44,あなたの傍に
時間の経過は知らない。ただじっとユフィを見守り続けていたオルガは、眠るその人の右の瞼が揺れたのを見て視線を動かした。
そっとその瞼が開かれ、澄んだ翠が溢れる。焦点の合わなかったそれは天井を見て視線を動かしてから、ゆっくりとオルガを見つけた。
「あ、オル……けほっ」
喉が痛むのだろう様子を見て、オルガはベッドサイドに置いてある水差しからコップに水を注いだ。
「ユフィ。水だ。飲めるか?」
そっと身体を支えて起こす。ゆっくりと喉を潤してほっと息を吐くことができたユフィをオルガは見つめた。
安心すれば現実が戻る。ユフィははっとしたように顔の左に手をあてほっとした様子を見せるから、オルガは僅か瞼を震わせた。
「あ、あの…わたし……」
「事情はだいたい分かっている。ユフィ。一人で行くなんて無茶はしないでくれ」
「申し訳…ありません……」
「君になにかあったらと思うと、ひどく辛くて悲しい」
優しい手がユフィの手を包み込む。そのぬくもりと言葉にユフィは目を瞠った。
(わたしが死んでも誰も悲しまない。だから死んでもいいと思ってた。……でも、死にたくないと思った。オルガ様のもとへ戻りたいって……)
自分の中にあった、勝手な感情。
持ったことのないものは、願っても、それを願っていいのかと、今になって冷静になる。
(誰にも望まれなくて、必要とされない。魔法だって使えなくて、陛下が求める知識さえ力になれない。屋敷でもわたしができるのは雑用だけ)
在り方はノーティル国にいたころとなにも変わっていない。だけど――……。
「わ、たしは……いても、いいのですか……? 停戦協定だって、本当はどうなるか分からなくてっ、わたしがいることに意味なんてなくなってしまうかもしれないのに……! 陛下のお役にだって、オルガ様のお役にだって、なにもたてないのに!」
涙にぬれた声が室内に寂しく響く。それをじっと聞く。口を挟まず溢れる意思を思うままに、口にさせる。
オルガはただじっとユフィの手を包み込んでいた。
「でもっ、わたし……ずっと、ずっとお傍にいたいってっ、そう思ってしまったからっ……! いらないって言われても、出ていけって言われても、それでも我儘でっ……。いつかオルガ様がちゃんとした奥様を迎えても、それでもっ、お仕えしたくて……! わたしっ……」
たぶんきっと、気持ちが溢れてしまってまとまらないのだ。解るから、オルガはそっとユフィを抱きしめた。
そうすればいつも彼女は固くなって動きが止まる。震える体にぬくもりを分けて、分かち合いたいと思う。そして知ってほしい――独りではないのだと。
「ユフィ」
ただ優しく、その名を何度だって口にのせる。
伝わるまで。何度でも。
「ユフィ。俺の妻は君だけだ。他に娶る予定はない。一切ない。今後絶対にない。ありえない」
「え……」
「俺も、君に傍にいてほしいと思っている。役に立つとか立たないは関係ない。ただ傍にいてほしいんだ。出ていけなんて絶対に言わない。出ていっても必ず連れ戻す」
きゅっと、少しだけ腕に力をこめる。やはり抑えきれなくて尻尾もユフィに絡めると余計に身体が固まって、落ち着きがなくて混乱しているのが手に取るように分かった。
それが愛おしくて、たまらない。
「で、でもっ」
「協定は結ばれ、君はここにいる。だからその意味を強く感じてしまうのは無理もない。だが、仮にそれがどうなったとしても、君の立場が今後我が国において変わることはない。君はずっと変わらず、俺の妻だ」
「でも、わたしはなんの役にも……」
「俺が、君に救われている。君を必要だと思っている。それではだめか?」
そんなこと、聞かれても困ってしまう。
少しだけ腕の力が緩まってオルガがじっと見つめてくる。感じるけれど、それに視線を返すことなどできそうにない。
(だめ、じゃない……。ない、けど…)
心臓がどきどきして、少し変だ。感じたことのない分からないものが胸に溢れてくる。
「ど、どうして、ですか……。わたしはなにも……」
「俺も時折思う。今回はとくに感じた。……夫なのに、君の力になれないと」
「そんなことはありませんっ! オルガ様はいつだって心強くて、いつもわたしを助けてくださって……!」
慌てて否定する。
オルガがそんなことを思う必要なんてどこにもない。だって常に助けてくれた。守ってくれた。それをちゃんと知っている。
首を横に振るユフィを見つめ、オルガはふっと柔らかな眼差しでユフィを見つめた。自分にとってユフィも同じなのだと、どれほど伝えれば伝わるのだろう。
とても難儀で。けれど伝わったらと思うと楽しみでもあるような。
「俺もその言葉を君にそのまま返そう」
「え……」
「ユフィ。俺も、君の傍にいたい」
そう言って、こつんと額を合わせるオルガ。微かな重みとぬくもりにユフィはなにも言えなくてオルガをそっと見上げるしかない。けれどすぐに逸らした。
額を合わせているといつもと比べられないほどにオルガが近い。綺麗な瞳と精悍な容貌がすぐ目の前で、なんだかとても落ち着かない。
(わたし…わたしはなにもできない、のに……。傍にいていいの? いたいと、思っていてもいいの? このぬくもりを、信じてもいい……?)
冷たい中で生きてきた。だから、知ってしまったぬくもりが離れてしまうのは、ひどく寒くて痛みが伴う。離れたくないとみっともなく縋ってしまいそうで、まだ少し怖い。
「傍にいて、いいのですか……?」
「傍にいてくれ」
「わたしなんかで、よろしいのですか……?」
「君は君のままでいい」
「っ、わ、わたしが妻で……よろしいのですか……?」
「君だけだ」
――ああ。もう。離れられない。この人の傍がいいと、この心が知ってしまった。
またきゅっと抱きしめてくれるぬくもりが、たまらなく嬉しくて心地よい。
喉の奥に熱が生まれて、絡まって、みっともない嗚咽がこぼれて。視界が滲んでどうしようもない。
そんなユフィをオルガは優しく抱き締めた。
♦*♦*
夜も明け、ユフィは起き上がれるようになり、それまでと同じようにアルヴェスターとともに朝食を摂る。のだが、どうにもアルヴェスターの様子がおかしい。
目の下に隈があるし、げっそりとしたような様相だ。
「殿下。ご気分が優れないのでしょうか……?」
「砂糖を呑まされただけだから気にしないで。全面的にオルガには反省してほしいけど」
それはどっち? 砂糖を呑むような料理でもあったのか?
首を傾げるユフィだが、控えるオルガはけろっとしているので尚更によく分からない。
オルガに思いの丈をぶつけてから夜明けまでまた少し眠ってしまったユフィは、室内にアルヴェスターがいたことなど知らない。ユフィが寝ている間にアルヴェスターとオルガは部屋を出てエラゼとシーランと交代した。すぐにオルガの足を踏んづけてやった。「砂糖の洪水に巻きこむな」「なんのことでしょう」とオルガがけろっとしていたのが憎らしくて踏みつける足にも力が入った。
そんなことを知らないユフィは朝食を終えて紅茶を飲む。
「あの、殿下……。これからは…?」
「ここ出る。問題は解決したし式典も終わったし、後は書簡諸々でこれから進めるとしてもういる意味ないから。準備できてる?」
「えっと……」
なにせ盛大に睡眠をとっていたので知らないユフィは、そっとエラゼを見た。返ってくる頷きと笑みに安心してアルヴェスターに「はい」と頷く。ならばよしとアルヴェスターも大きく伸びをする。
すっかり気分は帰宅の安堵だ。昨夜からの張りつめた空気もなくなりユフィの体調も問題なさそうなのを見て、オルガはアルヴェスターに声をかけた。
「殿下。例の件ですが……」
「ん? なんだっけ? 例の件があちこち大量発生すぎだから」
「メイドです」
「あー……あれか。本人の了承あれば俺に言うことなし」
なんの話か分からないユフィの視線が動く。その先でアルヴェスターの了承を受けたオルガは、その視線を控えるシーランへと向けた。
「シーラン。ここには臨時で雇われているとの話だったが、今後の予定は?」
「いえ。とくには……。また雇ってくださるお屋敷を探すつもりです」
「では、オリバンズ国にてユフィ殿の傍に仕えるという気はあるか?」
思わぬ言葉にユフィとシーランが驚きをみせる。ユフィの驚きを見て取ったオルガが一度その視線をユフィに向ける。
「我が国は皆、ユフィ殿を丁重に扱う。しかし人間種は少なく、社交の場などは違いも多々ある。ユフィ殿も学んでくれている最中だが、なにぶんやっと馴染めてきた知らぬ国。見知った者がいてくれるのは心強いところもある」
その優しさに視線を向けられなくなってしまうユフィにオルガは小さく笑みを浮かべると、騎士の表情をしてシーランを見た。
真剣にまっすぐ、護衛騎士という立場からユフィの周囲を考えるオルガにシーランも背筋が伸びる。
「ユフィ殿の知り合いで信頼関係もあり、これまでも貴族の屋敷で仕事経験があるのならば、ユフィ殿の生活を支えることもできるだろう。殿下にも了承はいただいた。あとはそちらの意思一つだ」
思わぬ申し出。驚いてしまったがシーランはすぐに口角を上げた。
迷う必要がどこにあるのか。背筋を正し、オルガとアルヴェスターに向き直る。
「お受けさせてください。これからもお嬢様のお傍で、今度こそ生涯をかけてお仕えいたします」
「では頼もう。待遇含めて詳細は国へ戻ってから改めて話す」
「はい」
即答してくれた嬉しさと驚きと。ユフィは思わずシーランを見てしまう。その視線に気づいたようにシーランはにこりと笑みを浮かべた。
一度は離れてしまった唯一の味方。でもまた笑い合える。そう思うとユフィも自然と笑顔になれた。
「ユフィお嬢様。これからもよろしくお願いします」
「シーラン……。はいっ。わたしこそ…!」
「よろしければ、オリバンズ国について教えてください。お嬢様のほうが詳しくご存知ですから」
「はい! 皆さまとてもお優しくて親切な方ばかりなんです。もっとたくさんお話させてください」
ユフィが嬉しそうにしている。その笑みだけで充分でオルガは口許を緩めた。




