今日の特典は、鳴らなかった鐘を聞きます
【前回までの人物】
・ハルト:毎朝一つ特典を得る旅人。帰路標を三本とも回収し、見えない近道を公共の道標にしなかった。
・ルカ:剣士。水路の向こうへ消えた猪を追わず、翌朝に依頼内容を聞いてから動く。
・ミア:魔術師。得意な術を使わない判断も仕事だと考え、雨後の北道を変えずに帰った。
・ロッタ:宿の料理人。特典を庭へ置く条件を示し、泊まり客の通路と時間を守っている。
Day9の箱には、貝殻が三つ入っていた。
掌へ収まる白い殻で、口の所だけ青い。
「食べられない方の貝?」
ルカが聞く。
「説明を読んでから決めて」
俺は札を開いた。
今日の特典――《聞き直し貝》三個。
口を向けた近くの音を十秒だけ記録し、一度だけ同じ大きさで鳴らせる。記録できるのは一個につき一度。再生後はただの貝になる。日没で消える。声の主を証明せず、言葉が真実かも判定しない。遠くの音、壁の向こうの音、まだ鳴っていない音は拾えない。
「十秒の音を、もう一回」
ミアさんが札を覗く。
「人の声も?」
「近くなら。でも、誰の声かは証明しません」
「私が『ハルトは朝から肉を二皿食べた』って入れたら?」
ルカが笑う。
「その嘘を、そのまま再生します」
「真実の貝じゃないんですね」
「録音の貝です」
ロッタさんは朝食の皿を置き、殻を一つ指した。
「厨房の注文を入れないでくださいね。昨日の声で今日の料理を頼まれても困ります」
「使いません」
「返事を記録して、あとで働いたことにするのもなしです」
「それ、特典より人の問題では」
「便利な物が来た日は、人の問題が増えるんです」
明るい声のまま、商売の線は明確だった。
番所から来た依頼は、昨日の北道ではなかった。
東の果樹畑で、夜明け前に警戒鐘が一度鳴った。見張りは猪の背を見たと言う。だが、畑の家では鐘を聞いていない。
「鐘が壊れてる?」
ルカが訊く。
番所の少年は肩をすくめた。
「鳴らした見張りは、鳴ったと言ってる。家の人は鳴らなかったと言う。鐘を直す仕事じゃない。畑の外周を三人で見て、猪が残ってたら人を避難させる。追跡は柵の内側まで」
「討伐は?」
「人へ向かうか、果樹を荒らして出ない時だけ。外へ逃げたら追わない」
「報酬」
「三人で銀二枚と十銅。鐘の状態と足跡まで報告」
聞き直し貝を依頼へ使うかは、俺たちが決める。
番所の備品ではない。音を証拠として保証もしない。
「まず、正常な鐘を一個に入れたいです」
ミアさんが言う。
「比べるため?」
「大きさではなく、鳴り始めの音。縄が引かれた鐘と、風で金具が当たった音は違うかもしれません」
「貝の再生が正確だとは書いてある?」
ルカが札を読む。
「同じ大きさ、とだけ。音質の保証はありません」
「なら、参考」
「はい。耳で聞いたことと、貝が鳴らしたことを分けます」
東門の訓練鐘で、一個目を使った。
門番が縄を一度引く。ごん、と低い音。続いて金具が二度震える。
貝の口が淡く青くなり、十秒で消えた。
「入った?」
「まだ鳴らさない」
俺は布へ包んだ。
「一回しか再生できないです」
果樹畑では、甘く傷んだ実の匂いがした。
柵の一部が内側へ倒れ、土には蹄の跡がある。昨日見た北道の跡より幅が狭い。
「同じ猪とは決めない」
ルカは自分から言った。
「右後ろが浅い跡は?」
「ここにはない。土も違う」
見張りの老人は、鐘柱の横で待っていた。
「縄を引いた。手応えもあった。でも家から誰も出てこなかった」
縄の先は鐘へ繋がっている。切れてはいない。
ミアさんが柱の足元を見る。
「鐘を鳴らしてもらえますか」
「今?」
「人がいると知らせてから。訓練として一回だけ」
畑の家へ番所の少年が走り、合図を返す。
老人が縄を引いた。
ご、と短い音がして、鐘は止まった。
「小さい」
ルカが上を見る。
「金具が鐘の内側へ届いてない」
柱へ登らず、下から見える範囲を確かめる。鐘の中の振り子を吊る革が、水を吸って伸びていた。老人が縄を引くと振り子は動くが、縁を撫でるだけだ。
「夜明け前も、この音?」
俺が訊く。
「暗くて見えなかった。手には振動があった」
「鳴ったと感じたのは、手応え」
「そうだ。嘘は言ってない」
「嘘だとは言ってません」
一個目の貝を再生した。
東門の正常な鐘が、ごん、と畑へ響く。家の戸がすぐ開き、中の女性が顔を出した。
「今のは聞こえた!」
「東門で記録した音です。ここの鐘ではありません」
俺はすぐ説明した。
似た音を鳴らして、直ったことにはしない。
「ここで今鳴らした音も、二個目へ入れます」
ミアさんが提案する。
「小さい方を記録して、番所で状態を伝える参考に」
「声で説明できるけど」
「音も一度だけ聞いてもらえる。ただし、修理の判定にはしない」
二個目へ、伸びた革の鐘音を入れた。
残る一個は空のまま。
その時、果樹の奥で枝が折れた。
灰色の猪が一頭、落ちた実を踏んでこちらを見た。
背は大きいが、昨日の三頭のどれかは分からない。血も傷も見えない。
「家へ!」
ルカが老人と女性の間へ出る。
俺とミアさんは二人を石塀の戸へ誘導した。猪は出口になっている倒れた柵ではなく、実の多い畑の中央へ進む。
「斬る?」
ルカが俺たちへ聞く。柄には手を置いているが、抜いていない。
「人は戸の内側。猪はまだ向かってこない」
「柵の内側まで追跡可。外へ出すなら、出口を空けたいです」
ミアさんが杖で地面を指した。
「土術は?」
「使いません。雨で柔らかい。固めると出口を狭めます」
三個目の貝は空だった。
俺は訓練鐘の音をもう一度使えない。一個目はただの貝になっている。
「俺の声を入れて、反対側で鳴らす?」
「十秒後に一度だけ。猪が声へ向く保証はない」
ルカが果樹の列を見る。
「でも、私が剣の鞘を叩く音なら、昨日も猪が嫌がった」
「記録して、出口側と反対で鳴らす?」
「近づきすぎない位置で」
ルカが石塀の陰で、鞘を三度叩いた。硬い音を三個目へ入れる。
俺は青くなった貝を持ち、畑の西側へ回った。出口は東。猪から十歩以上離れ、木の幹を間へ置く。
「鳴らします」
合図して、貝を地面へ置く。
鞘の音が三度鳴った。
猪が西へ顔を向ける。その隙に、ルカが東の倒れた柵から身を退け、出口を広くした。
「こっちは空いてる!」
猪へ意味は通じない。だが、人がいない東側へ風が抜ける。
猪は一度鼻を鳴らし、倒れた柵を越えて外へ走った。
「追わない!」
ルカは剣を抜かなかった。
番所への報告は、三つに分けた。
鐘は縄が切れていない。吊り革が伸び、振り子が鐘へ十分当たらない。見張りは手応えを鐘音と思った可能性がある。修理は未実施。
猪一頭は畑内にいたが、東の破損柵から外へ出た。追跡なし。戦闘なし。負傷なし。
聞き直し貝は正常鐘一回、故障鐘一回、鞘音一回を記録し、全て再生済み。
二個目の貝を番所で鳴らす。
小さな、ご、という音が一度だけ響いた。
「これが今朝の音だと証明できる?」
書記が訊く。
「できません。昼に同じ鐘を鳴らして記録した音です。状態の参考です」
「なら、修理担当へ現物を見せる。音は添付なし」
「貝は日没で消えます」
「ちょうどいい。記録に残すのは、吊り革が伸びているという観察だ」
報酬の銀二枚と十銅は、銅貨へ替えて七十銅ずつ三人へ分けた。端数はない。
討伐数は零。追い出した猪は一頭。鐘修理は零。特典使用は三個。
「今日は派手だった?」
俺が訊く。
ルカは七十銅を袋へ入れる。
「猪を斬らなかったのに、音で向きを変えた。昨日よりは派手」
「魔法は使ってません」
ミアさんが少し笑う。
「使わない日が二日続きました」
「不満?」
「いいえ。私が土を変えなかったから、猪の出口を狭めずに済みました」
番所が呼んだ鐘職人は、午後になって畑へ来た。
赤銅色の髪を布で包み、腰に革紐と小さな金槌を下げた女性だった。名はサイラ。鐘の修理を二十年続け、音を聞く前に吊り具を見る。
「今朝鳴らなかった鐘はこれ?」
「手には振動がありました」
見張りの老人が答える。
「あなたが鳴らしたことを疑ってるんじゃない。革が伸びた時、どこまで振り子が動いたか見る」
サイラは梯子を自分で掛け、番所の少年へ根元を押さえさせた。
「冒険者は登らない。依頼の外だよ」
ルカは少し残念そうに梯子から離れた。
革紐は切れていなかったが、留め穴が一つ裂けていた。雨水を吸い、重い振り子が下へずれたのだ。
「新しい革へ替える。町の予備を使う。見張りの責任にしない」
「費用は?」
畑の女性が訊く。
「警戒鐘は共同設備。番所の修繕勘定。果樹の売上へ勝手に付けない」
サイラは言い切り、古い革を袋へ入れた。
修理後の試し鐘は、俺たちが貝へ記録した音とは別に扱った。
ごん、と低い音が畑の家まで届く。
中の女性が戸口で白布を一度振る。聞こえたという合図だ。
「特典の音と似てた?」
ルカが聞く。
「覚えている範囲では。でも、貝は消えるし、耳の記憶で修理合格にはしません」
ミアさんが答える。
サイラは鐘をもう二回鳴らし、三回とも家の白布を確認した。
「修理確認三回。次の雨のあと、見張りが再確認」
今日直ったから、次の雨でも絶対鳴るとは言わない。
倒れた柵は、畑の持主と道役が仮の横木を入れた。俺たちは手伝えるか訊いたが、道役は首を振った。
「報告で場所が分かった。ここからは畑の仕事だ。猪を追った三人へ、柵まで無償で直せとは言わん」
「猪、また来るかな」
ルカが畑の外を見る。
「来るかもしれん。だから今夜は見張り二人。鐘が鳴れば番所へ伝わる」
「討伐依頼は?」
「足跡と数を見てからだ。今日の一頭を、昨日の三頭と足して四頭にはしない」
ルカは頷いた。倒せる相手の数を増やさないことにも、もう慣れ始めている。
宿で、ロッタさんは七十銅の使い道を聞かなかった。
代わりに、昼を食べ損ねた三人へ、残っていた豆の煮込みを一杯ずつ出す。
「料金は?」
俺が訊く。
「一人三十銅。依頼報酬から自動で引かない。食べる人が払う」
「食べます」
ルカが最初に三十銅を置いた。
「鐘よりお腹が鳴ってた」
「その音、貝に入れなくて良かったです」
ミアさんが笑う。
三人はそれぞれ三十銅を払い、今日の手取り増は各四十銅になった。依頼報酬七十銅と食事支出三十銅を別に記す。
俺は煮込みの湯気を吸い、味の濃さを確かめた。
特典で保存できたのは十秒の音だけだ。温かさも、鐘が直ったあとに見張りが肩を下ろした顔も、貝からは戻らない。
だから、そちらは自分の記憶と報告へ残す。
宿へ戻ると、ロッタさんは三つの貝を台へ置かせた。
「厨房の注文は入ってませんね」
「正常な鐘、壊れた鐘、剣の鞘です」
「全部もう鳴らした?」
「はい。ただの貝です」
「なら、日没まで飾りにしましょう。消えたら皿の数に入れない」
Day9の特典は、真実を喋らなかった。
見張りが嘘をついたとも、家の人が聞き逃したとも決めなかった。
十秒の音を一度だけ戻し、現物を見る場所を教えただけだ。
夜、貝は三つとも淡い光になって消えた。
俺は札へ今日の数字を書く。
記録三。再生三。猪一頭退去。討伐零。戦闘零。術使用零。負傷零。三人帰着。各七十銅受領。
鳴ったと思った鐘は、町へ届いていなかった。
けれど、届かなかった音を誰かの嘘にせず、もう一度聞いて現物へ戻れた。
明日の特典がどれほど強くても、聞き直せるのは今日の十秒だけだ。
だから俺たちは、貝が消える前に、音より長く残る言葉で報告を書いた。




