走れるだけで、役に立つ
【前回までの人物】
・結城晴斗:新しい身体と「疾風の靴」を得て異世界へ来た青年。靴で短時間速く走れるが、使った後は再使用を待つ必要がある。
・赤茶色の髪の剣士:街道で荷車を守っていた女性。獣が迫る場面で、晴斗へ「走れる?」と声を掛けた。名前はまだ聞いていない。
・御者の男:片輪がくぼみに落ちた荷車の手綱を持ち、馬をなだめていた。剣士とともに馬と荷車を立て直そうとしている。
「待って。綱、手には巻かないで。そのまま握って!」
赤茶色の髪を束ねた剣士が、剣先を草むらへ向けたまま言った。汗で頬へ貼りついた一筋も、そのままにしている。
俺は、端を握り直した。掌に綱の繊維がざらついた。
「緩んだ分だけ取って。車輪が上がったら、私が言う」
女性の目が綱の先へ動く。俺は空いた道を見て頷いた。
「緩んだ分だけ。分かりました」
「張ったら、そこで止まってね。荷車と力比べはしなくていいから!」
そこは、とてもありがたい指示だった。
靴を履いたからといって、俺の腕まで荷役用の太い綱みたいになったわけではない。
道の後ろは空いている。
荷車の後輪から延びた綱は、脇の低い杭を通り、俺の手元へ来ていた。引く向きを変えるためのもので、荷車の重さを俺一人で持つ仕掛けではなかった。
御者の男が、馬へ低い声で話し掛けている。頬に短い髭があり、手綱を握る手の甲まで日に焼けていた。
車輪の下には、すでに平たい石が差し込まれていた。
あと少し、縁へ戻れば転がる。
そのあと滑り落ちないよう、後ろから支える手が足りなかったのだ。
草が、ばさりと揺れた。
出てきたのは、黒茶色の獣だった。
猪に見えた。だが、口元の二本の牙が、石を削り残したみたいに太い。
肩の辺りまでが、俺の腰より高かった。鼻を鳴らすたび、湿った土と獣の匂いが、道のこっちまで来た。
思っていたより、かなり大きい。
「そっちは私が見てる! 綱だけ見て、お願い」
女性は俺の視線へ気づいたらしかった。
獣が一歩出ると、自分も半歩だけ進む。
突っ込まず、退きすぎず、馬との間を空けない。
獣の鼻が、地面をこすった。
剣の光を見ている。
「ヤーン、前へ。いつもの声でいい!」
男が、馬へ声を掛けた。
手綱を乱暴に引かず、先に前輪の向きを合わせる。
馬の脚が踏み込んだ。
車体が軋む。
女性が左足を車輪の脇へ置き、後ろから横木を押し上げた。
綱が、たるんだ。
「今!」
俺は走った。
速く、と意識した途端、道の石が足元を後ろへ流れた。
腕を引くより先に身体が運ばれ、たるんだ綱が、音を立てて杭を滑る。
張る手前で、止まると決める。
靴底が地面をつかんだ。
綱が真っすぐになった。
ほんの一呼吸だった。
それでも、さっきまで俺がいた場所は、もう何歩も前だった。
「そこで持って!」
荷車の車輪が、石の縁を越えた。
男が馬をもう一歩進ませ、車体が道へ戻る。
女性は横木から手を離すと、すぐ獣へ向き直った。
よかった、と思う暇が、少しだけあった。
獣が地を蹴った。
「綱を放して、車の後ろ!」
言われたとおり、手を開いた。
加速は、もう使えない。
普通の脚で荷車の陰へ駆け込み、肩をすぼめる。
牙が、土をえぐる音がした。
見上げると、女性は獣の真正面から外れていた。
剣を大きく振り上げてはいない。低く来た鼻先を脇へ流し、横を通る瞬間、後ろ脚の外側へ刃を走らせる。
短い鳴き声。
獣が足をもつれさせ、道の端で向き直った。
女性の外套が、遅れて揺れた。
「ヤーン、二つ目の退避場所まで。急に走らせないで!」
荷車が動き始めた。
俺も歩調を合わせた。女性は獣へ向いたまま、ゆっくり下がってくる。
追ってくる。
そう思ったが、獣は、傷めた脚へ体重を掛け直した。
女性の剣と、動き始めた車輪を交互に見る。
やがて、鼻を鳴らして、藪の奥へ戻った。
女性は、すぐには剣を下ろさなかった。
俺たちが道の広い場所まで来てから、ようやく鞘へ収めた。
「……よし。追ってきてない。ここで止めよう」
その一言で、膝の裏が急に柔らかくなった。
荷車の側板へ、そっと手を置く。
「あれ、いつも……あんなのが道に?」
側板へ置いた指が震えていた。女性は、俺の息が落ち着くのを待って答えた。
「石牙猪。毎日じゃないよ。昨日、あそこで倒木を片づけたから、いつもの抜け道を塞いだのかもしれない」
彼女も、決めつけはしなかった。
剣を抜く前に気配へ気づき、藪から遠い方へ馬を寄せたところで、車輪がくぼみへ落ちたのだという。
「車は戻せても、あの子を見たまま綱まで取れなくて。助かった」
「でも、俺は、言われた所を走っただけで」
女性は一度、道へ戻った車輪を見た。
「その人が足りなかったの。あれ、私一人じゃ手が三本要ったからさ」
真っすぐ言われた。
あまりに当然という顔をしているので、俺まで、それでよかったような気がした。
手首の表示を、袖で隠すように見た。
再使用まで、まだ少し残っている。
たった一回、短く使っただけだ。けれど、ふくらはぎが熱かった。
「手、見せて」
女性が俺の掌を指した。
皮は剝けていなかった。綱の跡が少し赤く残っているだけだ。
「うん、切れてない。巻かないでくれて、よかった」
「最初に、あれだけ言ってもらえたので」
俺が掌を開き直すと、女性の口元が少し緩んだ。
「言った甲斐があった。よし、聞いてくれる人は大歓迎」
そこで彼女は、ようやく笑った。茶色の目が細くなり、構えていたときより、ずっと年が近く見えた。
「私はルカ。ルカ・フェリス。街道の護衛、今日はこの荷車の担当」
「晴斗です。ハルト。……旅に、来ました」
名乗り終えたルカが、小さく首を傾げた。
「来ました、なんだ。いま始めたばかりみたいに聞こえるね」
言われてみれば、妙な名乗り方だった。
旅をしているのに、旅行の受付に着いたみたいになっている。
ルカは、もう一度、俺の足元を見た。
「さっきの靴、どうなってるの。私、最初の一歩で見失いそうだった」
「ちょっと変わった靴で。速くなるのは、短い間だけです」
「そうなんだ。続けては使えない?」
「はい。一度使うと、次まで待ちます。……それ、先に言わないといけなかったですね」
「うん。もう一回、って頼むところだったから。どこまで任せていいかは、知っておきたい」
俺は黙った。
使える方の話はしたのに、使えなくなる方を言っていない。
「すみません。使えない時間も、次から先に言います」
「お願い。……でも、さっきの一回は、ちゃんと助かったよ」
ルカは、それ以上責めなかった。
俺も、頭の中の予定表へ、太い字で一行足した。
出来ることの説明は、出来ない時間まで。
*
鞄を置いた場所は、荷車より少し後ろだった。
俺が取りに戻ると言うと、ルカもついてきた。
「私も行く。もう一頭いたら、靴だけじゃ困るでしょう」
実に、そのとおりだった。
加速の待ち時間が終わっていても、飛びついてくる獣をよけられる自信まではない。
道端の鞄は、置いた向きのまま残っていた。
水筒と地図を確かめ、肩へ掛け直す。食べ物も二食分ある。
たったそれだけなのに、家一軒を取り戻したくらい、ほっとした。
さっきの猪がいた藪は、静かだった。
ルカは、地面に残る跡へ目をやった。
「戻ったら、道の番所へ知らせる。しばらく、ここを広く使わない方がよさそう」
剣で追い払って終わりではないらしい。
次に来る荷車にも、同じことが起こるかもしれない。
戻ると、御者の男が、車輪の軸へ手を当てていた。
馬の胸元も、順番に撫でている。
「割れてない。留め具も緩んでないな」
確かめ終えると、男は俺へ向き直った。
「ヤーンだ。こいつで、町と宿場の間を走ってる。どこまで行く?」
「ベルカを目指してます」
「なら、一緒だ。荷の上は駄目だが、後ろの腰掛けなら空いてる」
乗せてもらえるのは、ありがたい。
だが、女神からもらった小袋の中身と、この世界の運賃を、俺はまだ結びつけられない。
「あの、運賃は幾らですか。まだ相場が分からなくて」
俺が小袋へ手をやると、ヤーンは、しまっとけ、と顎を振った。
「今日は要らん。車を戻すのを手伝ってくれた分だ」
「でも、ほんの一瞬でしたよ」
「その一瞬がなけりゃ、今も藪の横で困ってた。助かった俺が、乗ってくれって言ってるんだ。駄目かね」
男は少し笑った。
俺も、そこでやっと、礼だけを言えた。
荷車の後ろの板へ、ルカと並んで腰掛ける。
硬い。
けれど、初めて自分の脚以外で移動する異世界の乗り物は、なかなか悪くなかった。
「尻が痛くなる前には着くよ」
ルカが言った。
ヤーンが前から振り向く。
「それは約束するな。人による」
「じゃあ、痛くなっても着く」
「それなら、間違いない」
俺は、笑った。
さっきまでの恐ろしさが消えたわけではない。でも、声が出るくらいには、身体が戻ってきていた。
*
荷台には、蓋をした木箱が並んでいた。
町で売る布と、油と、乾いた豆だという。
どれも、道の途中で放っていける物ではなかった。
ヤーンが馬を止めた、短い休憩の間に、ルカは鞄から包みを出した。
平たい焼き菓子が二枚、重なっている。
「食べる?」
「いいんですか」
「私からも、さっきのお礼。ヤーンの腰掛けは食べられないでしょう」
差し出された一枚を受け取った。
香ばしい匂いがした。
一口かじると、甘さのあとから、少しだけ塩が来た。
中に刻んだ木の実が入っている。縁は固くて、真ん中はまだ柔らかかった。
「……うまい」
「でしょう」
自分が焼いた物でもないのに、ルカは誇らしげだった。
「ベルカの店で買ったの。帰りに残ってるといいなと思って、朝から食べずにいたんだよね」
「え、それを半分、もらっていいんですか」
「うん。助かったあとのお菓子は、おいしいから。一緒に食べようよ」
俺は、菓子を見た。
この世界で最初に、一緒に何かを食べる相手だった。
「じゃあ、遠慮せずに」
「次は、お勧めの物を教えて」
「俺、まだ、何も知らないんですけど」
「じゃあ、見つけたら。知らない物を一緒に当てるのも、面白そうだし」
約束が一つ出来た。
いつまでに、という日付のない約束だった。
「ルカさんは、この荷車で、ずっと旅をしてるんですか」
尋ねると、彼女は菓子の粉を包み紙へ落とした。
「旅はしてるよ。ヤーンの車は、今日の仕事。旅費を稼がないと、次の町でお腹が鳴るから」
「行きたい所があるんですか」
「南の都市で開かれる剣の試合に、出たいんだ。名のある人も出るから、一度、同じ所へ立ってみたい」
剣士らしい答えだった。
俺が思っていた、見知らぬ景色を見たいという旅とも、少し違う。
「でも、そこへ行くまでにも食べるし、泊まるし。剣は手入れしないと、さっきみたいに使えない。だから、道が同じなら、こういう仕事も受ける」
ルカは鞘を軽く持ち上げ、留め具に土が入っていないかを見た。
当たり前の手つきだった。
俺も靴の裏を見た。土の塊が、縁へ一つ詰まっている。
草の端で落とすと、ルカがこちらを見て笑った。
「よかった。速い靴の人も、泥は落とすんだ」
「そこまで自動でやってくれる靴じゃなかったです」
「なら、靴屋さんは困らないね」
そう言われて、肩掛け鞄の中にある、普通の替え靴を思い出した。
特典の靴が破れれば、俺も町で誰かを探すことになる。
無敵の道具をもらって、この世界から浮いて生きていくわけではないらしい。
「ハルトは、どこへ行く予定?」
聞き返されて、俺は、少しだけ困った。
「今のところ、ベルカです」
「そこから先は?」
「着いてから、考えようと思って」
行き先もなく来たのか、と呆れられるかもしれなかった。
ルカは、そういう顔をしなかった。
「いいね」
焼き菓子の、柔らかい真ん中をかじる。
「私は、試合に間に合う方へ道を選ぶから。何も決めてない人の話を聞くの、ちょっと羨ましい」
羨ましいのは、俺の方だった。
行きたい所があって、そのために剣を磨き、荷車の横へ立っている。
さっき見た強さの続きを、今、隣で聞いた気がした。
「……決まってるの、いいなと思ったんです。俺は、まだベルカまでしかなくて」
俺の方へ向いたルカが、残りの菓子を指で挟み直した。
「じゃあ、ベルカで見つかるかも。決まるまで歩いて、決まったら、そっちへ行けば?」
簡単そうに言う。
簡単に言ってもらえると、していいことのように思えた。
俺は地図を出しかけ、やめた。
今は、隣にいる人と菓子を食べている。
このあと決める旅より、先にやっている旅があった。
水を飲むために顔を上げると、道の先で、低い塀が陽を返していた。
その向こうに、三角の屋根が幾つも見える。
「あれが、ベルカですか?」
「うん。あそこ。ほら、変な風見が見えるでしょう」
ルカの指が、塀の内側に立つ細い塔へ向いた。
風見の形が、鳥ではなく魚だった。
この町へ行こうと思ってから、まだ半日も経っていない。
なのに、最初に見えた屋根の色まで、覚えておきたくなった。
何を食べるだろう。
どこに泊まるだろう。
明日はどんな道へ出るだろう。
小袋の金が足りるかという心配も、もちろんあった。
それでも、先に胸へ来たのは、楽しみの方だった。
ルカが、俺の足元へ目を落とした。
「ところで、その靴、町の食堂まで競争にも使える?」
「使えますけど、入口で止まれるかが心配です」
「それは困る。昼ご飯、走って通り過ぎたら悲しい」
ヤーンが、今度は振り返らずに笑った。
荷車が揺れ、俺たちの肩が少しだけ触れた。
ルカは気にせず、最後の一口を食べた。
俺は何となく姿勢を直して、同じように食べ終えた。
速い靴があっても、荷車に乗る旅は、ちゃんと楽しかった。




