帰れる力があっても、残したい場所
【前回までの人物】
・ハルト:七日目の特典で風見亭を帰還先に登録した旅人。今日の帰還は、仲間と試して使用済み。
・ルカ:ハルトへ足の止め方を教えた剣士。自分の腕で旅費を稼ぎ、勝負も食事も楽しむ。
・ミア:特典の説明と実際に試した結果を分け、魔法の実践書を作ろうとしている。
・ロッタ:料理を学ぶ旅へ向け、風見亭の仕事を引き継いでいる狼の獣人。
北門の前で、荷車が一台、町へ戻ってきた。
葉のついた大根が、車の端から白い先を出している。まだ土が湿っていた。引いてきた男は荷を下ろす前に、番所の窓へ手を上げた。
俺とルカは、その車が通る幅を空けた。ミアさんも、開きかけた本を胸へ寄せる。
帰還を試した後、門の外の道を少し見ようと出てきただけだった。ロッタさんは休憩を終え、宿の仕込みへ戻っている。
「外へ行くなら、先に番所だよ」
ルカの声が、さっきまでの軽さを失った。
門の脇では、革の上着を着た男が、泥のついた長靴を段へ載せていた。灰の混じる短い髪。日に焼けた首の後ろへ、槍の長い柄が見える。
男は荷車の人と話し終えると、ルカへ顎を向けた。
「護衛の仕事を探してるのか」
「道を見に来た。何かあった?」
「北の畑へ、石牙猪が出てる。朝の荷が三便、引き返した」
ルカの手が剣帯へ触れた。
石牙猪。俺が最初にこの町へ来る道で、荷車の車輪を戻すのを邪魔した、あの大きな生き物だった。
「三頭、ですか」
俺が訊くと、男は首を振った。
「三便だ。見た連中が、同じやつを数えてるかもしれん。俺が見たのは三頭。あんた、前に南の道から来た新人か?」
「はい。ハルトです。あの時は、ルカに教わって車を動かしました」
「俺はオルド。ここの近郊を回ってる」
彼は番所の横へ置いた地図を、風で飛ばないよう押さえた。
町の外の仕事を請け、巡回にも加わる護衛だという。畑の細い道へ印を置く指には、爪の際まで乾いた土が入っていた。
窓の向こうから、門番が記録の紙を出した。
以前、俺たちの荷車の報告を受け取った男性だった。今日は、羽根ペンを置かずにこちらを見る。
「南の道で見た一頭と、同じかどうかは分かるか」
「俺には、分かりません。今日は、まだ見ていないので」
そう答えると、門番は紙の隅へ短く書いた。
オルドさんが指したのは、北へ出る街道から外れた野菜畑だった。その先に林、町側に浅い溝と木柵がある。
「昨日は林の端だった。今朝は畝まで下りた。人を追いかけ回してるわけじゃないが、飯を掘る場所が、こっちへ寄ってる」
「畑に、人は?」
ルカが訊く。
「朝の荷運びの組は戻した。別の畑には、まだ人がいる。荷を取りに行きたい奴もいてな。止めたままじゃ、明日、売る物がなくなる」
彼は、大根を積んだ車へ目をやった。
俺は最初、誰も外へ出なければいいと思いかけた。けれど、戻った車は、門を越えただけで一日の仕事を終えられるわけではなかった。
抜いた野菜も、植えたままの野菜もある。
ミアさんが、地図の林を指す。
「頭数の報告は、いつの分まで並んでいますか」
「昨日の夕方からだ。時刻を覚えてない人もいる。今、聞き直してる」
門番は、書きかけの欄を見せた。
「見てない所まで、危ないと塗りたくない。だが、空いてる欄を安全とも言えん」
ミアさんは頷き、自分の本ではなく、持ってきた薄い紙へ時刻を書く。
俺は、朝に彼女が描いた、三十キロの大きな円を思い出していた。
あの円の内側にも、まだ知らない畑がある。
「俺たちで、手伝えることはありますか」
口にしてから、俺はルカとミアさんを見た。
「俺が、って話です。二人の分まで、勝手に受けたくないので」
「私は、見に行く方なら」
ルカは地図を引き寄せた。
「ここ、門から畑が見える? 人が戻る道を見たい。林の中へ追う仕事は、今日、引き受けない」
オルドさんは、門の外の低い丘を指した。
「あそこまでだ。俺も、もう一度見て戻るところだった。勝手に横道へ入らなきゃ、連れていける」
「私も行きたいです」
ミアさんが言った。
「ただ、私の火は、乾いた畑を守るやり方には向きません。離れた所から、大きな魔物だけを焼けるとは言えません」
オルドさんは、彼女の杖よりも地図の方を見た。
「それを、ここで言ってくれる方が助かる。今日は火を点けず、帰る道を覚えてくれ」
俺も、手首の印を隠さず話した。
速く動ける靴と、荷を入れる鞄があること。けれど、荷を放り込む腕が強くなったわけではないこと。
最後に、朝の帰還を、もう使ったと伝える。
「四人で宿へ戻れます。でも、今日は、もうできません」
せっかく手に入れた力を、役に立てる話へできない。少し、頬が熱かった。
オルドさんは、笑わなかった。
「なら、帰りも足で戻る。知らずに当てにするより、ずっといい」
ルカが、俺の踵を靴の先で軽く示した。
「そっちは、昨日、練習したしね」
「歩いて帰る方まで、試験になってきた」
「走って帰らなくて済むように、見るんだよ」
彼女の目は、もう門の外へ向いていた。
丘と呼ぶほど高い場所ではなかった。
道の先が少し持ち上がり、横の畑を見渡せるだけだ。それでも町の中とは、風の匂いが違った。切った葉、湿った土、その奥に、獣の生暖かい匂いが混じる。
オルドさんが手を上げ、俺たちは歩みを止めた。
木柵の向こうで、土が動いていた。
灰色の背が一つ。少し離れた所に、二つ。
石みたいな牙を畝へ突っ込み、猪が土を返している。一本引き抜かれた葉が、鼻先から落ちた。
思ったよりも、食べていた。
人を憎んで町へ来る敵の顔ではなかった。それで、目の前の木柵が破れなくなるわけでもない。
一本の杭が、もう斜めになっていた。
「あの柵じゃ、止まらないね」
ルカが低い声で言った。
「畑へ入る前に、人の方を戻さないと」
「畑の境を示す柵だからな。猪の重さを受けるために立てた物じゃない」
オルドさんは答え、歩いてきた道を一度振り返った。
俺も、同じ方を見た。
道脇には空の籠が二つ残っている。近くへ行って確かめていないから、誰の物かも、中身を運び終えたのかも分からなかった。
「俺の鞄なら、籠ごと運ぶのを、手伝えます。持ち主が戻る時、一緒に」
「拾う物を、あんたが決めないならな」
「はい。人の入る所は、先に教わります」
オルドさんが、小さく頷いた。
その時、奥の一頭が顔を上げた。
鼻の穴が、こちらを向く。
「下がるよ」
ルカは剣を抜かず、俺の脇へ指を向けた。来た道を塞がない側だった。
俺は、速さの印を開かなかった。突然、三倍の速さで飛び出しても、後ろのミアさんまで速くなるわけではない。
四人で、歩いてきた道へ戻る。
猪は柵の手前で止まり、鼻を土へ戻した。
俺たちが丘の陰へ下がってから、ミアさんが息を吐いた。
「……三頭とも、いました。奥の林は、ここから見えませんでした」
彼女の指が、紙の端を強く掴んでいた。声だけは、最後まで小さく揃っている。
ルカが、その紙の上ではなく、ミアさんの顔を見た。
「うん。今ので全部、ってしないで戻ろう」
「はい。ここで数を足すより、見た分を持ち帰ります」
俺は、自分の唇が乾いているのに気づいた。
勝ったわけではない。けれど、何も分からないまま、三人で林へ突っ込んだわけでもなかった。
門へ戻ると、さっきの荷車は、もう片づけられていた。
門番へ話したのは、最初にオルドさんだった。三頭の位置と、見た時刻。壊れかけた木柵。林の奥は見ていないこと。
俺とミアさんも、訊かれた箇所を自分の言葉で答えた。
増えたのは、数字だけではなかった。どこを見て、どこを見ていないかが、一枚の紙の上で少しずつ分かれていく。
「水、飲みますか」
ひと息ついた時、俺はオルドさんへ聞いた。
彼が水筒を持ち上げる。俺が手を伸ばす前に、首を横へ振った。
「自分のはある。あんたが、先に飲め。声が引っ掛かってる」
そう言われて、少し笑ってしまった。
俺は自分の水筒へ、四分の一リットルだけ水を作った。魔力が少し、身体の内側から抜ける。冷たい水が出る能力ではないが、舌を濡らすと喉が動いた。
ミアさんも、自分の器へ同じ量を出す。
「私の分を足して、今日、半リットルです」
ミアさんは器を置き、紙へ使用量を書こうとした。
「ミアさん、飲んでからでいいですよ。帳面へ書くの」
俺が言うと、彼女は器へ目を戻した。
「……そうですね。飲む前から、次の行を探してました」
ルカも、持っていた水の器を持ち上げた。
「私も、今飲む。話の途中でむせたら、ちょっと待ってて」
二口飲んだオルドさんが水筒を閉じ、机へ肘を置いた。
「俺も飲んだ。じゃ、次の相談だ。外の連中を、どこまで戻すか」
番所の地図に、今度は、町側の道を描いた。
オルドさんが畑の持ち主へ話を聞き、門番が巡回の記録と突き合わせる。いま外へいる人の数は、まだ揃っていない。
俺たち三人で、町全体を見て回る話にはならなかった。
「俺は、荷を運ぶ仕事ならできます。持ち主が選んだ荷を、入る重さまで。人は入れられません」
自分の青い鞄を、膝へ載せて言った。
ルカは、俺の横で続ける。
「私は道を見る。人が戻ってる間に、猪を追いかける方へ走らない。門の人と合図を揃えたい」
ミアさんは、畑の外にある石積みへ印を置いた。
「私は、そこから見える場所と、見えない場所を控えます。水も、持って行く容器が必要なら、先に教えてください」
三人とも、できることの中に、自分がしたいことを入れていた。
俺は、二人の返事が嬉しかった。
オルドさんは、地図の空白を、いきなり線で埋めなかった。
「連れて戻る人と、荷の場所が分かってからだな。合図も、その場で変わらんよう決める。仕事代は、運搬一銀を出せるか、窓口へ掛け合う。まだ約束にはしないでくれ」
「分かりました。受ける範囲を聞いてから、返事します」
俺が答えると、門番が、俺たちへ昼食後の戻り時刻を示した。
呼ばれるまで遠くへ行かない。外の人の報告が集まったら、もう一度、具体的な役を決める。
そこまで話して、俺たちは席を立った。
旅の出発をどうするかも、宿へ帰って四人で話したかった。
風見亭では、鍋の蓋が鳴っていた。
ロッタさんは盆を置き、俺たちの靴の土を見た。
「外へ、出たんですね。お昼は、食べられそうですか」
「はい。でも、その前に、少し話したいことがあります」
俺が言うと、彼女はすぐ手を拭きかけた。
厨房の向こうで、サンナさんが首を出す。
「鍋を下ろしてから。話も焦げるよ」
「あ、はい。すぐに」
ロッタさんは火の場所へ戻った。
俺は椅子へ座り、青い鞄を足元へ置く。
宿へ帰るだけなら、今朝、一瞬だった。今日は、門から自分の脚で戻ってきた。その間にも、ここで火を見ている人がいた。
仕事の区切りをつけたロッタさんへ、北の畑のことを話した。三頭を見たこと。外にいる人を、まだ確かめていること。俺たちはもう一度、番所へ戻ること。
ロッタさんの耳が、厨房の方へ傾いた。
「あっちから来る野菜、うちでも使っています。……明日の出発、まだ、決めない方がいいですね」
「うん。俺は、ここで手伝いたいです。皆が、今日どこへ行きたいかも聞いてから」
ルカが卓へ手を置いた。
「私は残る。けど、四人で何でも引き受けるんじゃなくて、さっき決めた分からね」
「私も、もう一度、門へ行きます」
ミアさんは閉じた本を抱え直す。
「今日見た所なら、今度は、ただ怖いだけではないので」
ロッタさんは、空の器を重ねた。
「私は、いまの仕込みを終えてから、女将さんと話します。配る食事が要るなら、数と、持つ人と、食べる時刻を。私一人の鍋じゃないですから」
「そうしておくれ」
サンナさんが、俺たちの卓へ昼食を運んできた。
「先に、こっちの数は分かってる。三人分。ハルトは六銅、いつものでいいね」
俺は財布から六枚を出した。七十二から、六十六。
スープには大根が入っていた。煮えた角が舌に触れると崩れ、葉の青い香りが、湯気の向こうから上がってくる。
「おいしいです」
言ったら、ロッタさんが、そこで初めて笑った。
「それは、急がないで食べてくださいね。門まで、熱いのを飲んで走ったら、お腹がびっくりします」
ルカがパンを割り、俺の皿を見る。
「食べ終わってから、歩いて行こう。今日は、それが帰りの分まで残ってる力だから」
俺は笑って頷いた。
遠くへ行きたい気持ちは、変わっていない。虹の海も、次の町の食べ物も、見たい。
それなのに、行けるようになるたび、この町へ残したい物も増えていた。
俺はもう一口、やわらかい大根を食べた。
守りたいのは、帰還先に表示された宿の名前だけではなかった。




