異世界最初の特典は、よく走れる靴でした
異世界に生まれ変わるなら、何が欲しいですか。
白い卓の向こうに座る女性にそう聞かれて、俺は少し考えた。背中へ流した淡い緑の髪が、書類を寄せる肩の動きに合わせて滑った。見た目は、俺より少し年上くらいだ。初対面なのに、その声を聞くために身構えなくてよかった。
「……有給休暇、ですかね。まとめて取れるやつを」
言ってから、もう会社へ行かなくていいことを思い出した。
女性は笑わなかった。
ただ、白い卓の上にあった書類を一枚、そっと裏返した。
「では、まず、急いで決めなくてよい時間を。お茶が冷める心配も、ここでは要りませんから」
そう言われて、ようやく肩の力が抜けた。
*
名前は、結城晴斗。二十三歳。
最後に覚えているのは、仕事を終えて帰る途中の横断歩道だった。
事故の瞬間を、ここで繰り返し見せられることはなかった。
自分が死んだのだという説明を聞いても、初めは他人の話みたいだった。両親のことを尋ねたあたりから、言葉が出なくなった。
女性は、元の世界で生き直せるとは言わなかった。
家族の悲しみを消せるとも言わなかった。
黙って座っている間、卓の上の茶は冷めなかった。
不思議な場所なのだと、そんなことで分かった。
どれくらい経ったのか。
俺が顔を上げると、彼女は改めて名乗った。
「旅と境界を司る、リルティアといいます。あなたには、別の世界で新しい身体を得て、暮らす道があります」
顔を上げた彼女の琥珀色の目には、返事を待つ余裕があった。
女神と聞いて想像するような、金の冠や豪華な玉座はない。
卓の端に地図が重なり、その上に、小石で重しがしてある。
「生まれ変わるって……赤ちゃんからですか」
俺が膝の上の手を見て訊くと、リルティアは首を横に振った。
「成人の身体を用意できます。言葉も、日々の暮らしに困らない範囲なら、お手伝いします」
「それは、助かりま……ああ、よかった」
もう一度、就職できるまで二十年。
そこまで考えて、また仕事の心配をしている自分に気づいた。
「今度は、仕事以外のことを先に決めても、いいんでしょうか」
言ってから、許可をもらうようなことかと思った。リルティアは、机の書類を端へ寄せた。
「ええ。何をしたいですか、晴斗さん」
聞かれて、すぐには浮かばなかった。
休みの日にしたかったことなら、たくさんある。
朝から遠くへ行く。泊まったことのない町で、夕食を食べる。地図の端に載っている場所へ、わざわざ寄り道する。
祖父の旅行話を聞くのが好きだった。
旅先で食べた魚の大きさは、聞くたび少しずつ増えた。最後には、皿の方を新しく作ったらしい。
俺は笑いながら、いつか本当の店へ行って確かめようと思っていた。
いつか。
繁忙期が終わったら。
もう少し貯金したら。
「旅を、してみたいです。帰る日の心配をするより、先に」
言うと、リルティアは卓の地図を一枚、こちらへ向けた。
海岸線。森。いくつもの町。
知らない文字なのに、書かれた地名を読むことはできた。
「リュミエ大陸です。温かな平野も、雪の多い高地もあります。旅に出る人も、帰る人も、そこで商いをする人もいる世界です」
指で道をたどった。
右へ曲がれば、別の町へ行ける。
当たり前のことが、ひどく魅力的に見えた。
「その前に、支援の方法を選んでください。まとまった力を最初に受け取る方法と、暮らしながら継続して受け取る方法があります」
「毎回ちょっとずつ、ですか。最初にまとめてもらう方が、得だったりは?」
「初めから何でもできるわけではありません。ただ、暮らしてから、必要な物を選べます。今日の晴斗さんには、まだ決めにくい物もあるでしょう」
リルティアは地図の横に、小さな札を三枚並べた。
絵が描かれていた。靴と、外套と、鍋。
「今、試している旅人向けの支援です。受け取りの規則と、それぞれの使い方は、いつでも読み返せます。借金や、隠した代償はありません」
「あとから、では魔王を倒してください、って言われたりは……」
靴の札を見るふりをして訊いた。リルティアは、そこでようやく少し目を細めた。
「私からの依頼は、あなたが引き受けた時だけです。旅先で、隣の方にお皿を取ってと言われることまでは、防げませんけれど」
たしかに、料理屋で皿を下げてくれと頼まれることはありそうだ。
そこまで禁止された旅も、少し寂しい。
「じゃあ、継続でお願いします。先に全部決めるより、歩いてから、あれが欲しかったなって選びたいです」
「分かりました。それでは、最初の一つを」
彼女がうなずくと、三枚の札が浮いた。
それぞれの下に、説明が現れた。
『疾風の靴』
一時的に移動の速さを三倍にする。最長五秒。再使用まで六十秒。体力を消費する。自分の意思で停止可能。制動補助あり。
『旅人の外套』
雨を通しにくく、寒暖の変化を和らげる。極端な暑さ寒さや、刃物による攻撃は防がない。
『火守りの鍋』
火から下ろしたあとも、一定時間、温かさを保つ。材料も燃料も、別途必要。
「……鍋、強いですね。地味に一番欲しくなるやつだ」
俺が札を持ち上げると、女神は真顔で頷いた。
「旅先の温かい一皿は、なかなか侮れません」
何か食べた記憶でもあるのだろうか。訊いてみたくなったが、俺の目は、隣の札へ移っていた。
外套も捨てがたい。旅といえば、雨と寒さだ。
でも、靴の絵を見ると、どうしても目が止まった。
「速くなるって、壁にぶつかったら、そのまま……」
「壁は抜けられません。道と、止まる場所を選んでくださいね。疲れた時は、お休みも」
「走らないで、歩くのに使ってもいいんですか」
リルティアは、靴の札を俺へ向けた。
「ええ。速く歩けます」
走りたくない日にも便利そうだった。
俺は靴の札へ手を伸ばした。
『疾風の靴を受領しました』
文字が光り、靴の絵が消える。
膝の上に、茶色の革靴が一足現れた。
思ったより普通だった。
羽根もついていないし、虹色にも光らない。
そのことに、妙に安心した。
「手入れは、普通の靴と同じで?」
受け取った革へ指を当てると、リルティアも足元へ目を落とした。
「泥を落として、革を乾かしすぎないように。大きく壊したら、修理も必要です」
「ちゃんと使った分、古くなるんですね」
「ええ。履いて行った先の分だけ」
両手で持つと、革が少し温かかった。
規則の札にも目を通した。
支援の候補は三つから一つ。次の受領権は、今回から二十四時間後。選ばずに残せるのは七回分まで。
手に入れた道具は、支援が終わっても自分のもの。
ほかにも項目はあったが、必要になったら読み返せる。
「寝過ごしたら、一回逃して終わり……じゃないですよね」
「七回分までは残せます。晴斗さん、眠るたびに急いで起きなくても、大丈夫ですよ」
その言い方が、少しおかしかった。
俺は靴を抱えたまま、久しぶりに声を出して笑った。
*
目を開けると、草が鼻先にあった。
青い匂いがした。
背中に地面の固さがあって、どこかで虫が鳴いていた。
起き上がる。
白い卓はなかった。
木陰から出ると、なだらかな丘の向こうまで、空が広がっていた。
「……広」
思っていたより、ずっと広かった。
写真を大きく引き伸ばしたような景色ではない。風で草の色が変わり、遠くを鳥の影が動いていた。
立ち上がった拍子に、小石が靴の下で鳴った。
身体は、自分のものとして動いた。
手のひらを見て、顔を触り、息を吸う。耳に掛かる黒い髪も、頬の輪郭も、他人のものに触れている感じはしなかった。生成りのシャツの袖口から風が入り、腕を冷やした。
知らない場所に来たからというだけでは説明できないほど、胸が軽かった。
隣に、革の肩掛け鞄がある。
基礎支援の旅支度だ。
水筒。三食分の携帯食。薄い毛布。小袋に入った硬貨。
鞄の底には、普通の替え靴が収まっていた。今、履いているのが、選んだ方の靴らしい。
大金は入っていないと、説明で聞いている。
でも、硬貨を見ても、パンが幾つ買えるのかは分からなかった。
言葉が分かることと、暮らしを知っていることは、別らしい。
鞄の内側に挟まれた地図を開く。
近くに街道。東へ進むと、宿場町ベルカ。
今いる草地からも、丘の下を通る道が見えていた。
「よし。まずは、人のいる所まで、行ってみるか」
口に出すと、散歩の予定みたいになった。
実際、最初はそのくらいでいいのかもしれない。
歩き出す前に、木陰へ鞄を置いた。
靴の機能を試すなら、平らな場所がいい。
十歩ほど先に落ちている白い枝を目印にした。周囲に穴がないことを確かめ、まず普通に歩く。
次に、速く進みたいと意識した。
「おっ」
景色が横へ流れた。
自分は普段どおりに足を動かしているのに、白い枝がすぐ近くに来る。
止まろうと思うと、足の裏に少し抵抗がかかり、枝の手前で止まれた。
手首に、薄い文字が浮かんでいた。
次に使えるまで、あと五十八秒。
「歩きで、これ? ……走ったら、どうなるんだ」
思わず振り返った。
同じ場所なのに、さっきより遠く見えた。
一分待って、今度は軽く走った。
ほんの数歩で、髪に風が当たった。
笑いそうになり、息を吸ったところで、速さに驚いて止まった。
「はっや……」
膝へ手をつく。
短い距離でも、ふくらはぎに運動した感じが残った。
疲れない靴ではない。それでも、走るのがこんなに面白いとは思わなかった。
鞄へ戻る途中で、普通に歩いてみた。
今度は何も起こらない。急いでいないときまで勝手に速くなるわけではなさそうだった。
木の根が盛り上がったところでは、足を持ち上げなければ引っかかる。靴は、そこまで代わりに考えてくれない。
手首の文字へ触れると、説明が開いた。
動きながら読むのは危ないので、木の幹に寄りかかって確かめた。靴を脱げば機能は使えない。跳んでも、空を走れるようにはならない。
「空まで走れたら、もう靴屋じゃ直せないか」
ひとりで納得して、表示を閉じる。
便利だからといって、足元を見る習慣まで省かない方がよさそうだった。
次の一回は、同じ方向へ五秒。
止まる場所を十分に空けて、地面を蹴った。
草が流れた。
風が耳の横を抜けていった。
視界の隅にあった木が、あっという間に背後へ回る。
足を止めたあとも、胸が弾んでいた。
「……これ、いいな」
誰に聞かせるでもなく言った。
鍋も外套も惜しかったけれど、今はこの靴でよかった。
*
街道は、近くで見ると思ったより広かった。
車輪の跡が二筋、乾いた土に残っている。
道の端には、荷車がすれ違うための平らな場所が、ところどころにあった。
歩いているうちに腹が減り、携帯食を一つ開けた。
固いパンに、干した果実と木の実が挟まっていた。
噛むと、酸っぱい。
少し遅れて、甘さが来た。
うまい、と思った。
そして、さっき女神に会ったばかりなのに、もうパンの味で喜んでいる自分に、少しだけ戸惑った。
家のことを忘れたわけではない。
戻れないという言葉も、まだ胸に引っかかっている。
ただ、この風も、パンの味も、確かに今ここにあった。
水を飲み、地図を開いた。
ベルカへ着いたら、まず宿を探す。
食事の値段を確かめる。仕事の頼み方も聞く。ちゃんとした道具を買うなら、相場を知ってからだ。
考えていると、予定が幾らでも増えた。
地図の余白に全部書こうとして、手を止める。
今日中に、旅のすべてを決める必要はない。
そう言い聞かせて、最後の果実を口へ放り込んだ。
指先が、少しべたついていた。
道は丘の陰へ入っていた。
その先で、馬がいなないた。
次に聞こえたのは、硬い物を打ち合わせる音だった。
足が止まる。
木の葉の隙間から、道に斜めに止まった荷車が見えた。手前に、人が一人。抜いた剣が日に光る。
その向こうの草むらで、何か大きなものが動いた。
逃げ道を確認した。
足元の石を見て、木の根を見た。
靴は、もう使える。
女性は剣先を草むらへ向けたまま、荷車との間に立っていた。
手綱を持つ男は、馬をなだめている。逃げられないように見えたのは、車輪の片方が道端のくぼみへ落ち込んでいたせいだった。
車輪の下には石が差し込まれ、道を横切る綱は、すでに杭へ掛かっていた。あとは何が足りないのか、まだ俺には分からなかった。
剣を振り回せるようには、なっていない。
でも、走って誰かを呼ぶことならできるかもしれない。動けない人がいるなら、肩を貸せるかもしれない。
今の自分に何ができるか、それを確かめようと、俺は道の端へ身を寄せた。
「大丈夫ですか!」
声に反応して、剣を持つ女性がこちらを向いた。
短く束ねた赤茶色の髪が揺れ、土埃のついた外套の襟へ触れた。俺と同じくらいの年頃だ。馬車と草むらの間に立ち、こちらを向いても剣先は下げなかった。荷車を守っている人なのだと、その立ち位置で分かった。
「走れる?」
返ってきた声は、よく通った。
何を頼むか、もう決めている人の声だった。
俺は一度、足元を見た。
それから、顔を上げた。
「走るだけなら……はい、ちょっと得意です!」
「じゃあ、こっち。荷車の後ろに回って。いきなり引かないで、私が言ったら!」
女性の視線が、道を横切る細い綱へ動いた。
荷車の後輪に掛けた綱が、すぐ脇の杭を通っている。引く向きを変え、落ちた車輪を戻すつもりらしい。
どこを走ればいいかが、分かった。
後ろには、空いた道がある。
荷車を素手で持ち上げる力はない。
けれど、車輪が縁を越える一瞬、緩んだ綱を素早く引き取ることなら。
俺は鞄を道端へ置き、綱の端をつかんだ。
革靴の中で、足の指へ力が入った。
初めての旅で、最初に頼まれた仕事だった。




