七十二キロの荷物と、四秒の近道
【前回までの人物】
・ハルト:転生特典を一日一つ選ぶ旅人。加速する靴と百キロまでの収納鞄に加え、覚えた魔法を安定させる制御補助を受け取った。
・ルカ:ハルトと同じ薬草便で護衛を担当する剣士。戦いと食事が好きで、自分の旅費も稼いでいる。
・ミア・リーネ:魔術講習の助手。ハルトへ火種の魔法を教え、試作した札を村で試すため同道する。
・イーナ:薬草を扱う卸商。ハルトへ運搬、ルカへ護衛を、それぞれ銀貨一枚で依頼している。
ミアさんは、町が見えなくなってから、三度、振り返った。
一度目は門を出てすぐ。二度目は畑の角。三度目には、ルカが隣から小さく手を振った。
「窓口、逃げないよ」
「はい。私が、逃げて帰らないかを気にしていました」
「じゃあ、今は四人で前を見てる」
ルカが言うと、ミアさんは少しだけ笑った。
袖から覗く色糸の札を押し込み、灰茶の髪を耳へ掛ける。庭では教える人だった彼女も、いまは俺と同じ、知らない道を歩く人だ。
イーナさんの荷車は、小さな音で揺れていた。
帰りには、薬草とは別の取引の瓶を積むという。乾いた葉の箱を俺が持てれば、割れ物へ押しつけず、同じ便で運べる。
便利な鞄を見せるために、空の車を連れているのではなかった。
「あの水門の手前で、一度止まるよ。車を通す人が来たら、右へ寄せる」
イーナさんが先の石の門を示した。
俺は青い鞄を少し上げ、ルカは道の外の草へ目をやる。
みんなが、違う物を見ている。
俺も、昨日より少し、見ておく場所が増えた。
*
村の乾燥小屋は、入る前から匂いがした。
甘い葉と、鼻の奥がすっと冷える茎。棚の高さによって、風の通り方も違う。
奥から出てきた人は、胡麻塩の髪を藍の頭巾へ収め、厚い生成りの前掛けを着けていた。指の腹に、細かい緑の粉が残っている。
「イーナ、今日は若い足が多いね」
「こっちは荷を運ぶハルト。ルカは護衛。それから、札を試したいミアさん」
紹介されて頭を下げると、前掛けの人は自分の胸を指した。
「トルナ・ヘイル。この村で薬を作って、町へ出す葉も見てる。手を洗う水は、そこ。触る前にお願いね」
ミアさんは返事をしながら、もう札の包みへ手を掛けかけていた。
止めて、先に水へ向かう。俺も並んで手を洗った。
水は、思ったより冷たかった。今朝、小さな火を出せた同じ指が、冷たさで一度、きゅっと縮んだ。
「私、先に札を出しそうになりました」
「俺は先に、いい匂いですねって言いそうでした」
「言ってもいいよ。食べていいかは、別に聞いて」
トルナさんが背中から返し、ルカが笑った。
「ハルト、食べる前の質問、今日は間に合ったね」
「口へは、まだ入れてない」
四人分の足音が、小屋の乾いた床で少し軽くなった。
*
最初の札は、ミアさんが期待した色にならなかった。
同じ葉の束を、決めてきた距離で並べる。端の線が淡く変わる。
ミアさんが記録を取ってから、イーナさんの手元の束を見た。そちらは、まだ箱へ入れられていない。
「こちらは、まだ乾かす分ですか」
「中の茎がね。外の葉は、もう軽い」
トルナさんは一束をほどき、ミアさんへ触ってよい所を示した。
細い葉は、指で軽く曲げると乾いた音を立てた。だが、重なった内側の茎には、まだ少し柔らかさがある。
札の端だけなら、さっき箱へ入れた束とよく似ていた。
「……外の方を、先に見てしまうんですね」
ミアさんの声が小さくなった。
イーナさんはその束を、受取りの箱へ押し込まなかった。
「だから一枚で全部分かるなら、私もトルナも、ここで寝られるんだけどね」
「寝るなら、棚の下はやめて。落ちた粉で、二人とも緑になる」
薬師が言い、二人で笑う。
ミアさんもつられて笑いかけ、手帳を見た。
「使えない所も、書きます。失敗した分を、消して帰りたくないので」
「うん。違う葉へ、すぐ同じ印を付けないでくれれば助かる」
トルナさんは札を捨てるようには言わなかった。
同じ種類の、薄く広げた葉ならどうかと、自分で別の籠を出してくる。
ミアさんの目が、また少し上がった。
今度は、試す束と、比べる束を小さく分けた。
違いがあると分かっている物を、同じ順に置く。札が変わるまで、俺は少し離れた所で、空箱へ敷く布を畳んでいた。
何でも魔法で片づくはずだと思っていた頃なら、これを遠回りに見たかもしれない。
今日は、ミアさんの声が戻っていく方が面白かった。
「さっきより、違います。ここなら、広げた棚の端で比べられるかもしれません」
「じゃあ、次はその使い方で持っておいで。束の中を調べる仕事は、まだ私の指に残して」
「はい。……それ、書いてもいいですか」
「私の指、で? もっと立派な言葉もあるんじゃないの」
「いまの方が、忘れないと思うので」
トルナさんが、自分の緑の指を見て笑った。
ミアさんはその間に、少し曲がった字を一行、増やした。
*
荷を量る時には、三人で箱の底まで見た。
イーナさんが受け取る葉を選び、トルナさんが束の数を読む。俺は呼ばれた箱を秤へ載せ、数字が落ち着くまで手を離した。
帰りの箱は、全部で五十六キロ。
朝、俺の私物と一緒に量った空箱四キロも、ここへ含まれていた。
だから鞄へ入るのは、私物十六キロと、箱込みの荷五十六キロ。合わせて七十二キロだ。
空箱を、もう一つずつ足さなくてよかった。
「まだ二十八キロも入るの?」
数字を見て、ルカが鞄を覗いた。
「重さだけなら。でも、何でも詰めればいいとは言われてない」
「うん。今日の依頼より、お土産が多くならないようにね」
「まだ、買ってもいないのに」
そう返すと、トルナさんが隣の棚を指した。
「食べていい方は、あっち。台所で包んだ昼飯もあるよ。芋を挟んだパン、六銅」
俺とルカが、同じ方向を見た。
ミアさんまで、一拍遅れて目をやる。
「急に、みんな素直な顔だね」
イーナさんに言われ、俺たちは三人で笑った。
俺は、自分の六枚を払った。
朝の講習のあと百三十八だった財布は、百三十二銅になる。仕事の報酬は、まだ入っていない。それでも、この昼飯を買うつもりで歩いて来られたのが嬉しかった。
ルカもミアさんも、自分の分を選んで払う。
鞄に入るからと、誰かの財布まで一つになったわけではなかった。
芋の包みには、煮た玉ねぎが少し入っていた。
一口噛むと、皮の薄いパンから温かい塩気が出た。急いで飲み込むより先に、俺は水を飲んだ。
「これ、帰り道じゃなく、いま食べて正解でした」
ミアさんが、両手で包みを持って言った。
ルカが、パンを持ったまま、その横の手帳を覗く。
「教本の余白に、パンも載せる?」
「載せたいです。でも、私の魔法で温かいまま持ち帰れると書くのは、まだ出来ません」
「俺の鞄も、そこは普通です。入れた時間が止まるわけじゃないので」
「じゃあ、いま食べるのが一番強いね」
ルカが言い切って、次の一口を食べた。
変に格好よく聞こえたせいで、俺は笑いながら芋を落としかけた。
*
雨は、帰りの水門が見えた所で追いついてきた。
最初の粒が、鼻の横へ当たった。
ルカが空を見上げ、足を止めずに右を指す。
「門の手前、屋根がある。車は石の道のまま。畑側へ避けないで」
イーナさんは荷車の覆いを引き直した。瓶を積んだ車輪は、乾いて見える草より、石の上を選ぶ。
俺の鞄にも雨粒が落ちた。
中の薬草は、もともと乾いた物を、布と箱に収めている。鞄が、湿った葉を勝手に乾かしたわけではない。
だから、途中で濡れた物を放り込まずに済んだのがよかった。
向こうの屋根までは、三十歩もない。
石畳が続き、前には誰もいない。門を出てきた人たちは、先に反対側へ寄っていた。
ルカが俺の足を見る。
「靴、使える?」
「一回なら。今日はまだ使ってない」
「先に入って、荷を置ける所を見てきて。戻って車を引っ張らなくていいからね」
先回りして力仕事まで全部、と言いかけていた俺は口を閉じた。
速さが増えても、腕力が三倍になる靴ではない。
「分かった。空いてる入口を、こっちから知らせる」
俺は石畳を見て、靴の力を入れた。
一歩で、雨の線が長くなった。
頬へ当たる粒が、さっきより鋭い。鞄は肩で重たくならないのに、地面を蹴る脚には、ちゃんと力が要る。
前に人が出ないのを見て、もう一歩。
四秒を数えた所で、自分から速さを落とした。
屋根の手前で止まる。
濡れた石へ飛び込んで、勝手に滑らなくなる力まで期待しなかった。
最後の二歩は、普通に歩いた。
「こっち、入れます! 車は、柱の左へ!」
俺は入口の空いた側へ立って声を返した。
ルカが先に頷く。ミアさんは、イーナさんの車の横で道を空け、三人とも、少しして屋根へ入ってきた。
誰かが危険な所へ置き去りになる走り方ではなかった。
それでも俺の胸は、少しだけ忙しい。
「……七十二キロ持って走った人の息に、見えますか」
鞄を下ろして訊くと、ルカが濡れた前髪を払った。
「荷物に勝った顔。雨には、ちょっと負けた顔」
鼻の先から、雨が一滴落ちた。
ミアさんが笑いかけて、口元へ手を添える。
「すみません。いま、火が消えた時と同じ顔をしてます」
「今日は、顔の記録まで増えますね」
「そこは、私用の余白にします」
言われて、俺の方が少し返事に困った。
*
雨宿りの間、ミアさんは札を一枚、外の空気へ出した。
俺たちは荷を開けず、その端の色が変わるのを見た。さっきの乾燥小屋より、違いが分かりやすい。
でも、それを見て、全部の薬草が濡れたと騒ぐ人はいなかった。
何を近づけ、どの長さを置いた時の色なのか。ミアさんは自分で、横へ短く書き添えた。
「外の空気が変わったのを見て、箱の中まで同じだと思わない。今日、来なかったら、その一行を抜かしたと思います」
イーナさんが、荷車の覆いから水を落とした。
「持って帰る物、増えたね」
「はい。札は、同じ枚数なんですけど」
ミアさんが手帳を閉じた時、屋根の下が少し暗くなった。
水門の石壁の窪みには、小さな灯芯皿が置かれている。ミアさんが使ってよい物だとイーナさんへ確かめ、皿を寄せた。
俺の指を見てから、火を点けるかと訊く。
「ここで、俺が?」
「初めての庭以外でも、同じ大きさで止められるか。今なら、私が隣で見られます」
嬉しくて、すぐ掌を向けそうになった。
先に鞄と衣服の裾を離す。皿の周りに燃える物がないかを見て、教わった通り、息を細く吐いた。
制御補助を使う。
小さな橙が芯の先へ移った。
強い炎ではない。
俺の中から力が少し抜けた。便利な物を使っても、自分の力を使う感じは消えなかった。
送り続けず手を引くと、乾いた芯が、灯りを保った。
「点きましたね」
「はい。今度は、驚いて消さずに済みました」
ミアさんは笑い、皿の明かりで記録の端を確かめた。
朝、教わった小さな火が、雨の屋根の下へ来た。
ルカはその横で水筒を飲み、イーナさんは濡れなかった伝票を広げる。
誰か一人が全部やらなくても、いま必要な物が、少しずつ揃っていた。
*
雨脚が弱まると、俺たちはまた歩き始めた。
靴を使ってから一分は、もう十分に過ぎている。だからといって、残りの道を何度も走らなかった。
荷物が軽くても、歩く足は俺の足だ。瓶を積んだ車と、同じ速さで門へ向かう。
道の泥を避けて靴を踏み直すと、横からルカが覗いた。
「初仕事、どう?」
「報酬の前に答えていいなら、かなり楽しい」
「じゃあ、受け取ったあとは、もっといい顔してもらおう」
彼女が先へ笑い、俺もつられて笑った。
銀貨一枚は、まだ財布へ入っていない。
それでも、村の匂いと、火の点いた屋根と、教本を閉じて道を歩いたミアさんの顔は、先に自分の物になっていた。
町へ戻ると、イーナさんの倉庫の戸が開いた。
俺は箱を順に出し、出発前と同じように、数を一緒に読んだ。蓋の内側は乾いている。葉も潰れていない。
最後の箱を台へ下ろした時、肩には、鞄の布の感触だけが戻った。
「受け取るよ。次は、控えと代金を出すから、そこの席で少し待って」
イーナさんの声が、仕事の終わりの方へ変わった。
ミアさんは、戸口で一度だけ、村のある方を振り返った。
朝と同じ動きなのに、今度は、帰りたくて見る顔ではなかった。
「また、行けますね」
誰へともなく言われた言葉へ、ルカが先に返した。
「うん。次のお昼も、決めてからね」
俺は席へ鞄を置き、笑いながら頷いた。
四秒で駆けた所より、四人で帰って来た道の方を、長く覚えていそうだった。




