練習した言葉
会社を出ると
夜の空気は冷たかった。
並んで歩く。
肩が触れるほどではない。
けれど昨日までより、わずかに近い距離。
言葉は少ない。
無理に埋めない沈黙。
それでも不思議と、
足取りは揃っていた。
駅へ向かう途中、
信号待ちで立ち止まる。
車のライトが
二人の影をアスファルトに伸ばす。
彼は、心の中で何度も練習した言葉を思い出していた。
たったそれだけのことなのに、
胸の奥が少し速くなる。
呼びたい。
でも――
呼んでしまえば、何かが決定的に変わる気がした。
それでも。
失う未来より、
守りたいほうを選ぶと決めたから。
小さく息を吸う。
「……ねえ」
彼女が顔を向ける。
その視線に触れた瞬間、
怖さがよぎる。
けれど、今度は逃げなかった。
「……ユイ」
はじめて、名前で呼んだ。
思っていたより静かな声。
それでも、確かに震えていた。
時間が、ほんのわずかに止まる。
彼女の目が、少しだけ見開かれる。
驚き。
そして――
ゆっくりほどけていく表情。
責める気配も、戸惑いもない。
ただ、
大切なものを受け取ったときのような静けさ。
「……うん。」
短い返事。
でもその一音に、
やわらかな温度があった。
信号が青に変わる。
歩き出す前、
彼女はほんの少し視線を落とし、
小さく息を整えた。
それから、静かに言う。
「……ありがとう。」
名前を呼ばれたことに、ではなく。
勇気に対してでもなく。
ここまで重ねてきた時間に向けて。
二人はまた歩き出す。
いつもと変わらぬ道。
それなのに、
世界の輪郭だけが
わずかにやわらいで見えた。
特別な約束は、まだない。
形のある言葉も、まだない。
それでも――
たった一音で、
二人のあいだに
確かな始まりが静かに置かれていた。




