今日の特典で、出発前夜を温めます
【前回までの人物】
・ハルト:毎朝一つ特典を得る旅人。十秒の音を記録する貝を三つ使い、果樹畑の依頼から帰った。
・ルカ:剣技会を楽しみにする剣士。前の依頼では剣を抜かず、鞘の音で猪の退去を助けた。
・ミア:実践書を作りたい魔術師。特典の音だけで結論を出さず、鐘の現物確認を手伝った。
・ロッタ:風見亭で働く料理人。旅へ向けて厨房の仕事を引き継いでいる。
朝、俺は箱を開ける前に腹を鳴らした。
「それ、昨日の貝?」
ルカが椅子の背から覗く。
「自前だよ。再生回数に制限もない」
「便利。ご飯が要る時、勝手に教えてくれる」
昨日の聞き直し貝は、もう三つとも消えている。棚に残る丸い跡を見て、俺は今日の札を引き寄せた。
前の受取から一日が経った、十日目の朝だった。
提示された中で、俺が選んだのは《旅の保温布》だ。
一枚。包めるのは人や動物以外の物。包んだ時の温度から大きく変わらないよう二時間保ち、一日に一度だけ働く。冷えた物を温めはしない。傷んだ食べ物を元へ戻す力もない。
広げると、パン籠を包んでまだ端が余る、薄い橙色の布だった。
「剣が来るかと思った」
ルカは端をつままず、俺の肩へ顎を寄せる。
「昨日も剣を抜いてないのに、もっと増やす?」
「増えたら、二本持てるかなって」
「手、足りませんよ」
ミアさんが自分の杖と俺の両手を順番に見た。
「口に一本」
「朝ご飯、食べられなくなります」
「じゃあ、一番駄目だ」
ルカがあっさり諦めたので、俺は布を抱えて笑った。
ロッタさんは説明札を読んでから、温めた二つの小瓶を持ってきた。
片方を布で包み、片方はそのまま台へ。中身はどちらも、厨房で今使っている湯だ。
「食べ物で試さないんですか」
「まず、手を火傷しないか。熱い鍋を抱えて歩く道具になったら困ります」
瓶を小さな籠へ入れ、布は籠ごと包んだ。
俺は結び目を持ち上げた。底の丸みが掌へ当たるが、布の外は熱くない。けれど、中の瓶へ指を入れれば熱いままだ。布で包んだことを、触っていい合図にはできない。
「これで、町の外でも焼きたてのパンが」
「焼いた直後に包めば」
ロッタさんが補足する。
「明日の朝も熱い?」
ルカの声へ、俺は二本指を立てた。
「二時間。明日の分は、明日」
「一生、焼きたてじゃないかあ」
「一生だったら、宿を畳むわ」
戸口で聞いていたサンナさんが、盆を腰へ当てた。
女将さんは笑ったあと、ロッタさんへ一枚の紙を渡した。
次の厨房担当へ、粉と薪の場所を引き継いだ印。朝食の注文札も、もう新しい担当の手で動いていた。
「今夜の泊まりで、いったん終わり。明日は客と一緒に出ていいよ」
ロッタさんの指が、紙の角で止まった。
「私、出ても大丈夫ですか」
「昨日までに聞いたその質問、五回目」
「すみません」
「鍋をどこにしまったかは、戻って訊くかもしれない。でも、あんたが残らないと開かない厨房にはしてない」
女将さんは盆を持ち直した。
「海へ行ったら、魚の干し方だけは聞いておいで。無理に手紙で送るんじゃないよ。腐るから」
ロッタさんは肩を下ろし、ようやく紙を鞄へ入れた。
俺たちは厨房の仕事が終わるまで、出発を急かさなかった。
代わりに、旅の最初の一日を地図へ描いた。南門を出て、川沿いの街道へ。虹の海は、まだ地図を一枚めくった先にもある。
「明日いきなり海まで走る?」
ルカが訊く。
「靴を使っても、四人の一日にはならない」
「うん。私も道で食べたい物がある」
「もう調べたの?」
「南の石橋の手前。焼いた芋に、黄色い粉を掛ける店」
ミアさんが顔を上げた。
「それ、道の説明を聞いていた時に?」
「大事な目印でしょ」
「橋より覚えやすそうです」
彼女の鉛筆が、地図の余白に小さな芋を描く。道筋とは別の欄だが、俺もきっと先にそちらを見る。
*
二時間後、包んでいた瓶はまだ湯気を上げた。外に置いた方は、指で持てるほど冷めている。
布の端の橙色がゆっくり薄くなり、力が切れた。そのあとも瓶がいきなり冷たくなるわけではない。風へ当てれば、少しずつ熱が逃げる。
ミアさんは、その順序を絵にした。
「包む前に温かかった物。保っていた時間。開けてから」
「味の欄もある」
俺が覗くと、彼女はノートを半分閉じた。
「今日は湯なので、まだ書けません」
「実践書なのに?」
「実践する人は、お腹も空きますから」
そう言ってから彼女自身が照れた。俺は笑いかけ、笑い話にしたら続きを聞けない気がして、先にうなずいた。
「旅の途中で、味の欄も増やしませんか」
「……はい。それなら、続けられそうです」
今日の保温は、試験で一回分を使っている。昼のパンを包んでも、特典はもう働かない。
それでも川辺で食べたい、と言ったのはロッタさんだった。
「温かいかどうかを試すんじゃなくて、出発前のお昼です。私、いつも食べ終わる頃には皆さんが立つので」
俺たちは顔を見合わせた。
給仕の間に食べる料理人の昼と、客が席で食べる昼。その違いへ、俺は遅れて気づいた。
「今日は、四人で座って食べましょう」
俺が言うと、ルカが勢いよく立ち上がった。
「籠、持つ!」
「まだ注文してません」
ロッタさんが笑う。急いで立ったルカも、今度は椅子へ戻った。
昼の包みは、宿のパンと豆の具、薄切りの燻し肉。一人三十銅、四人が自分の分を払う。
俺は昨日の七十銅のうち残していた四十銅から、三十銅を出した。今日まだ依頼は受けていない。旅の用意をしている時間へ、報酬は勝手に付かない。
サンナさんへ今夜の宿代を尋ねると、いつもの部屋の分は一人十八銅。夕食は六銅、朝は四銅。三つをまとめ、二十八銅ずつ先に払った。
支払前の残高は、俺の袋にも足りている。昨日の増えた四十銅を何度も当てにせず、残してあった硬貨と合わせて数えた。
「明日、寝坊したら?」
サンナさんが俺を見る。
「起こしてください」
「追加料金」
「自力で起きます」
「私が起こす。芋が待ってる」
ルカの理由は俺より強そうだった。短く束ねた赤茶色の髪を揺らし、彼女はもう南門の方へ顔を向けていた。
川辺には雨のあとの水がまだ多く流れていた。
岸を下りず、街道側の石の腰掛けを選ぶ。濡れた草の青い匂いに、燻した肉の匂いが混ざった。
ロッタさんが包みを開け、膝へ布を敷く。今日の特典とは別の、彼女がずっと使ってきた生成りの布だ。川向こうで鳥が鳴くと、狼の耳がそちらへ動き、すぐまた俺たちの方へ戻った。
「冷めてる」
ルカが一口食べて言った。
俺は肩を落としかけたが、彼女はすぐ二口目を頬張った。
「でも、豆が甘い」
「冷めると分かる味もあります」
ロッタさんは得意げに、自分のパンを二つに割った。
「明日、温かい物ばかり包まなくてもいいんですよ。おやつの果物なら、布は使わなくていいし」
「特典を使わない物も、持っていく」
「はい。私、好きな鍋も持っていきます。ハルトさんが代わりに出せない味を、作りたいので」
それは能力の不足を埋める役目とは違った。彼女の好きな物が、俺たちの荷の中に入る。
ルカは自分の肩へ剣帯を掛け直した。
「私は剣技会。一個だけ寄るんじゃなくて、道で見つけたら見たい」
「俺は虹の海。途中も楽しみたいけど、行き先は変えません」
ミアさんが二人の間を見て、少し首を傾げた。
「じゃあ、私の実践書は、その途中です。皆さんが先へ行く時、調べ足りない場所で待ってもらえるか、訊きます」
「私も仕込みで待たせます」
ロッタさんが続けた。
「待つの、俺だけ得意になりそう」
「ハルトの箱も待つじゃん。一日」
ルカに言われ、俺は吹き出した。
朝が来れば一つ増える。その間に、俺が誰かのしたいことを待てばいい。
風が変わり、紙の包みが腰掛けから浮いた。
俺は慌てて手を伸ばす。ルカも同時に押さえ、指先が重なった。
ほんの少し、離すのが遅れた。
「肉、まだある?」
彼女は包みの内側を見ていた。
「ある」
「じゃあ飛ばしちゃ駄目」
「分かってる」
俺だけが変な所を見ている気がして、川へ顔を向けた。向こう岸の柳が水へ触れ、すぐまた離れる。
ミアさんは何も言わず、自分の包みへ小石を一つ載せた。ロッタさんは笑ってパンを割ったが、誰の指がどこへ触れたかは聞かなかった。
食後、俺は虹の海へ行きたいと思った最初の夜の話をした。
写真ではない、知らない色の海が見たかったこと。前の暮らしでは、行きたいと言う前に日程表を見てしまっていたこと。
前世のことを全て話すわけではない。けれど、遠い場所を望む気持ちまで隠す必要はなかった。
「海で何する?」
ルカが靴の爪先を伸ばす。
「まず見る」
「そのあと」
「……泳げるなら、泳ぐ」
「私、競争したい」
「私は岸から色を写したいです」
ミアさんが言った。
ロッタさんは少し考え、包みの紐を巻いた。
「魚を焼きます。でも一回は、食べるだけの日がほしい」
「その日は俺が焼く」
言ってから、焦がす未来が一瞬見えた。
「練習してから」
「はい。楽しみにします」
ロッタさんの期待は、ちょうど逃げられない重さで嬉しかった。
*
夕方、四人の荷が食堂の隅へ並んだ。
剣、杖、ノート、鍋。俺の布はまだ薄い橙色のままで、使い終わった一日を示している。
箱の特典が明日何になるかは分からない。今日の布を旅の用意へ加えたが、明日の道をそれへ預けはしなかった。
ロッタさんが鍋の柄を結び直し、ミアさんは地図を濡れない所へしまう。ルカは靴底の泥を落とし、俺は水筒の栓を確かめた。
明日の一つ目の鐘のあと、朝食を済ませて南門へ。石橋までの道を歩き、その先は天候と足を見て決める。
女将さんは並んだ荷を見て、しばらく黙っていた。
「四人ぶんの物があると、旅に見えるね」
「今までは?」
俺が訊く。
「明日の朝ご飯を待ってる客」
「まだ明日も食べます」
「そうだった。最後まで、ちゃんと食べていきな」
食堂の戸を閉める前、ロッタさんは厨房を振り返った。
新しい担当が鍋を下ろし、彼女へ手を振る。ロッタさんは中へ駆け込まず、戸口から振り返した。
俺は保温布を畳んだ。二時間だけ温かさを保つ物が、鞄の一番上に入った。
明日の朝の湯気を、その先の道へ運べる。
けれど今日、冷たいパンを四人で食べた時間は、布には包まなくてよかった。
「ハルト」
ルカが階段から呼ぶ。
「明日、ちゃんと起きてね」
「芋のために?」
「四人で出るために」
振り返った顔は、いつものいたずらな顔だった。
俺は鞄の口を閉じ、今度はすぐに答えた。
「起きるよ。俺が行きたくて、決めた旅だから」




