旅に持っていきたい味
【前回までの人物】
・結城晴斗:異世界で二日目を迎えた青年。疾風の靴に続き、百キロまで運べる収納鞄を受け取った。
・ルカ・フェリス:旅費を稼ぎながら南の剣の試合を目指す剣士。午前は報酬受取と剣の手入れの予定があり、時間が合えば昼も風見亭へ戻ると話した。
・サンナ:風見亭の女将。晴斗の鞄で粉袋を運んでもらい、昼の仕込みを進めている。
昼の少し前に風見亭へ戻ると、扉の向こうから香ばしい匂いが来た。
肉を焼く匂いの奥に、何か酸っぱいものがある。
朝、玉葱の汁を食べた時とは違う匂いだった。俺は入口の板に書かれた値段を見てから、もう一度鼻から息を吸った。
鞄が軽くなったから、町を歩いてみた。広場と、仕事を紹介する建物の場所も確かめた。だが、そのまま昼を後回しにして用事を増やすのは、やめた。
ここへ戻る約束も、自分で選んだ用事の一つだ。
「お帰り。青い鞄まで、ちゃんと帰ってきたね」
サンナがカウンターの向こうから笑った。赤い前掛けには、朝とは違う場所へ粉が付いている。
「中の毛布も一緒です。昼、もう頼めますか」
「六枚の皿なら出せるよ。今日は鶏の焼いたのと豆。パンも付く」
銅貨六枚を渡した。財布の中は銀貨三枚と銅貨三十四枚になった。
ルカはまだ戻っていない。午前は報酬を受け取り、刃の手入れを頼むと言っていた。俺は彼女が必ず来るという顔で二人分を頼まず、一人分だけ注文した。
「そこの席で待ってて。料理の人が、いま皿へ載せてるところだから」
窓際へ座ると、腰の青い鞄が椅子へ少し当たった。肩紐を短くしても、座る時は置き直す必要がある。
便利な物が一つ増えただけで、何も考えなくてよくなるわけではないらしい。
鞄を膝へ移したところで、厨房の戸が開いた。
*
皿を運んできた女の人には、頭の上にも耳があった。
蜂蜜色の髪の間から、同じ色の三角の耳が立っている。髪は短い編み込みにして襟元へ留め、白い上着の袖は肘より上で止めていた。紺の腰前掛けの下で、ふさふさした尾が、椅子の脚を避けるように動く。
見てしまった、と気づいた時には、その人と目が合っていた。
「お待たせしました。……あ、皿の方、熱いので。先に、こっちを見てくださいね」
俺は慌てて両手を膝へ戻した。
「すみません。こういう耳の方に、初めて会ったので」
「そうなんですね。私は狼の獣人です。ロッタ・ヴェイル。いま、ここの台所で働いてます」
彼女は皿を置き、熱い縁に触れない位置へ匙を添えた。
「ハルトです。昨日から泊まってます」
「はい。サンナさんから、粉を運んでくれた方だって聞きました。おかげで、お昼に間に合いましたよ」
朝、奥から鍋が空いたと答えた声だった。
声だけ知っている人の姿と仕事が、一枚の皿の向こうで繋がった。
「お肉には赤い実のたれを少しかけてあります。苦手だったら、別に出すので言ってください」
「さっきから、いい匂いがしてたのは、それですか」
ロッタさんの耳が少し上を向いた。
「たぶん。先に匂いで気づいてもらえると、嬉しいですね。酸っぱいですけど、ひと口、試してみてください」
焼き色の付いた端を、匙で小さく分けた。
表面は香ばしく、噛むと肉汁が出る。そのあとで、舌の脇へきゅっと酸味が来た。甘さもあるが、肉を甘い菓子みたいにはしていない。
もうひと口食べたくなる味だった。
「うまいです。これ、実だけでも食べられるんですか」
「食べられます。でも、いま口へ入れると、さっきのお顔よりずっと酸っぱい顔になりますよ」
そんな顔をしたつもりはなかった。ロッタさんが自分の目元を少し細めてみせると、思い当たって笑ってしまった。
「肉の脂と一緒だと、ちょうどよくなるんです。豆にも少し、混ぜてみてください」
厨房から、小さく鍋の蓋が鳴った。
ロッタさんはそちらを振り返り、失礼しますね、と戻っていく。俺が感想を言うまで、ずっと席の横で待っているわけではない。
その背中の向こうに、昼飯を待つ人たちの仕事があった。
*
豆まで皿からなくなった頃、台所の戸口へ小さな籠が出てきた。
中には、木の実を混ぜた丸い焼き菓子が並んでいる。朝のパンより濃い匂いに、俺は匙を置いた。
昨日のルカとの約束が、先に頭へ浮かんだ。
うまいものを教える。見つけたら、覚えておく。
この世界へ来てまだ二日しか経っていない俺が、自分から渡せる物だ。
ロッタさんが、籠の横へ薄い木の板を二枚置いた。その上に一つ載せ、しばらく見てから、別の包みへ移す。
「それも、売ってる物ですか?」
俺がカウンターへ近づくと、ロッタさんは板を下へ置いた。
「はい。一つ三枚です。持って帰る方がいるので、包み方も変えてみてるんですけど」
指先で包みを持ち上げると、底へ少し油が透けていた。
「薄い方だけだと、鞄の中が困ったことになりそうで。味はよくても、服まで木の実の匂いにしたくはないでしょう」
「分かります。今朝、靴を包んで入れたばかりです」
ロッタさんの目が、青い鞄へ動いた。
「その鞄、粉が軽くなったって聞きました。中は、冷めなかったりもするんですか?」
「いえ。冷めます。時間も、そのまま進むそうです。熱い物を無事な物に変えてもくれません」
「じゃあ、普通に冷まして包んだ方がいいですね。急いで閉じると、中が湿りますし」
惜しいなあ、と笑ったあと、彼女は包みの脇を開けた。
俺の道具へ新しい能力を期待し続けず、自分の知っている菓子へ手を戻した。その手つきが、なんだか気持ちよかった。
「ロッタさんは、ここで料理を覚えたんですか」
「最初は実家の宿です。いまは、よその味を覚えたくて旅をしてます。ここでも、火の使い方がうちと少し違うんですよ」
籠の中の一つを、彼女は裏返した。底の焼き色を見せてもらう。
「家の竈だと、この大きさでは真ん中が先に膨らんだんです。同じように並べたら、最初の分は端を焼きすぎました」
「じゃあ、これ、ここの竈に合わせて変えたんですね」
「ええ。旅をしてるのに、家と同じ物ばっかり作っても、もったいないでしょう」
ロッタさんは、裏返した菓子を自分用の皿へ戻した。売る籠へ、触った物をそのまま混ぜない。
自分の味がある人でも、よその土地へ来て試している。
仕事か遊びかのどちらかへ分けない旅が、目の前にあった。
俺が広場で見た荷車にも、同じような色の実が載っていた。知らない食べ物だ、と通り過ぎた時には、固くて酸っぱい物の山にしか見えなかった。
いまなら、肉へかけた匂いと、豆をもう一匙食べた時の味が付いている。土地を覚えるのは、地図の文字を増やすことだけではないらしい。
次にあの荷車を見つけたら、どこで採れる実なのかも訊いてみたかった。
俺は一つ買うつもりで財布を開き、二人で分けるところを考えた。
ルカに渡す分と、自分が一緒に味を知る分。
銅貨六枚を出すと、ロッタさんが二つを板へ移した。
「冷めた分でよければ、今すぐ包めます。食べるのは、今日ですか?」
「はい。この宿で。一つは、教えてもらった物があって、そのお返しに」
「でしたら、崩れないようにだけ。持って遠くへ行く分とは、分けましょう」
俺はもう一度、財布を数えた。銀貨三枚、銅貨二十八枚。
今日、幾つまで買って大丈夫かは、自分で決めることだ。便利な鞄をもらっても、財布まで底なしにはなっていない。
なのに二つ買ったことを、後悔してはいなかった。
*
ルカが戻ってきた時、俺はまだ包みを鞄へ入れていなかった。
窓際の机に置き、触って熱くないか確かめていたところだった。赤茶色の髪を束ねた彼女が、机の上と俺を見比べる。
「お土産の練習、もう始めてたの?」
「練習じゃないよ。ちゃんと買った」
「え、私に?」
いつもの軽い声が、そこで少し上がった。
俺は片方を、向かいの席へ押した。
「昨日の約束。俺も食べたことないから、お勧めだって言い切るのは、これからだけど」
ルカは包みを見てから、腰の剣を椅子へ当てない向きに座った。
「じゃあ、二人とも初めてだ。……嬉しい。ありがとう」
真っすぐ返されると、用意していた冗談が少し遅れる。
「先に、昼飯は?」
「まだ。菓子からでも、私は平気だけど」
その時、サンナが籠を持って横を通った。
「六枚の皿、まだ一つ出せるよ。お菓子は逃げないからね」
「じゃあ、そっちもお願いします」
ルカは自分で代金を払い、剣を預けていた間の話をした。刃の手入れは済んだこと。今日は南へ出るちょうどよい仕事がなかったこと。次にどこへ行くかは、まだ自分で選べること。
俺は聞きながら、包みの端を折り直した。
このまま同じ町にいることが決まったわけではない。だから、またいつかで済ませずに、今日は渡せてよかった。
昼皿を運んだロッタさんへ、ルカが顔を上げた。
「さっきの焼き菓子、作った方ですか?」
「はい。ロッタです。今日は底を焦がさずに済みました」
「ルカです。これ、あとで食べるのを楽しみにしてます」
料理を置くロッタさんの尾が、椅子の隙間へ入りかけ、すぐ戻った。
「あ、失礼。ここ、つい狭く見積もるんです。ルカさんの椅子、少しだけ通してもらえますか」
ルカが身体を寄せると、彼女は皿を持つ手を動かさず、半歩外を回った。俺も自分の鞄を足元から膝へ上げる。
俺の鞄があった場所を通り、ロッタさんは軽く礼を言った。代わりに上げた鞄が膝の上でひどく軽くて、俺は口元を緩める。
尻尾を踏まないために役立つのは、さすがに選ぶ時には思いつかなかった。今日は思っていたより、たくさんの所で使っている。
*
焼き菓子は、割ると中から木の実の匂いが強く出た。
ルカが片方を口へ運び、目を閉じた。
「……これ、端が好き」
俺も自分の分を噛んだ。表面はさっくりしているのに、真ん中には柔らかさが残っている。噛み砕いた木の実の香りが、甘さのあとに来た。
昼皿のたれとは、全然違う味だった。
「俺、真ん中かな」
「じゃあ、取り合いにならないね」
ルカは自分の菓子を、ほんの少し持ち上げて見せた。俺の分を当然のように取りはしなかった。
食べ終わったあとで、厨房から戻ったロッタさんへ、ルカが端の話をする。
「そこ、残したかったんです。割れても困るし、柔らかすぎても物足りないしで」
「持って歩けて、この端が残るなら、試合の帰りに欲しいな」
ロッタさんは空の包みを見た。
味の話を聞いていた顔が、次に作る物を考える顔へ変わる。
「試合の帰り。……そうか。歩く人だけじゃなくて、荷物が増えた人も買いますね」
「俺なら、増やすために買います」
青い鞄へ掌を置くと、二人とも笑った。
「それは、作りがいがありますね。ただ、中で冷めるのは忘れないでくださいね」
「はい。今日の分は、もう冷める前に無くなりました」
ルカが残った欠片を口へ放り込んだところだった。
笑おうとして飲み込むまで待つ顔が、さっき剣の手入れの話をしていた時より、少し子どもっぽく見える。
俺はそれを指摘せず、自分の指に付いた木の実の欠片を拾った。
*
食堂の窓から、広場へ向かう人が見えた。
ロッタさんは昼の片づけへ戻り、ルカは紙に書いた仕事の場所を見直している。
俺は鞄から、今朝歩いて確かめた道のメモを出した。仕事を紹介する建物と、宿からの曲がり角。まだ登録したわけでも、明日の報酬が決まったわけでもない。
「午後、冒険者の窓口へ行ってみる。俺に何が出来るか、相談したいんだ」
「いいね。場所、分かった?」
「広場の先。入口の看板まで見てきた」
「じゃあ、迷っても一つ前の角までは戻れるね」
彼女は、自分がいないと辿り着けない道にはしなかった。
俺も、ついてきてと言う前に、自分のメモを確かめられた。
「次は、働いてから食べる飯かな」
「今日だって、朝は粉を運んだでしょう。お試しでも、あの粉はちゃんとお昼になったよ」
厨房の方へ顔を向けると、ロッタさんが次の生地をのばしていた。
朝、肩から消えた二十キロが、知らない人の昼飯になっている。そのうちの一皿を、自分も食べた。
仕事の前に楽しんでしまった、と胸のどこかで数えていた俺は、その順番を一度ほどいた。
明日何をもらえるかも、まだ知らない。
でも今日、人へ教えたい味なら、一つ覚えた。
青い鞄には、包みを小さく畳んで入れた。次に同じ菓子を見つけた時、ちゃんと思い出せるように。




