隠さないという選択
翌日。
まだ人の少ないオフィスに、
やわらかな朝の光が差し込んでいた。
彼はいつもより少し早く来て、
静かに席に座る。
パソコンを立ち上げながら、
昨日のことを思い出す。
胸の奥に、
かすかな温度が残っている。
消えていない。
逃げてもいない。
それだけで、
不思議なくらい呼吸がしやすかった。
「おはようございます。」
背後から声がして、
彼は振り返る。
同僚たちが、いつもの調子で入ってくる。
「おはよう。」
自分でも少し驚くほど、
自然な声が出た。
軽い。
ほんのわずかな違い。
けれど毎日顔を合わせる人間には、
十分伝わる変化だった。
「なんか今日、機嫌よくない?」
冗談めかした声。
彼は一瞬だけ言葉に詰まり、
すぐに笑ってごまかす。
「そうですか?」
「うん。顔が違う。」
別の同僚が悪気なく続ける。
「いいことあったでしょ。」
胸の奥が、小さく跳ねる。
否定しようとして――
やめた。
強く隠そうとすると、
かえって不自然になると、もう知っている。
彼はほんの少し視線を逸らし、
「……まあ、ちょっと。」
それだけ言った。
同僚たちは「やっぱり」と笑う。
深くは追及しない。
その軽さに、彼はほっとする。
踏み込まない距離。
壊さない空気。
守られているような感覚。
席に戻り、画面に向かう。
けれど集中は長く続かない。
頭のどこかで、
彼女のことを考えている。
明日も、朝のコーヒーに行く約束がある。
たったそれだけのことが、
一日の輪郭を静かに変えていた。
「ねえ」
隣の席の同僚が、小声で話しかけてくる。
少しだけ探るような声音。
「最近さ。
○○さんと、よく一緒にいるよね。」
心臓が、一拍だけ強く鳴った。
図星。
責める響きはない。
ただの雑談。
ただの事実確認。
それなのに、
胸の奥でかすかな回避の衝動が揺れる。
――でも。
昨日とは、少し違った。
彼はすぐには否定しなかった。
短い沈黙のあとで、
「……そうかもしれませんね。」
静かに答える。
驚くほど、穏やかな声だった。
同僚は「ふーん」とだけ言い、
それ以上踏み込まない。
いちばん驚いていたのは、彼自身だった。
否定しなかったこと。
隠さなかったこと。
そして何より、
それを言っても壊れない気がしたこと。
胸の奥で、
小さな何かがゆっくり形を変えていく。
怖さは、まだある。
消えてはいない。
それでも――
逃げなかった。
それだけで、十分だった。
ふと視線を上げると、
オフィスの入口に彼女の姿が見えた。
朝の光の中で、
いつもと同じ表情。
けれど彼にはわかる。
昨日までとは、
ほんの少し違う距離に
自分たちが立っていることを。
彼女もこちらに気づき、
ごく小さく微笑む。
誰にも気づかれない、
静かな合図。
彼は、わずかに息を吸い――
今度は、目を逸らさなかった。




