
どこか落ち着かない。
言葉にできない期待と、
同じくらいの不安が、
静かに混ざり合っていた。
そのとき。
少し離れた席から、
笑い声が上がる。
「最近ほんと仲いいよね、あの二人。」
何気ない調子。
ただの雑談。
誰も深い意味なんて込めていない。
――それでも。
胸の奥に、
細い針のようなものが刺さる。
視線を上げる勇気はなかった。
画面を見つめたまま、
指だけを動かす。
続かない文章。
進まない作業。
頭の中で、
言葉だけが反響する。
仲いいよね。
その一言が、
ゆっくり形を変えていく。
――勘違いしているのは自分だけじゃないか。
――周りから見ても、そう見えるのか。
――もし違ったら。
――もし彼女にとっては、ただの優しさだったら。
昨日、
やっと踏み出したはずの一歩が、
足元から崩れていく。
息が、浅くなる。
嬉しかったはずの距離が、
急に怖くなる。
近づいたぶんだけ、
失う可能性も
はっきり見えてしまうから。
――やっぱり、自分には。
そこまで考えて、
思考を止める。
止めなければ、
また同じ場所まで落ちていくと、
もう知っている。
それでも。
不安は、
止まってくれなかった。
静かに、
ゆっくり、
昨日より深いところへ沈んでいく。
昼前。
彼は資料を取りに、
一階の保管庫へ向かう。
扉を開けると――
中に、彼女がいた。
偶然。
ただそれだけのはずなのに、
心臓が強く鳴る。
「……あ」
彼女も気づき、
少し驚いたように目を丸くする。
すぐに、
やわらかく笑った。
「同じ資料?」
「たぶん。」
短いやり取り。
それだけなのに、
胸の奥が揺れる。
さっき聞こえた言葉が、
まだ残っている。
ここに立っていることさえ、
誰かに見られている気がする。
――離れたほうがいい。
――これ以上、近づかないほうがいい。
昨日と同じ思考。
でも、少しだけ違う。
離れたくない
という気持ちが、
消えていなかった。
資料を取って、
扉へ向かう。
すれ違う瞬間、
彼女が小さな声で言った。
「今日、帰り少し遅い?」
足が止まる。
振り返る勇気は、
すぐには出なかった。
胸の奥で、
不安と願いが
強くぶつかり合う。
それでも――
昨日、
壊れた場所から
立ち上がった自分を思い出す。
逃げなかった、
あの夜を。
彼は、
ゆっくり息を吸った。
そして。
「……少しなら。」
かすれるような声で、
そう答えた。
彼女は、
ほっとしたように微笑む。
「じゃあ、
駅まで一緒に。」
ただそれだけの約束。
特別でも、
甘くもない。
でも――
逃げなかった選択が、
そこにあった。
彼の胸の奥で、
まだ消えていない不安の隣に、
ごく小さな、
静かな光が灯っていた。




