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俯き令嬢は獣の騎士様から逃れられない  作者: 秋月


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36/52

36,勇気と拒否

 ♦*♦*




 部屋を出て、誰もついてきていないと振り返って確認して、また足早に進む。

 不慣れなドレスと靴でもなんとか急いで向かった先は、屋敷の裏手にある離れのような場所。


 滞在客や式典の夜会が開かれる本館とは違い、小さな森を挟んで建っている離れは手入れがされていないようで古めかしく、夜に訪れるには勇気が必要な見目をしている。


 本館の煌びやかな光とは、小さな森を境に世界が違う。その境界線を踏み越えてユフィはその離れの前に立った。


 ――夜会用のドレスに着替える前、一人で包帯を変えるためにエラゼとシーランが部屋を出たとき、包帯をしまってある箱の蓋を開けてその置手紙を見つけた。


『夜会が始まる前に、誰にも見つからず、供をつけず一人で本館の裏を抜けて奥の離れに来い。でなければ夜会でオリバンズ国との協定は反故され、獣人たちを捕らえる』


 心臓が煩い。手の先に血が通っていないのかひどく冷たい。呼吸が浅くて、身体が強張る。

 それでも行かなければ。でなければ――……。


 唾を呑んで。ゆっくり呼吸して。ユフィは離れの扉をそっと開けた。

 扉はギィィ…と軋んだ音をたてて開くが使われていないせいか動きが悪い。窓から射しこむ月明かりだけが唯一の光源だ。ランプを持ってくればよかったと思っても今更引き返せない。


 明かりがないと俯いていては周りが分からない。顔を上げて周囲を見回す。

 一歩を踏み出せば軋む床は、木が腐って抜け落ちているようなことはなく比較的歩きやすい。窓や天井、床の隅には蜘蛛の巣が張っていたり埃が溜まっていたりと掃除がされていないのはすぐに分かる。

 壁のランプはくすんでいて、壁にかけられた絵も暗い印象を与える。


 そんな中をユフィはゆっくりと進んだ。

 まずは一階を見て回る。けれど誰もいない。次に二階へと上がる。一部屋ずつ見ていき、その部屋の扉を開けた。


「やっと来たわね。私を待たせるなんて何様のつもりかしら?」


「申し訳ありません…」


 なんとなく、誰が呼び出してきたのかは解っているつもりだった。だから驚かない。

 興味のなさそうな瞳は昼間ときっと同じだ。それは過去でも同じで、怒りを買わないようにただ俯いていた日が脳裏をよぎる。


 誰かの私室だったのだろう部屋。窓辺に座ったヒーシュタイン侯爵夫人、ローザは月明かりを浴びながら扇を口許に添えた。

 余計な一言は彼女の機嫌を損ね、折檻が待っている。だからユフィはなにも言わずに俯いた。


 ただひどく、身体が震える。

 その原因をユフィはすぐに察した。


(あの、人は――……)


 ローザの傍に控える騎士。ローザが護衛として重宝している男。

 ヒーシュタイン侯爵邸でも何度も見たことがある人物だ。そのときからひどく睨んでくる視線を感じていた。


 ヒーシュタイン侯爵家の面々や仕える者たちからすれば、自分は役立たずの魔力なしで、婚外子で。触れ難い傷を持っている非常に面倒な存在だっただろう。

 憐みも怒りも受け慣れていた。だからユフィはその男の眼光も同様のものだろうと思いながら受け続け、常に俯いていた。


 けれど今は、それを保てない。

 思い出してしまったから。あの男の眼光の意味を。


「いつまでそんなところに立っているつもり? こっちへ来なさい」


 拒否してはいけない。だからユフィは震える足をなんとか動かして、こけないよう踏ん張って、ローザから少し距離をとって歩み寄ると足を止めた。

 それを見て目を細め、ローザはふんっと鼻を鳴らす。


「あなた、随分といい身なりで来たじゃないの。野蛮な国の王族でも婚約者になる相手は着飾るものだということは知っているようね」


 咄嗟に否定しかけて、唇を引き結んだ。


 そう思われている。それはそれでいい。それがアルヴェスターの指示だから。

 だからユフィも、そういう意図に取られるようにアルヴェスターと話し合って決めてきた。ドレスや装身具はすべてアルヴェスターからの贈り物。アルヴェスターはユフィを大切に、優しく接している。夜会や式典は必ず二人で揃って会場に入る。

 社交に疎いユフィはそれを悟られないように頷いていたが、意味があるのだとアルヴェスターは優しく説明してくれた。


「ぁ、の、ご、ご用件は……?」


 ぱしんっとローザの扇が閉じられる。その音がいやに響いた気がしてユフィは肩を跳ねさせた。


「あなた、夜会に出なくていいわよ」


「……え」


 なにを言い出すのだろうか。言われた言葉を理解して、ユフィは俯いたまま目を瞠った。

 見えるのはスカートを握りしめた自分の震える手と足元だけ。


(出なくて……どうして、そんなこと……)


 全く理解できない。だってそれはローザに決定権があるものではない。

 ユフィの出席は両国の求めであり、アルヴェスターの隣に立って出るのだとすでにそう話し合いをして決めたもの。


「…そ、それ、は……」


「なに。私の言うことが聞けないとでも?」


 機嫌を損ねた。ああ、どうして今日はこんなにも失敗をしてしまうのだろう。

 ――ヒーシュタイン侯爵家ではこんな失敗はしなかったのに。


 答えられなくて。きゅっと手を強く握りしめて、喉の渇きを唾で誤魔化す。


 古びた椅子からローザが立ち上がりかつかつと音をたてて近づいてくる。その気配にユフィは戦々恐々と肩を震わせた。

 震えを止めなければと思うのに身体は言うことを聞かない。


「出ない。分かった?」


 頷かなければ待つのは平手か扇での殴打か。考えて、心臓が冷える。

 目の前にある圧迫感と威圧感。これに逆らうべきではない。逆らったっていいことなどない。


 身体の震えを誤魔化せずただドレスを握りしめるしかない。――ああ。せっかくエラゼとシーランが綺麗にしてくれたのに皺ができてしまう。


『綺麗だ、ユフィ殿。自然の中の清楚な一輪のようだ』


『ああ。ドレスの色というものは着る人によって印象が変わるんだな。それはユフィ殿によく似合ってるから。こんなにも綺麗なユフィ殿をエスコートできる俺ってしあわ――…オルガ。会場での予行練習だから。言う度にその視線はごめん被るから!』


『失礼しました』


 ドレスを着て、オルガを待たせられないと急いで。そこにアルヴェスターがいて。二人はとても褒めてくれた。


『若奥様すごいです! あっという間に綺麗になっちゃいました!』


『てきぱきされていて、私たちも見習わないとですね』


『若奥様。こんなむさ苦しいところに……ああ! わざわざ水を持ってきてくれたのですか? ありがとうございます』


 仕事をさせてもらう中でメイドたちや公爵家の騎士たちと言葉を交わして、時に教わって。褒められても慣れなくて。


(ああ……そっか。わたし――オリバンズ国にいることが、とても幸せだったんだ)


 だから、怖くなってしまった。

 ヒーシュタイン侯爵家にいるときは、なにが待っていようがなにをされようが怖いなんて思わなかったのに。慣れていたのに。


 ――そうではないと、オルガが、アルヴェスターが、屋敷の皆や護衛騎士が、教えてくれたから。


(わたし、弱くなったんだ……)


 腑に落ちて理解して、愕然とした。


 怖くなると痛みが嫌になる。避けたくなる。――その方法を知っている。

 けれど、どうしてだろう……。


(頷けない……)


 それが一番穏便だと解っているのに。痛くないと解っているのに。


『皆がユフィの味方だ』


 そう言ってくれた。いつも優しくしてくれた。

 嫌って当然の自分を迎え入れてくれたウルフェンハード公爵家の皆。親切で気兼ねないアルヴェスター。最初は戸惑っていたけれど少しずつ受け入れてくれた騎士の皆。

 その誰もがこの式典のために頑張って。相手からの侮蔑も堪えて。そんな国から来た自分を守ってくれて。


(わたしだって、皆さまのために――……)


 だから、ここで折れるわけにはいかないのだ。

 会場へ行って、アルヴェスターと入って、オリバンズ国のためにできることをして。――皆に、笑ってほしくて。


 ――心が強く叫んでいる。


(味方が、いる。わたしは……!)


 頭を上げればそこにあるのは嘲笑う顔や声ではない。頭を上げたそこに、今はもう、優しい顔があると知っている。


 怖いけれど。怖くて仕方がないけれど。

 ――自分でない誰かのためなら。


「……き…せん…」


「はあ……。さっさとそう言えば――」


「でき、ませんっ……!」






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