初めての火と、教本の外へ出る人
【前回までの人物】
・ハルト:一日一つ、三つの候補から転生特典を選ぶ旅人。足を速める靴と、重さを感じさせない百キロまでの鞄を持つ。
・ルカ:ハルトと知り合った護衛。翌朝、ハルトと同じ薬草運びの依頼で、道中の護衛を担当する。
・イーナ/メルク:薬草の運搬を頼んだ卸商と、登録・依頼紹介の窓口担当。仕事の報酬は、運搬と護衛それぞれ銀貨一枚。
朝が来ると、鞄は軽いのに、財布が少し軽くなっていた。
昨日の夕飯は、残してあった携帯食を食べた。もう一泊の部屋と水に十八銅、今朝のパンと汁に四銅。登録を終えた時の百六十八銅から引いて、残りは百四十六銅だ。
今日は銀貨一枚の仕事が待っている。
まだ手に入っていない五十銅を足したくなるが、俺は財布を閉じた。泊まれたし、食べた。減った分が全部、失敗の数字というわけでもない。
食堂の窓から、昨日と似た角度で陽が入った。
腕輪が、温かくなる。
初めて受け取った朝から二度目の二十四時間。俺は食べかけのパンを飲み込んでから、表示を開いた。
魔法制御補助。
旅人の外套。
火守りの鍋。
外套と鍋は、前にも選ばなかった物だ。いま持っていることにはならない。
新しい一行へ目をやると、その下に説明が続いた。
覚えた魔法を使う際、魔力の流し方のぶれを抑える。魔法そのものは教えない。威力や届く距離を増やさず、使う魔力も自分の物。知らない術を自動で発動する機能はない。
「……魔法、使えるのかな。俺も」
皿を下げに来たサンナさんが、俺の顔を見た。
「パンを見て言ってるなら、少し焼きすぎた?」
「違います。いい焼け方です。今、魔法を習いたくなって」
「それなら、パンに頼むより窓口の裏庭だね。火種や灯りの講習をする人がいるよ。粉置場で試さないでおくれ」
赤い前掛けの端が、笑った腹の動きで揺れた。
俺は礼を言い、制御補助を選んだ。腕輪が一度だけ強く光り、静かになる。
指を振っても、火は出なかった。
それが少し残念で、説明どおりなのも妙に嬉しかった。これから、自分で覚える物がある。
*
約束より早く窓口へ着くと、裏庭で、女の人が小さな火を消していた。
淡い灰茶の髪を顎の下で切り揃え、片方だけを耳へ掛けている。紺の上着の袖口には、色の違う糸で綴じた札が何枚も差してあった。
こちらを見て、持っていた金属皿を慌てて置こうとする。
だが、手を止めた。
冷めるまでの場所へ置き直してから、顔を上げた。
「講習ですか。それとも、荷の受付の方ですか」
「両方です。今日は荷を運ぶ前に、魔法を少し教わりたくて」
「私が担当します。ミア・リーネです。最初なら、火種を作るか、灯りを保つ所から。どこまで使えます?」
「一つも。道具は持っていますけど、自分の魔法は初めてで」
ミアさんの青灰色の目が、俺の腕輪から、顔へ戻った。
知らない、と答えた時に、もう説明を聞き終えた扱いにしない人だった。
「では、今日は一つにしましょう。短い体験で八銅です。集荷の方が始まる前までなら、出来ます」
「お願いします。火を、自分で点けてみたいです」
八枚を払うと、彼女は受取の欄に名を書いた。財布の残りは百三十八銅。二銀と三十八銅になった。
ミアさんは皿と、小さな乾いた芯を出す。
「まずは、魔力を出す感覚から。火を強くすることより、やめた時に止まる方を先に覚えます」
言い方は丁寧だが、教える場所へ立つと迷いが減った。
俺は荷を壁際へ置き、他の人が通る方へ掌を向けないよう立つ。
初めての魔法の一歩は、思ったより地味な姿勢だった。
*
「息を吐く時に、指の先まで、細い糸を通すつもりで」
言われて、俺は手を見た。
風が指の間を抜ける。何かを出そうとすると、肩と首へ力が入った。
「すみません。糸より、肩が先に出てます」
「はい。見えました」
ミアさんは即答して、それから少し困ったように笑った。
「あ、責めたのではなくて。私も最初は、腕を全部硬くしました。肘を机へ置いてみてください」
支えが出来ると、息が下まで入った。
彼女がもう一度示す。指先に、細い熱がある。俺の手へ触れるのではなく、自分の掌を横へ並べて見せてくれた。
俺は、熱そのものを真似するつもりで息を吐いた。
何も出ない。
もう一度。
指の付け根が、内側から温まった。
「今、そこです。いったん戻して。熱くなった手を、振って散らさないで」
声が少し強くなった。
俺は反射で指を開きそうになるのを止め、言われた通り、息を長く吐く。
温かさが薄くなる。
出した気がした物を、自分で引っ込められた。
「……分かったかもしれません」
「次も同じなら、もう少しだけ先へ。今の一回で、火をたくさん出そうとしなくて大丈夫です」
何度か繰り返し、小さい種を作る形を教わった。
頭の中へ呪文を丸ごと入れてもらったのではない。指の向きと、力を送る長さ。自分が何を止めるのかを、少しずつ覚えた。
最初の火は、青くも白くもなかった。
橙の小さな点が、乾いた芯の先で震えた。
「あっ」
声を出すと、消えた。
ミアさんの唇が、笑うのを我慢する形になった。
「いまの、俺が消しました?」
「驚いた方の息です。……でも、点きました」
最後の一言が、俺より少し嬉しそうだった。
俺は自分の指をもう一度見た。普通の指だ。昨日は粉袋を持ち、今日はパンを掴んだ。その先から、知らなかった物が出た。
胸が、急に忙しくなった。
*
制御補助を働かせたのは、そのあとだった。
覚えた形へ魔力を通すと、迷って横へ逸れそうになる感じが、指の内側で細くまとまった。
火は大きくならない。芯の先に、さっきと同じくらいの小さな橙が残る。
だが、声を出さずに息を吐き直しても、すぐに崩れなかった。
「……点いてる」
ミアさんの手が、記録帳の上で止まった。
「いま、何を変えました?」
「今朝もらった補助を。覚えた魔法を安定させる物で、さっきまでは使っていませんでした」
「補助具は腕輪ですか。いえ、火種の形を写す道具ではなく、流れの方へ――」
そこで彼女は口を閉じ、俺の掌を見た。
「火、止めてから話しましょう。私が先に聞きたくなりました」
俺は力を戻した。火が消える。
彼女が冷めた芯を摘まみ、顔へ近づけすぎずに眺めた。
「教本だと、初日は揺れる所まで記録するんです。でも、揺れない方を持つ人がいたら、何を覚える順にするか、少し変わりますね」
「先に、強い火へ行くとか?」
「先に、補助を止めた時も、自分で消せるか、です。大きい火を作れるのと、止められるのは、違う練習なので」
俺は頷いた。
便利な力を見て、彼女の積んできた物が、要らなくなったわけではない。
むしろ、俺には補助が何をしてくれているのか、違いを見てくれる目が要った。
もう一度だけ、補助を切って、小さい火種を点ける。揺れたが、止めることは出来た。
補助を入れると、細い火が、さっきより扱いやすくなる。
俺の中の力が減った感じも、ちゃんとあった。補助が消費の方まで代わってくれるのではなかった。
ミアさんは、今日はここまで、と皿を引いた。
「次の練習分まで使い切らなくていいです。今日、荷の仕事もあるんですよね」
「はい。……すみません。もう少しだけって言いそうでした」
「言われる前に、私が終わりにしたかったので」
珍しく、少し得意そうに笑った。
習った俺も嬉しい。教えた彼女も、自分の言葉が届いた顔をしている。
その二つを見比べる必要のない朝だった。
*
「火を出す顔じゃなくて、卵を増やしてもらった顔だ」
庭の入口から声がして、俺は顔を上げた。
ルカが、赤茶色の髪を揺らして立っている。剣帯を締め直した手に、今日の依頼の控えがあった。
「両方あったら、もっといい顔をする」
「そっちは今度ね。ミアさん、今日は朝の講習?」
窓口で何度か会ったことがあるのだと、ルカは俺へ教えた。ミアさんの方が、俺より先に少し笑った。
「はい。ハルトさんへ、火種の練習を。……あ、ルカさんが今日の護衛なんですか」
「うん。東の水門の先」
「私も、その村へ行くんです」
彼女は袖の札を一つ抜いた。窓口の講習を手伝うほか、町の小さな魔術講習所で、術式の試し札を作る仕事をしているという。
村の薬師へ、湿り具合を見る札を届ける。机の上で作った物が、実際の乾燥棚で同じように働くか、自分で見たいらしい。
「一人で行く日を、二度延ばしたんです。道が怖いのと、向こうで説明出来なかったらって。町では、教える方なのに」
「町で教えられる人が、全部の道を知ってたら、私の仕事なくなるよ」
ルカが、依頼の控えを指で弾いた。
「イーナさんと話してみる? 荷が増えるなら、ハルトも聞いて」
「俺は、重さを見てからですけど。一緒に道を見る人が増えるのは、嬉しいです」
ミアさんの口が、はい、と動いて、少し止まった。
教室の姿勢ではなく、自分の足で行くかを選ぶ人の顔だった。
*
荷の入口で、イーナさんが三人を見た。
ミアさんは自分の仕事の札を出し、行先と戻る時刻を話した。イーナさんは同じ村の薬師の名を読み、荷車の横を歩く位置を示した。
護衛を一人増やした扱いにはしない。札を運ぶ仕事の報酬はミアさんと講習所の間の物で、俺たちの一銀ずつとは別だ。
「行く先が同じなら、道は一緒でいい。ただ、戻るのを一人で遅らせないで。残りたいなら、村で泊まれるかを先に決めてくれ」
「昼には一緒に戻ります。もし札の方が終わらなければ、結果を持ち帰って、出直します」
ルカが、腰の剣の位置を直してミアさんへ向き直った。
「危ない時は、私の声を聞いて。術が使えるから前へ出る、じゃなくて、使う場所から相談してほしい」
「はい。離れた所へ届かせる術は、私は得意ではないです。近い所の調整なら、出来ます」
出来ることを、一つずつ持ち寄っている。
俺も、新しい補助があるから護衛を増やさなくていい、などとは言わなかった。
火種一つを点けられたことと、魔物を止める力は、別のことだった。
私物と空箱を、台の秤で量った。
毛布、水筒、替えの靴、地図。それにイーナさんの空箱を合わせて二十キロ。帰りの薬草は、箱込みで最大六十キロと確認出来た。空箱の重さを、帰りへもう一度足すことはしない。
百キロの上限まで、少なくとも二十キロ分は余る。
ミアさんの試し札は、彼女の袋のまま運ぶという。無理に俺の鞄へ全部集めなくてよかった。
イーナさんが箱の底へ乾いた布を敷くと、ミアさんは一枚だけ、試し札を近づけた。端の細い線は、まだほとんど色を変えない。
「これで、薬草が湿ってるか分かるの?」
「今は、決まった試し方で湿りが変わると色が違う、までです。薬草の種類でも違うか、先方で見てもらいたくて。札だけでは全部決められないので、匂いや手触りも教わりたいんです」
「なら、向こうの棚で聞くといい。根と葉じゃ、乾いた時の触り方も違うから」
ミアさんは頷き、札を元の袋へ戻した。嬉しそうに手帳へ手を伸ばし、開こうとした所で出発の列が動きかけると、慌てて袋へ戻す。
「……着いてから、書きます」
「一つ目の質問、もう出来たね」
ルカが笑うと、彼女も、はい、と笑った。教えに行く人の袋に、教わりたいことが一つ増えた。俺はその顔を見て、今朝の自分と少し似ていると思った。
メルクさんからは、朝の便が通れたことと、水門の先で荷を避ける場所を教わった。道が安全になったと断定する話ではなく、今朝届いた範囲の連絡だ。
俺は水筒の栓を締め直した。昨日の携帯食の包みはもう空だ。昼に何を食べるか、村で買える物も、帰りの時刻と一緒に訊いておこうと思った。
俺は札を受け取る手に、小さな火の熱が残っている気がした。
もう熱くはないのに、指を何度も見てしまう。
「最初の火、私も一晩くらい、何度も手を見ました」
隣で言われて、俺は笑った。
「顔に出てますか」
「手に、出ています。ずっと、指を開いたり閉じたりしているので」
先を歩いていたルカが、俺の動かす指を見て笑った。
「火の次は、ちゃんとその手でお昼を食べるからね。帰るまでに全部使わないでよ」
ルカが先に歩き出した。イーナさんの荷車が、門の方へ向きを変える。
俺も青い鞄を肩へ掛けた。
今日、手に入れたのは、勝手に火を出す指ではなかった。
教わる人がいて、隣で驚く人がいて、覚えた自分がいた。
ミアさんが庭を一度振り返り、それから門へ足を向けた。
教本の余白の先へ、今日は四人で行く。




