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6/30

初依頼は、帰りに寄り道できる距離で

 冒険者の仕事を紹介する建物には、ちゃんと入口が二つあった。


 一つは人の入口。もう一つは、荷車が入る広い戸だ。

 朝は看板を見ただけで帰ったから、そこまでは気づかなかった。いまは広い方から薬草の匂いが流れ、空の木箱を重ねる音がする。

 俺は青い鞄の肩紐を直した。

 剣を振って魔物を倒す仕事だけが、ここへ来るのではないらしい。


「登録は、こちらです。掲示板だけなら、入口の右からどうぞ」


 声を掛けてきた男は、青黒い短髪で、袖口に小さな紙留めを挟んでいた。カウンターの向こうで地図を広げ、別々の道へ色の違う札を置いている。


「初めて来ました。登録して、俺に出来そうな仕事があるか訊きたくて」

「メルクです。こちらの登録と便の紹介を担当しています。お名前は?」

「ハルトです」


 言うと、彼は紙の上へペンを置いた。


「どんな仕事をしてきましたか。剣の強さより、まず、最近自分で終えた物を聞きたいんです」


 強そうな肩書きを探していた頭が、そこで止まった。

 俺は昨日、道でルカの手伝いをしたことと、今朝、宿の粉を運んだことを話した。魔物は一人で倒したのではない。護衛の人が戦い、俺は足の速くなる道具で綱を運んだ。

 粉も、百キロ運びました、と盛らずに二十キロと伝えた。


「重さが苦にならない鞄ですか。それは見てから、運搬の方へ書きましょう。足の道具は、ずっと速く走れる?」

「三倍の速さで、長くて五秒です。一度使うと六十秒空ける必要があって、身体は疲れます」

「では、長い道を走り続ける急使にはしません。止まったり曲がったりするのは、ご本人次第で?」

「はい。そこは、普通に俺です」


 口にすると、なかなか頼りない説明になった。

 だがメルクさんは、そこで紙を裏返さなかった。


「分かりました。速い道具を持つ人が、全部同じように走れるなら、道の角は要らなくなりますからね」


 言いながら、自分の地図の角を紙留めで押さえ直す。

 俺は少し笑い、他の欄にも、出来ることと出来ないことを書いた。


     *


 登録札には、銅貨十枚が掛かった。


 今朝の昼と菓子を払った残りは、銀貨三枚と銅貨二十八枚。十枚を渡し、三枚と十八枚になる。

 一枚の銀貨で五十枚分だから、全部で百六十八枚。

 払えると分かっていても、札の代金を出す時は少し指が遅くなった。元が取れるかどうかを、食べる前から計算していた頃の癖だ。


「今日の仕事を、無理に一つ選ばなくても大丈夫ですよ」


 メルクさんが札を机へ置いた。


「荷主へ訊きたいことがあれば、先にここで相談出来ます。札を買ったその日に、無理に契約する決まりはありません」

「顔に、出てました?」

「財布を数えている方は、皆さん同じくらい真面目です」


 札を受け取ると、縁は指に痛くないよう丸めてあった。

 裏には番号がある。俺がこの世界で、何かの列へ自分で入った印だった。

 嬉しくなって何度も裏返していたら、後ろから声がした。


「それ、振っても報酬は落ちないよ」


 ルカだった。赤茶色の髪を短く束ね、手には依頼の紙を一枚持っている。


「まだ一回しか振ってない」

「三回見えた。私は、掲示板の方から」


 彼女は俺へ来る途中に、窓口で自分の紙を渡した。南へ向かう便が明後日以降にあるか、その照会だという。

 俺に会ったからといって、探していた道を勝手に捨てたわけではない。


「ハルトの、どこまで進んだ?」

「登録した。次、鞄を見せる所」

「じゃあ、私も見ていい? 私の返事、少し待つから」


 メルクさんが裏庭の戸へ手を向けた。

 俺は、どうぞ、と答え、もらった札を財布とは別の小袋へしまった。


     *


 裏庭には、箱を載せる台と、荷を検めるための白い布があった。


 メルクさんは空の木箱を一つ持ってきた。底を俺にも見せ、虫や生き物が入っていないことを確かめる。

 鞄の口より小さい箱だった。自分で持ち上げる時には重さがあり、口を通すと肩が軽くなる。


「……本当に入るんですね」


 彼の眉が上がった。

 ルカは、二度目に見るのに少し得意そうな顔をしている。


「出す方も、お願いします。荷主が居ないと開かない道具だと、紹介先が変わるので」


 言われて箱を思い浮かべ、取り出す。

 出てきた瞬間の重さを受け止め、台へ載せた。持ち上げる腕まで強くなったわけではない。メルクさんは箱の内側を見てから頷いた。


「中身が冷えるのを止めたりは?」

「しません。時間は進みます。毒も火も、そのまま危険です。生きた動植物は入れられません」

「なら、苗や鶏を頼む人には、普通の籠を使ってもらいましょう」


 新しい仕事の札を、一つだけ別へ寄せる。

 鞄が便利だから全て受けろ、ではなく、受けない物を分ける手つきだった。


 足の道具も、庭で短く見せることになった。

 見物人のいる表の通りへは出ない。メルクさんが荷を寄せ、ルカが向こうの出入口へ人が来ないか見た。

 俺は、端から端へ走ろうとして足を止めた。

 速さを見せたいのに、庭は短い。


「全力で一番向こうまで行かなくても、途中で戻せる?」


 ルカが尋ねた。


「途中で止めることは出来る。けど、足が勝手に止まるわけじゃない」

「じゃあ、走る長さじゃなくて、足を戻せる所まで見せたら。角の先まで速くても、ぶつかったら荷物を運べないよ」


 俺は、目印に置かれた空の台を見た。

 その手前で緩める。昨日、魔物の横を走り抜けた時のことを思い出す。あの時は綱を届ける先があった。今日は、止まる場所も自分で決める。


「行きます」


 靴の力を使った。

 土の上の細い影が、急に後ろへ流れる。二呼吸も数えないうちに力を切り、膝を使って速さを落とした。靴底が少し滑ったが、台まではまだ間がある。

 止まった時、肩が弾んだ。

 顔へ来る風が、ただ走った時よりずっと強かった。


「速い」


 メルクさんの声は、帳面に書く時とは違った。

 俺はつい、振り返って笑ってしまう。


「ちゃんと速いです。俺も、そこは嬉しいので」

「うん。顔まで戻ってくるのが早いね」


 ルカが笑い、台に触れず止まれた足元を見た。

 もう一回、と言いたくなったが、六十秒はまだ経っていない。俺は普通の速さで戻った。

 格好のいい最後にするより、ちゃんと使える所まで見てもらいたかった。


     *


 メルクさんが紹介した依頼主は、荷車の入口にいた。


 頭巾へ灰色混じりの栗髪を収め、木箱に緑の紐を掛けている女の人だった。乾いた薬草の匂いがする。俺が来るまで手を止めて待たず、紐を結び終えてから顔を上げた。


「イーナ。近くの村から薬草を集めて、町で卸してる。あんたが、軽く持つ鞄の人?」

「ハルトです。運ぶ物を先に見せてもらってもいいですか」

「いいよ。明日の分は、乾かした葉と根。苗は残して、別の便にする。そっちは、話を聞いた」


 彼女は箱の蓋を開いた。

 紙へ包まれた葉は、籠の中で潰れないよう薄板に挟んである。鞄なら包装も全部要らなくなるとは、言われなかった。


「重さは、合わせて六十キロまで。箱を分けてあって、一つは十キロを超えない。大きい箱を一度に抱える人を探してるんじゃないんだ」


 これなら、俺の腕で持ち上げられる。

 だが、俺の毛布や水筒も鞄へ入っている。百キロまでだから六十は大丈夫、と荷だけを数えず、私物の重さも確かめてから受けると伝えた。

 イーナさんは、そうしてくれ、とあっさり返した。


「俺が運ぶのは、帰りですか」

「そう。行きは空箱を持って、東の水門の先まで。歩いて片道一時間ほど。村で荷を受けて、昼には戻る。護衛も一人頼む」


 ルカが紙へ目を向けた。


「東の水門なら、私も何度か。今日は、道の話が出てた?」

「今朝の便は通ったよ。明朝の連絡も、ここで聞いてから出る。雨なら葉の扱いも変えるしね」


 分かっている道でも、昨日通れたから明日も同じとは限らないらしい。

 ルカは地図へ指を置き、川沿いの部分を訊いた。俺には分からない魔物の出方を二つ確認し、護衛の枠へ自分で手を挙げる。


「明日の昼までなら、私は行ける。南の便は、まだ返事待ちだから」


 声が弾んだ。

 俺の護衛をするために、仕方なく空ける一日ではなかった。


     *


 料金の紙は、運搬と護衛で分かれていた。


 俺へは往復の運搬で銀貨一枚。ルカへは護衛として別の一枚。道の変更や荷の追加がある時は、出発前にもう一度決める。

 受取は戻って荷を渡してから。今日の財布へ入る金ではない。


「仕事を分けるなら、俺、魔物が来ても、ずっと荷を抱えていた方がいいですか」


 俺が訊くと、ルカは首を振った。


「抱えてるより、鞄へ戻せる物は先に戻して。周りを見て、イーナさんと離れないでほしい。走って何か運ぶのは、必要な時に相談する」

「昨日みたいに、綱があったら?」

「綱があるか、走る場所があるかも違うからね。前に上手くいったから、今度も同じ、にはしない」


 イーナさんが、結んだ荷へ掌を置いた。


「私も、隠れる場所と馬のことなら見る。二人に頼んだからって、荷車の上で寝るつもりじゃないよ」


 メルクさんが、三人の集合時刻を紙へ足した。

 明朝、出発する前に荷の内訳と、帰る時刻をもう一度合わせる。俺は自分の控えへ、場所と、会う相手の名前も書いた。

 字が書けることと、この町の道を知っていることは違う。

 明日の俺が慌てないように、今の俺が聞いておく。


 イーナさんは空の試し箱を、俺の鞄へ入れて出すところまで見た。箱を受け取ると、角を確かめてから笑う。


「帰りの肩が軽いなら、私は嬉しい。あんたの初仕事が、葉っぱだらけで悪いね」

「匂いがいいので、嫌じゃないです」

「口へは入れるなよ。煮る前の薬草まで、おやつにしないで」


 ルカが横で笑った。

 俺は、今の昼飯の話をしたのかと彼女を見る。してない、と口だけで返され、余計に笑われた。


     *


 建物を出ると、午後の陽が少し傾いていた。


 札はある。依頼の控えもある。

 でも、まだ働いた分の金はなく、鞄は朝から持っている物のままだ。

 それなのに、足の裏の落ち着き方が違う。


「初めての仕事、思ったより近かった」


 俺が言うと、ルカは自分の控えを畳んだ。


「最初から遠くへ行かないと、冒険じゃない?」

「いや。昼に戻れるなら、午後、別の所も歩けるなって思った」

「いいね。私は、町に戻ったら剣を拭く」

「俺は、重さを量っておく。明朝、全部で何キロか分かるように」


 話しながら歩くと、仕事を引き受けたあとにも時間が残っていた。


 広場の角で、ルカが武具屋の札へ目を留めた。南の大会で使う剣帯と似ている、と足を緩める。

 俺も立ち止まった。彼女は値札を見て、今日は買わない、と決めたが、店の場所はちゃんと覚えていた。

 依頼の帰りに何を食べるかだけではない。稼いだ分で少しずつ、自分の行きたい場所へ近づく人が、隣を歩いている。

 明日の仕事は、俺の登録後の一件目であり、ルカには試合へ向かう旅の途中の一件だ。同じ紙に名前があっても、その先の楽しみまで一つに揃える必要はなかった。


 登録の金を払ったからと、今晩の楽しみまで我慢しなければいけない気がしていた。その思い癖へ、昨日から何度も足が引っ掛かる。


「帰りに、風見亭へ寄るでしょ」


 ルカが言った。


「泊まってるからね」

「明日の帰り。焼き菓子が残ってるか、聞いておかない?」


 木の実の端を噛んだ時の音が、急に口の中へ戻った。

 俺は自分の分が真ん中だったことまで思い出し、彼女を見る。


「ルカ、また端が欲しい?」

「うん。今度は自分で買う。ハルトが見つけてくれたから、私も覚えた」


 さらりと返された。

 俺が誰かへ渡した物が、次の約束の方から戻ってくる。

 それが嬉しくて、もう一度だけ鞄の肩紐を持ち直した。


 明朝の特典が何かは、まだ知らない。知らない能力を当てにして、依頼の欄を増やしもしなかった。

 いま持っている靴と鞄で行ける道が、もう一つ決まった。

 帰りに寄り道をするつもりで歩けるくらいの、ちゃんと楽しみな道だった。

 冒険者の仕事を紹介する建物には、ちゃんと入口が二つあった。


 一つは人の入口。もう一つは、荷車が入る広い戸だ。

 朝は看板を見ただけで帰ったから、そこまでは気づかなかった。いまは広い方から薬草の匂いが流れ、空の木箱を重ねる音がする。

 俺は青い鞄の肩紐を直した。

 剣を振って魔物を倒す仕事だけが、ここへ来るのではないらしい。


「登録は、こちらです。掲示板だけなら、入口の右からどうぞ」


 声を掛けてきた男は、青黒い短髪で、袖口に小さな紙留めを挟んでいた。カウンターの向こうで地図を広げ、別々の道へ色の違う札を置いている。


「初めて来ました。登録して、俺に出来そうな仕事があるか訊きたくて」

「メルクです。こちらの登録と便の紹介を担当しています。お名前は?」

「ハルトです」


 言うと、彼は紙の上へペンを置いた。


「どんな仕事をしてきましたか。剣の強さより、まず、最近自分で終えた物を聞きたいんです」


 強そうな肩書きを探していた頭が、そこで止まった。

 俺は昨日、道でルカの手伝いをしたことと、今朝、宿の粉を運んだことを話した。魔物は一人で倒したのではない。護衛の人が戦い、俺は足の速くなる道具で綱を運んだ。

 粉も、百キロ運びました、と盛らずに二十キロと伝えた。


「重さが苦にならない鞄ですか。それは見てから、運搬の方へ書きましょう。足の道具は、ずっと速く走れる?」

「三倍の速さで、長くて五秒です。一度使うと六十秒空ける必要があって、身体は疲れます」

「では、長い道を走り続ける急使にはしません。止まったり曲がったりするのは、ご本人次第で?」

「はい。そこは、普通に俺です」


 口にすると、なかなか頼りない説明になった。

 だがメルクさんは、そこで紙を裏返さなかった。


「分かりました。速い道具を持つ人が、全部同じように走れるなら、道の角は要らなくなりますからね」


 言いながら、自分の地図の角を紙留めで押さえ直す。

 俺は少し笑い、他の欄にも、出来ることと出来ないことを書いた。


     *


 登録札には、銅貨十枚が掛かった。


 今朝の昼と菓子を払った残りは、銀貨三枚と銅貨二十八枚。十枚を渡し、三枚と十八枚になる。

 一枚の銀貨で五十枚分だから、全部で百六十八枚。

 払えると分かっていても、札の代金を出す時は少し指が遅くなった。元が取れるかどうかを、食べる前から計算していた頃の癖だ。


「今日の仕事を、無理に一つ選ばなくても大丈夫ですよ」


 メルクさんが札を机へ置いた。


「荷主へ訊きたいことがあれば、先にここで相談出来ます。札を買ったその日に、無理に契約する決まりはありません」

「顔に、出てました?」

「財布を数えている方は、皆さん同じくらい真面目です」


 札を受け取ると、縁は指に痛くないよう丸めてあった。

 裏には番号がある。俺がこの世界で、何かの列へ自分で入った印だった。

 嬉しくなって何度も裏返していたら、後ろから声がした。


「それ、振っても報酬は落ちないよ」


 ルカだった。赤茶色の髪を短く束ね、手には依頼の紙を一枚持っている。


「まだ一回しか振ってない」

「三回見えた。私は、掲示板の方から」


 彼女は俺へ来る途中に、窓口で自分の紙を渡した。南へ向かう便が明後日以降にあるか、その照会だという。

 俺に会ったからといって、探していた道を勝手に捨てたわけではない。


「ハルトの、どこまで進んだ?」

「登録した。次、鞄を見せる所」

「じゃあ、私も見ていい? 私の返事、少し待つから」


 メルクさんが裏庭の戸へ手を向けた。

 俺は、どうぞ、と答え、もらった札を財布とは別の小袋へしまった。


     *


 裏庭には、箱を載せる台と、荷を検めるための白い布があった。


 メルクさんは空の木箱を一つ持ってきた。底を俺にも見せ、虫や生き物が入っていないことを確かめる。

 鞄の口より小さい箱だった。自分で持ち上げる時には重さがあり、口を通すと肩が軽くなる。


「……本当に入るんですね」


 彼の眉が上がった。

 ルカは、二度目に見るのに少し得意そうな顔をしている。


「出す方も、お願いします。荷主が居ないと開かない道具だと、紹介先が変わるので」


 言われて箱を思い浮かべ、取り出す。

 出てきた瞬間の重さを受け止め、台へ載せた。持ち上げる腕まで強くなったわけではない。メルクさんは箱の内側を見てから頷いた。


「中身が冷えるのを止めたりは?」

「しません。時間は進みます。毒も火も、そのまま危険です。生きた動植物は入れられません」

「なら、苗や鶏を頼む人には、普通の籠を使ってもらいましょう」


 新しい仕事の札を、一つだけ別へ寄せる。

 鞄が便利だから全て受けろ、ではなく、受けない物を分ける手つきだった。


 足の道具も、庭で短く見せることになった。

 見物人のいる表の通りへは出ない。メルクさんが荷を寄せ、ルカが向こうの出入口へ人が来ないか見た。

 俺は、端から端へ走ろうとして足を止めた。

 速さを見せたいのに、庭は短い。


「全力で一番向こうまで行かなくても、途中で戻せる?」


 ルカが尋ねた。


「途中で止めることは出来る。けど、足が勝手に止まるわけじゃない」

「じゃあ、走る長さじゃなくて、足を戻せる所まで見せたら。角の先まで速くても、ぶつかったら荷物を運べないよ」


 俺は、目印に置かれた空の台を見た。

 その手前で緩める。昨日、魔物の横を走り抜けた時のことを思い出す。あの時は綱を届ける先があった。今日は、止まる場所も自分で決める。


「行きます」


 靴の力を使った。

 土の上の細い影が、急に後ろへ流れる。二呼吸も数えないうちに力を切り、膝を使って速さを落とした。靴底が少し滑ったが、台まではまだ間がある。

 止まった時、肩が弾んだ。

 顔へ来る風が、ただ走った時よりずっと強かった。


「速い」


 メルクさんの声は、帳面に書く時とは違った。

 俺はつい、振り返って笑ってしまう。


「ちゃんと速いです。俺も、そこは嬉しいので」

「うん。顔まで戻ってくるのが早いね」


 ルカが笑い、台に触れず止まれた足元を見た。

 もう一回、と言いたくなったが、六十秒はまだ経っていない。俺は普通の速さで戻った。

 格好のいい最後にするより、ちゃんと使える所まで見てもらいたかった。


     *


 メルクさんが紹介した依頼主は、荷車の入口にいた。


 頭巾へ灰色混じりの栗髪を収め、木箱に緑の紐を掛けている女の人だった。乾いた薬草の匂いがする。俺が来るまで手を止めて待たず、紐を結び終えてから顔を上げた。


「イーナ。近くの村から薬草を集めて、町で卸してる。あんたが、軽く持つ鞄の人?」

「ハルトです。運ぶ物を先に見せてもらってもいいですか」

「いいよ。明日の分は、乾かした葉と根。苗は残して、別の便にする。そっちは、話を聞いた」


 彼女は箱の蓋を開いた。

 紙へ包まれた葉は、籠の中で潰れないよう薄板に挟んである。鞄なら包装も全部要らなくなるとは、言われなかった。


「重さは、合わせて六十キロまで。箱を分けてあって、一つは十キロを超えない。大きい箱を一度に抱える人を探してるんじゃないんだ」


 これなら、俺の腕で持ち上げられる。

 だが、俺の毛布や水筒も鞄へ入っている。百キロまでだから六十は大丈夫、と荷だけを数えず、私物の重さも確かめてから受けると伝えた。

 イーナさんは、そうしてくれ、とあっさり返した。


「俺が運ぶのは、帰りですか」

「そう。行きは空箱を持って、東の水門の先まで。歩いて片道一時間ほど。村で荷を受けて、昼には戻る。護衛も一人頼む」


 ルカが紙へ目を向けた。


「東の水門なら、私も何度か。今日は、道の話が出てた?」

「今朝の便は通ったよ。明朝の連絡も、ここで聞いてから出る。雨なら葉の扱いも変えるしね」


 分かっている道でも、昨日通れたから明日も同じとは限らないらしい。

 ルカは地図へ指を置き、川沿いの部分を訊いた。俺には分からない魔物の出方を二つ確認し、護衛の枠へ自分で手を挙げる。


「明日の昼までなら、私は行ける。南の便は、まだ返事待ちだから」


 声が弾んだ。

 俺の護衛をするために、仕方なく空ける一日ではなかった。


     *


 料金の紙は、運搬と護衛で分かれていた。


 俺へは往復の運搬で銀貨一枚。ルカへは護衛として別の一枚。道の変更や荷の追加がある時は、出発前にもう一度決める。

 受取は戻って荷を渡してから。今日の財布へ入る金ではない。


「仕事を分けるなら、俺、魔物が来ても、ずっと荷を抱えていた方がいいですか」


 俺が訊くと、ルカは首を振った。


「抱えてるより、鞄へ戻せる物は先に戻して。周りを見て、イーナさんと離れないでほしい。走って何か運ぶのは、必要な時に相談する」

「昨日みたいに、綱があったら?」

「綱があるか、走る場所があるかも違うからね。前に上手くいったから、今度も同じ、にはしない」


 イーナさんが、結んだ荷へ掌を置いた。


「私も、隠れる場所と馬のことなら見る。二人に頼んだからって、荷車の上で寝るつもりじゃないよ」


 メルクさんが、三人の集合時刻を紙へ足した。

 明朝、出発する前に荷の内訳と、帰る時刻をもう一度合わせる。俺は自分の控えへ、場所と、会う相手の名前も書いた。

 字が書けることと、この町の道を知っていることは違う。

 明日の俺が慌てないように、今の俺が聞いておく。


 イーナさんは空の試し箱を、俺の鞄へ入れて出すところまで見た。箱を受け取ると、角を確かめてから笑う。


「帰りの肩が軽いなら、私は嬉しい。あんたの初仕事が、葉っぱだらけで悪いね」

「匂いがいいので、嫌じゃないです」

「口へは入れるなよ。煮る前の薬草まで、おやつにしないで」


 ルカが横で笑った。

 俺は、今の昼飯の話をしたのかと彼女を見る。してない、と口だけで返され、余計に笑われた。


     *


 建物を出ると、午後の陽が少し傾いていた。


 札はある。依頼の控えもある。

 でも、まだ働いた分の金はなく、鞄は朝から持っている物のままだ。

 それなのに、足の裏の落ち着き方が違う。


「初めての仕事、思ったより近かった」


 俺が言うと、ルカは自分の控えを畳んだ。


「最初から遠くへ行かないと、冒険じゃない?」

「いや。昼に戻れるなら、午後、別の所も歩けるなって思った」

「いいね。私は、町に戻ったら剣を拭く」

「俺は、重さを量っておく。明朝、全部で何キロか分かるように」


 話しながら歩くと、仕事を引き受けたあとにも時間が残っていた。


 広場の角で、ルカが武具屋の札へ目を留めた。南の大会で使う剣帯と似ている、と足を緩める。

 俺も立ち止まった。彼女は値札を見て、今日は買わない、と決めたが、店の場所はちゃんと覚えていた。

 依頼の帰りに何を食べるかだけではない。稼いだ分で少しずつ、自分の行きたい場所へ近づく人が、隣を歩いている。

 明日の仕事は、俺の登録後の一件目であり、ルカには試合へ向かう旅の途中の一件だ。同じ紙に名前があっても、その先の楽しみまで一つに揃える必要はなかった。


 登録の金を払ったからと、今晩の楽しみまで我慢しなければいけない気がしていた。その思い癖へ、昨日から何度も足が引っ掛かる。


「帰りに、風見亭へ寄るでしょ」


 ルカが言った。


「泊まってるからね」

「明日の帰り。焼き菓子が残ってるか、聞いておかない?」


 木の実の端を噛んだ時の音が、急に口の中へ戻った。

 俺は自分の分が真ん中だったことまで思い出し、彼女を見る。


「ルカ、また端が欲しい?」

「うん。今度は自分で買う。ハルトが見つけてくれたから、私も覚えた」


 さらりと返された。

 俺が誰かへ渡した物が、次の約束の方から戻ってくる。

 それが嬉しくて、もう一度だけ鞄の肩紐を持ち直した。


 明朝の特典が何かは、まだ知らない。知らない能力を当てにして、依頼の欄を増やしもしなかった。

 いま持っている靴と鞄で行ける道が、もう一つ決まった。

 帰りに寄り道をするつもりで歩けるくらいの、ちゃんと楽しみな道だった。

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