今日の特典で、初めての宿へ
【前回までの人物】
・ハルト:毎朝一つの特典を選ぶ旅人。仲間と虹の海を目指す。
・ルカ:剣と勝負、食事を楽しむ旅の仲間。
・ミア:魔術師。自分の経験を実践書へまとめたい。
・ロッタ:各地の料理を学びたい料理人。自分の鍋を持って旅に出た。
宿場の屋根が見えた時、いちばん先に声を上げたのはミアさんだった。
「煙が、三つも」
俺は道の先を見た。
低い屋根の向こうへ、白い煙が細く上がっている。昼に使った火より遠く、旅に出る前の町より、ずっと小さな灯りだった。
「全部、食堂かな」
ルカが言うと、ロッタさんの耳がぴんと立った。
「一つは洗濯の釜かもしれません。あと、鍛冶場」
「じゃあ、食べられるのを一つ探す」
「私も、今日、それをしたいです」
彼女の返事が嬉しそうで、俺も笑った。
鍋を持って旅に出ても、毎食、彼女が料理を作らなければならないわけではない。知らない家の湯気を選ぶのも、料理人がここへ来たかった理由の一つだった。
まだ、十一日目の夕方だった。
朝に受け取った荷まとめ帯が、鍋の持ち手と包みをひとつに留めている。今日の特典が二つ目へ変わったりはしない。
橙色の保温布は、もう畳んで鞄へしまってあった。昼の温かさを守ってくれた分は使い終えた。夜の料理を温め直す道具として、また取り出すつもりはない。
俺は鍋の傾きを確かめ、道の石へ足を置いた。
荷車を受けた腕に、まだ少し疲れが残っている。昼の短い加速が今も効いているわけではなく、町へ入る最後の坂も、自分の足で上る。
その遅さまで、今日は嬉しかった。
朝の地図で指した場所へ、本当に歩いて来たのだから。
*
宿の入口には、乾いた草を束ねた飾りがあった。
風で擦れる匂いは、昼の川辺にはなかったものだ。開けた扉の向こうから、油で焼く音と、皿を置く音が混じって来る。
緑の前掛けを着た女主人が、帳面から顔を上げた。灰色の髪を一本に編み、肩の後ろへ回している。
「四人で泊まり?」
「空いていれば。先に、値段を聞いてもいいですか」
俺が答えると、彼女は壁の札を示した。
「一人十八銅。寝台と夜の湯。食べる方は別。今日の煮込みは八銅、朝は頼むなら明日払って」
「部屋は、どうなっていますか」
「二人の部屋が二つ空いてる。皆で同じ大部屋なら安く、とは今日はできない。向こうは寝具を干したばかりだから」
女主人は濡れた布の掛かる通路を顎で示した。
客に合わせて、乾いていない寝台まで突然増えるわけではなかった。
俺は三人を振り返った。
ここまで案内したから、あとの部屋も自分が決めるつもりでいた。けれど、三人とも、俺が決めた場所へ並ぶ荷物ではない。
「どちらの部屋がいいですか」
「私は、夜、ノートを開いてもいい方が」
ミアさんが言った。
「私は、先に寝るかも。明日、足が重いと困る」
ルカは靴の先を小さく振った。
ロッタさんが、二人の部屋を覗かせてもらった。
「扉のそばで書ける部屋なら、灯りが寝台へ直接来ませんね。ミアさん、私とこちらにします?」
「はい。ずっと明るくはしません」
「私も、鍋の荷をほどいたら寝たいので。いつまで書くか、部屋で決めましょう」
二人の返事がまとまったあとで、ルカが俺を見る。
「じゃあ、私とハルト。いびき、かく?」
「自分では、聞いてない」
「私も。明日、答えが分かるね」
軽く言ってから、彼女は少しだけ目を逸らした。
俺も同じ部屋という言葉を、今になって意識した。別の寝台があり、旅の相談として決めただけだ。それでも、普通の顔をしようとするほど、返事が遅れる。
「嫌なら、先に言って。私、寝てから察するの無理だから」
「嫌じゃない。……その、よろしく」
「うん。こちらこそ」
ルカは自分の十八銅を数えた。俺が四人分を払って、気まずさまで消したことにする前に、彼女自身の旅費が台へ置かれた。
俺も宿代と夕飯の分、合わせて二十六銅を払った。
ミアさん、ロッタさんも、自分の分を出す。四人の財布が一つへ変わったわけではない。
女主人は人数を確かめ、鍵を渡した。
「湯の場所は奥。鍋を洗うのは厨房の桶じゃなく、外の流しでね。料理を頼まれて来た人じゃないんでしょう?」
ロッタさんが顔を上げる。
「今日は、食べに来た人です」
「なら、座ったら呼ぶ。働き始めないで」
女主人の言い方に、ロッタさんは少し驚き、それから嬉しそうに頷いた。
*
荷を下ろす前に、俺たちは昼の道のことを伝えた。
灰色の魔物が二頭、穀袋を積んだ小荷車を追っていたこと。一頭は倒れ、もう一頭は橋とは別の斜面の藪へ逃げたこと。
女主人は、途中で相槌を打たず、場所の目印を訊いた。
「平たい石の休み場の、どちら側?」
「橋から来て、右の高い草の方。宿場へ来る道とは、離れた側」
ルカが自分で答えた。
「追ってないから、そこから先は分からない」
「分かった。番所へ渡す紙へ、そのまま。あんたたちは、見た人の所へ名を書いて」
俺は紙を受け取り、ルカと地図の曲がりを確かめた。
倒した一頭を置いた場所と、逃げた一頭の最後に見えた場所は別だ。二頭いたからといって、二頭ともいなくなった道にはしなかった。
女主人は紙を畳み、入口の連絡札の横へ置いた。
「先に行った行商も、こっちを通った。袋のこと、言ってたよ」
「怪我は、なさそうでしたか」
「自分で歩いてた。手の擦れを見せて、湯を借りていった。それ以上は、私が診たわけじゃない」
俺は頷いた。
無事だったと全部を決めつけることはできない。それでも、あの車が坂の向こうまで来ていたと聞けたのは、嬉しかった。
ルカも紙から手を離し、ようやく、煮込みの匂いの方へ顔を向けた。
部屋の床は、歩くと小さく鳴った。
窓の下に、別々の寝台が二つ。荷物を置ける台は一つしかない。
俺が大きな荷を床へ寄せると、ルカは剣を通路へ出さない方へ置き直した。
「今晩、ここへ戻るんだね」
彼女が言った。
「うん。今日は、歩いて帰れる」
「いつもの宿へ、あの力で戻らなくていい?」
旅宿帰還のことだった。
俺は頷いた。前に登録した宿からどれだけ離れているかを、自分の願いだけで三十キロ以内にはできない。ここへ泊まる契約をしたことと、帰還先を登録したことも、別だった。
「今夜は使わない。帰る力を試すために、外へ出るのもやめておく」
「良かった。夕飯のあとで、帰れるか競争って言われたら、私は先に寝る」
「それは、俺も寝る」
彼女は笑い、窓を少しだけ開けた。
草の飾りが擦れる音が、外からも聞こえた。
*
煮込みは、広い皿ではなく、深い器で来た。
白い豆と、ほぐれた魚と、小さく切った根菜。表の油へ、緑の葉が一枚浮いている。
ロッタさんは、すぐには感想を言わなかった。
湯気を鼻先で受け、匙を一度通し、自分で食べた。
俺は彼女の判定を待ちそうになり、自分の匙を取った。
昼のパンの汁とは、全く違う。魚の塩気のあとに、知らない爽やかな匂いが残る。
「おいしい。なんか、最後だけ涼しい」
俺が言うと、ミアさんが器へ顔を近づけた。
「温かいのに、ですか」
「そう。口の中が」
「それ、葉だと思います。でも、何かは知らないです」
ロッタさんの耳が、器の方へ傾いている。
知らない、と嬉しそうに言える人と来て良かった。
女主人が空いた台を拭きに来た時、ロッタさんは葉を指した。
「この香り、好きです。名前だけ教えていただけますか」
「この辺じゃ、川薄荷。育ててる所から買ってる。道に生えてる似た葉を、勝手に鍋へ入れないでね」
「はい。材料屋で聞く時、その名を使います。明日、開いてるお店はありますか」
「橋へ出る角。朝は桶が並んでる方」
女主人は手を止めずに答えた。
ロッタさんは、配合や値段まで続けて質問しなかった。相手が今、夕食を回しているのが見えている。
「ありがとうございます。今日は、冷める前に食べます」
「それがいちばん」
布が台を滑り、女主人は次の客へ向かった。
ルカは魚の残った匙を、少し高く持った。
「昼と違う。肉じゃない日も、いいね」
「さっき、肉の匂い探してなかった?」
「探した。でも、魚が来たら魚も好き」
「選び間違えたって、思わないんだ」
俺が言うと、彼女は笑いかけ、昼の話だと分かった顔になった。
「今日は、こっちを食べられた。次に肉が来たら、そっちも食べる。それじゃ駄目?」
「駄目じゃない。かなり、いい」
俺はもう一口すくった。
選ばなかった物があるたび、選んだ方を試験に掛け続ける必要はない。
今日の帯で運んだ鍋も、今ここで人に作ってもらった夕飯も、どちらも旅の途中へ置いてよかった。
*
食後、ミアさんはノートを開いた。
窓際で書こうとして、宿の灯りが自分の影へ隠れることに気づく。昼と同じように紙を開いても、ここでは光の来る向きが違う。
彼女は椅子を一つずらし、小さく笑った。
「現場の本なのに、机の影を忘れていました」
「それも書く?」
ルカが覗く。
「全部を書くと、私の失敗の本に」
「私の勝った所も、一つ入れて」
ミアさんは顔を上げた。
「はい。どこが、いちばん大事でしたか」
ルカは腕を組んだ。すぐに、剣の強さ、と言うかと思ったが、彼女の目は昼の道を見ているようだった。
「車と人の間。最初から道の真ん中へ出てたら、車が私へぶつかった。ハルトたちの方へ入れたかったから、横で待った」
俺は彼女を見た。
「剣を振った所より、前なんだ」
「うん。振る所ができたから、振れた。あとは、逃げた方を追わなかった。……こっちは、お腹が空いてたのもある」
最後だけ軽く言って、彼女は指で剣の形を作った。
ミアさんは笑いながら、二つの位置を紙へ置いた。
彼女自身が教本から何かを知っていても、ルカがあの時見ていた道を、代わりに決めることはできない。
俺は水の使用量を、同じ頁の端へ確かめた。
今日の生成は昼の二リットルから増えていない。夕食の水は宿が出した物で、共有の枠から勝手に差し引かない。
ロッタさんは川薄荷の名を、自分の紙へ書いた。
「これは、まだレシピじゃないですね」
「食べて、好きだったものの頁ですか」
ミアさんが訊くと、彼女は頷いた。
「はい。明日、材料の形を見られたら、その隣に」
四人で同じ器を食べても、持ち帰る頁は同じにならなかった。
それが、俺には嬉しかった。
宿を出る明日の道は、食卓の紙で一度だけ相談した。短い坂道と、川へ沿う道。俺は先に、短い方へ指を置きかけた。
「坂のあと、どこで水を飲んで休めるか分からないです」
ミアさんが言った。
「川の方なら、材料屋の前も通れる。私は、そっちがいいです」
ロッタさんも自分の希望を置いた。ルカは二つの線を見てから、宿場を出る時刻を訊いた。
「遅くならないなら、川。今日は歩いたから、明日は景色も見たい」
俺は三人の返事を聞き、川沿いへ丸を付けた。全員へ一つずつ妥協してもらうために、俺が何も望まない顔をする必要はなかった。
「俺も、川の先を見たい」
最後に言うと、ルカが笑って、丸の横へ小さな魚を描いた。
部屋へ戻る前に、鍋を外の流しで洗った。
荷まとめ帯を緩めるのは、底を支えてから。便利になった分だけ、最初の重さを忘れそうになる。
ロッタさんと二人で持ち替え、乾く場所へ置く。布の傷んだ所と、割れた革の輪は直っていない。明日、材料屋で相談するなら、現物を持っていけばいい。
「今日は、鍋で一日が始まって、鍋で終わりました」
彼女が言う。
「途中、魔物が入ったけど」
「それは、鍋へ入れません」
真顔の返事に、俺は吹き出した。
狼耳が、少しだけ揺れた。
夜、ルカは寝台へ座り、靴を脱いだ。
剣を持った時とは違う、ほっとした息が出る。
「明日も、知らない宿?」
「まだ決めてない。朝、材料屋に寄って、道を聞いてから」
「じゃあ、明日の特典も、明日」
「うん。今日は、今日ので」
俺は緑の帯を、鍋の荷から外した状態で畳んだ。
初めて泊まる宿の天井は、いつもの宿より低かった。窓の隙間から入る風の匂いも違う。
旅に出たかったという願いが、遠くの虹の海へ届く時だけ叶うものだと思っていた。
けれど今、隣の寝台から、灯りを落としていいかという声がする。
俺は、いいよ、と答えた。
今日一日を一緒に歩いた人へ返す、その何でもない言葉まで、今まで知らなかった旅の形だった。




