ベルカの町と、六枚の昼ご飯
【前回までの人物】
・結城晴斗:疾風の靴で荷車の退避を手伝った、旅立ち初日の青年。ベルカへ向かう荷車に乗せてもらっている。
・ルカ・フェリス:旅費を稼ぎながら旅をする剣士。南の都市の剣の試合に出るのが目標。晴斗と連携して獣を退かせた。
・ヤーン:ベルカと宿場の間を走る御者。荷車と馬の状態を確かめ、晴斗に後ろの腰掛けを勧めた。
町の門を通るとき、俺は荷車から降りた。
「ハルト? 門、乗ったまま通れるよ」
ルカが笑った。
赤茶色の髪を短く束ねた剣士は、荷台の縁へ手を置き、軽く地面へ降りてくる。俺の方は、固くなった尻をさすりたい気持ちを、どうにか抑えていた。
「せっかく最初の町なので、自分の足でも。……尻も、少し休ませたくて」
ルカは荷台の板を見てから、口元を押さえた。
「そっちは分かる。うん、そういう入り方、私も好き」
普通の声で言うから、返事が少し遅れた。
「……町へ入る方の話ですよね」
「ほかにもあった? 尻が痛い方は、好きじゃないよ」
ルカは答えを待たず、番所の小窓へ歩いていった。
俺は肩掛け鞄を持ち直し、その後を追った。
女神にもらった生成りのシャツに、街道の砂の匂いがついている。
門の向こうからは、それとは違う匂いが来ていた。
焼けた肉と、何かの香草。
人の住んでいる匂いだった。
*
番所の兵士は、ルカの話を聞くと地図を出した。
「場所は、この倒木を除いた辺り? それとも、もっと東かな」
地図へ鉛筆を置いた兵士に、ルカが位置を示した。
「二つ目の退避場所より西。そこ、まだ車輪が落ちるくぼみも残ってる」
ルカが紙の上へ指を置く。
ヤーンも馬を止め、車輪の状態と、猪が引き返した向きを説明した。
「石牙猪は一頭。後ろ脚を傷めたけど、倒してはいない」
兵士が書き留め、別の兵士へ声を掛けた。
俺にも、どの位置で綱を持っていたかを尋ねる。見ていないことまで答えなくていい、と先に言ってくれた。
「道の曲がり角の奥から来たかは、俺は分かりません。草むらから出るところを見ました」
「分かった。出てきた所は、そこだね。ありがとう、見回りにも伝えておく」
報告が終わると、ルカは肩を一度回した。
「……よし。これで、今日の護衛はおしまい。ご飯にしよう」
剣を鞘へ入れたところでは、まだ仕事が終わっていなかったのだ。
俺は、町の内側を見た。
道は思っていたより広い。
馬と荷車が通る真ん中には、轍が二本続いている。端の石を敷いた所を、籠や鍋を持った人が歩いていた。
門を抜けたばかりの俺は、両方の間へ半端に立っていたらしい。
「ハルト、こっち」
ルカに袖を軽く引かれ、石の上へ寄る。
ちょうど背中の方を、樽を載せた荷車が通った。
「あ、すみません。端、ですね」
荷車の風にシャツの裾が揺れた。ルカは俺の袖を離す。
「慣れるまでは、私と同じ側を歩いて。……今のは、ちょっとひやっとした」
言葉は全部、分かる。
けれど、足を置く場所は、それだけでは分からなかった。
ヤーンは荷を下ろすため、別の道へ曲がるという。
俺は馬から少し離れて、頭を下げた。
「乗せていただいて、ありがとうございました」
「こっちも助かった。町で顔を見たら、また声を掛けてくれ」
綱を引いた一瞬だけで終わる相手ではないらしい。
それが、少し嬉しかった。
荷車が去ると、俺の腹が鳴った。
かなり、はっきりと。
ルカが、剣の柄ではなく、自分の腹へ手を置いた。
「よかった。私だけじゃなかった」
*
最初にした買い物は、まだ、買い物ではなかった。
まず、自分の持っている金を確かめるところからだった。
ルカが人通りの少ない壁際を選んでくれた。
俺は小袋を開け、掌へ少しずつ硬貨を出した。
銀色の物が四枚。赤っぽい物が十八枚。
色だけで全部同じ値段だと決めつけるほど、俺も勇敢ではない。
「ルカさん、これ、昼飯と宿くらいは足りますか。枚数しか、まだ分からなくて」
ルカは硬貨を一枚ずつ見た。
「銀貨は一枚で銅貨五十枚。この辺りで使える物だよ。違う土地の硬貨は、同じ色でも確かめた方がいいけど」
「五十が四つに、十八で……二百十八枚分か」
「お、そっちは速い」
ルカが目を丸くしたので、俺は靴の先を動かした。
「こっちは履いてなくてもできます。……たぶん」
笑ってもらえた。
この町で最初に確認できた、自前の能力だった。
「お昼なら、銅貨五、六枚くらい。肉を増やせば、もう少し。宿は部屋次第だから、先に聞こう」
二百十八枚が、ただの数字ではなくなってきた。
毎日食べて、毎日泊まれば減る金だ。
だが、門をくぐった途端、何も出来なくなるような額でもない。
「じゃあ、まず昼飯と今夜の部屋を探せば、足りますよね」
「足りるよ。ほら、まだ今夜の分も払ってないのに、来週の顔をしないの」
ルカが前を向く。
俺も小袋の口を結び、鞄の内側へしまった。
この世界へ来てから何をするか、考えることは幾らでもあった。
でも、その最初が昼飯なら、かなり取り掛かりやすい。
*
風見亭の看板には、魚が描かれていた。
「町の塔と、お揃いなんですね」
「そう。鳥じゃないのが気になった?」
「ちょっと」
「私も、初めて来たとき聞いた。理由は、中で聞こう。私の説明より、サンナさんの方が長いから」
扉を開けると、温かい空気が頬に当たった。
梁から香草の束が吊ってある。窓際では、昼の食事を終えた男たちが、空の器を重ねていた。
奥からは、鍋底を匙でこする音がする。
「お帰り、ルカ。今日は早いね。……お連れさんも、お腹空いてる顔だ」
出てきたのは、髪を布でまとめた女将だった。
赤い前掛けの端で手を拭き、俺を見て、ルカへ目を戻す。
「道で助けてもらったの。ハルト、旅人だよ。部屋も探してるって」
ルカに背を押すように紹介され、俺は頭を下げた。
「はじめまして。結城……ええと、ハルトです」
名字まで言うべきか迷って、変なところで止まった。
女将は気にせず、壁の札を指した。
「サンナよ。今夜なら、一人部屋が一つ空いてる。寝床と宿の水で、銅貨十八枚。食事は別。部屋を見てから決めていいよ」
いきなり部屋の鍵を渡さないのが、ありがたかった。
俺は、まず昼飯の値札を見た。
豆と肉の煮込み、パンつき。銅貨六枚。
「この、煮込みをお願いします」
俺が札を指すと、サンナは隣へ目を移した。
「ルカも、いつものでいい?」
「うん、同じの。パンは、大きい方を取っておいて」
ルカが自分の硬貨を出す。
俺も銅貨を六枚、皿の上へ置いた。
初めて、この世界で自分で買った食事だった。
サンナが器を用意する間、俺は壁の水差しへ手を伸ばしかけた。
その下の文字が目に入る。
飲む水。手を洗うのは中庭。
手前の客が器をすすいでいるように見えたのは、飲み終えた杯を置いていただけらしい。
危うく、食堂の飲み水で掌を洗う旅人になるところだった。
「先に、手を洗ってきます」
ルカが俺の掌を見た。
綱の跡は薄くなっているが、指の間には砂が残っていた。
「私も。剣は拭いたのに、自分を忘れてた」
中庭の洗い場で、俺たちは順番に手を洗った。
水が冷たい。
擦り合わせた指から、土の細い筋が流れていく。
「手、しみない?」
水を止めたルカに、俺は掌を見せた。
「大丈夫です。赤いのも、もう薄くなってます」
「よかった。今度から、綱を握る前に手袋も探そうね」
ルカは自分の手についた水を切り、布で拭いた。
剣を持つ方の指に、小さな硬い所が幾つも見えた。
俺の掌に残る一回分の跡とは、違う手だった。
*
煮込みの器が置かれたとき、湯気で窓の景色が霞んだ。
薄く切った肉と、粒の大きな豆。
匙を入れると、とろみのある汁が底から上がってきた。知らない葉の匂いが、鼻の奥をすっと通る。
一口食べた。
「……ああ」
声が出た。
豆の皮は柔らかく、中がほろりと崩れる。塩気の奥に肉の旨味があって、最後に香草の苦みが残った。
パンを浸すと、今まで乾いていた場所まで、汁が染みて重くなる。
六枚。
小袋から出したときは、ただの六枚だった。
それが今、ちゃんと腹へ落ちてくる。
「当たり?」
向かいに座ったルカが聞いた。
大きい方を頼んだパンは、もう三分の一ほどになっている。
「かなり。……六枚で、これ食べられるんですね」
「でしょう。気に入ってくれて、よかった。私だけおかわりしてたら、ちょっと寂しいし」
ルカは自分の皿へ視線を落とし、肉の切れ端を匙へ載せた。
俺も、慌てず食べようと思った。
急いで食べれば、次の仕事へ早く戻れる。
前は、よくそう考えていた。
今は、どこかへ戻るために食べているのではない。
「ハルト、そのパン、浸したまま放っておくと、底へ沈むよ」
「あっ」
少し、ゆっくり考えすぎたらしい。
匙でどうにか掬い上げると、ルカが肩を揺らして笑った。
近くで見ると、耳の下へ結んだ髪から短い毛が跳ねていた。外で風に吹かれた形のままだ。
さっきまで剣の向きを気にしていた人が、今は俺のパンが沈むかどうかを見ている。
それが妙に、贅沢だった。
「その靴って、座ってるときも、速くなりたくなる?」
「食べる速さには、たぶん関係ないです」
「じゃあ、ここは私の勝ちだね」
俺の器を見てから、自分の空の器を持ち上げる。
もう食べ終わっていた。
「それは、靴が関係なくても強そうです」
「褒め言葉として、もらうね」
*
部屋は、階段を上がった突き当たりだった。
サンナが扉を開けると、洗った布の匂いがした。
寝台と椅子、小さな机。
窓の外には、瓦の欠けた屋根と、その向こうの細い塔が見える。
魚の風見が、ゆっくり向きを変えた。
「昔は、この辺りで川の荷を扱う人が、魚の印を使ってたの。今じゃ川を使わない店も、験がいいからと掛けるね」
サンナは窓の留め具を確かめながら言った。
ルカの予告より、短い説明だった。
階段の下から、食堂の呼び声がしたせいかもしれない。
「灯りは、出るときに消して。湯を使うなら、下で声を掛けてね。これは自分の部屋用の鍵。外の戸が閉まる時刻も、下の札にある」
俺は、もう一度寝台を見た。
腰掛けると、藁の詰まった敷物が、小さく鳴る。
荷車の板より、ずっと柔らかかった。
「ここで、お願いします。今夜、一晩」
銀貨を一枚出した。
サンナが銅貨を数え、俺の前へ置いていく。
五十枚から十八枚を引いて、三十二枚。
俺も確認してから、小袋へ戻した。
銀貨は三枚。銅貨は四十四枚。
今日の昼飯と、一晩分を払ったあとに残る金だ。
鞄を椅子へ置く。
手を離しても、そこに置いておける。
そのことだけで、肩が軽くなった。
*
階段を下りると、ルカが自分の道具をまとめていた。
「部屋、決まった?」
「はい。窓から魚が見える部屋でした」
「初日から、いい景色を取ったね」
ルカは鞘を拭き、留め具を確かめた。
これから道具の手入れをして、明日の仕事を確かめるらしい。
俺と町に入ったからといって、彼女の旅まで止まるわけではない。
「ルカさん。冒険者の仕事って、俺みたいな、剣も使ったことがない人でも探せますか」
靴の方へ目を落としてから、聞いた。
速く走れることが、さっき役に立った。
けれど、猪の前へ立つ剣の代わりにはならない。
「あると思う。何が出来て、何をしたことがないか、正直に話せば。初めての人に、いきなり魔物を一人で倒してこいとは言わないよ」
「配達とか、荷の運び方を考える仕事なら、少しは」
「それ、窓口でも話してみて。……でも、今日は一回、脚を休めたら? さっきから、立つときに遅れてるよ」
それも、ありがたい言葉だった。
新しい生活が始まった日に、新しい生活の全部を決めようとしていた。
ルカが立ち上がる。
「あ、ハルト」
「はい」
「ルカでいいよ。私ばっかり呼び捨てなの、ちょっと変だから」
俺は、何でもない顔で返そうとした。
「……分かった。ルカ」
たった二文字なのに、席が一つ近くなったようだった。
ルカは満足そうに頷き、剣を腰へ戻した。
「明日も、朝はここにいる?」
「うん。いるつもり。朝飯も、ここで」
「じゃあ、会ったら一緒に食べよう。今度は、沈まないパンの食べ方を教える」
「その授業、今日の昼に欲しかったな」
俺が言うと、ルカは自分の空の器を示した。
「一回沈めた方が、よく覚えるでしょう?」
そのとおりだった。
かなり、よく覚えた。
ルカを見送ってから、俺は窓際の席へ戻った。
町の音が、扉の開くたび少しずつ入ってくる。
言葉が分かっても、知らないことは山ほどあった。
銀貨一枚の値段。
道の端を歩く理由。
水を飲む場所と、手を洗う場所。
それから、人の名前を、少し近い呼び方にすること。
机の下で、靴の先を揃えた。
町を駆け抜ける必要は、なかった。
明日の朝までに、全部を知る必要もない。
袖の陰で、手首の説明を一度だけ読み返した。
次の支援は、最初の受け取りから二十四時間後。町へ入ったからといって、早まるわけではない。
それでも、待つ間に出来ることは、幾つも見つかった。
明日の特典と、ここで食べるかもしれない朝飯。
どちらが先でも、起きるのが楽しみになりそうだった。




