帰れる宿が、道の先にある
【前回までの人物】
・ハルト:六日目の特典で、仲間へ能力を貸せるようになった旅人。目的地は虹の海。
・ルカ:ハルトと停止の稽古をする剣士。料理も旅も楽しみにしている。
・ミア:実践書を作りたい魔術師。借りた水の力と、自分で習得した火を使い分ける。
・ロッタ:旅立ち前の仕事を引き継ぐ料理人。自分で水を生成し、四人で試作を食べた。
風見亭の戸を開けて帰れる距離が、三十キロになった。
七日目の朝、俺はその数字を三度読んだ。
昨日は、走り終わった先で止まる練習をした。ルカの合図へ反応して、青い鞄を振り回さずに足を止める。早くなる靴があっても、膝の使い方まで届くわけではなかった。
午後の石畳で、何度も足音を揃えた。
転ばず終わったのが嬉しくて、夕食の味はいつもよりよく分かった。代金は六銅。宿代十八銅と今朝の朝食四銅も払ったから、財布には七十二銅が残っている。昨日の昼は持っていた携帯食を一食分使った。
何も使わずに朝が来たわけではない。
けれど、最初に特典を受け取った時刻から、もう一日が来た。手首の表示は、暦を捲ったことではなく、その時間の経過を知らせていた。
提示された三つの候補のうち、俺の指は、旅宿帰還、の字で止まった。
隣のルカが、パンを持ったまま覗いた。
「帰る方だけ、なんだ」
「うん。ここから好きな町へ飛ぶ方じゃない」
俺は説明を、彼女へも見える向きにした。
登録した宿は一箇所。半径三十キロ以内から、一日一度。自分と、同意した同行者三人までを、その宿へ戻す。
登録した先の受入れが必要で、契約の切れた宿を、いつまでも自分の帰り先にはできない。戦闘中と転移を遮る結界の中では使えない。
宿へ戻す能力であって、人の荷を奪ってどこかへ送る力ではなかった。同行者とその所持品は本人の同意の範囲。自分で持ち運べない荷を、離れた場所から引き寄せることもできない。
「これ、貰いたい」
俺が言うと、ルカは、いいね、と笑った。
「転んだら帰れる、の前に、転ばない練習してよかったね」
「昨日、途中でこれを貰ってたら、絶対さぼってたと思う」
「その時は、もう一回、歩いて稽古場」
彼女はパンの残りを口へ入れた。
俺は帰還の字を選んだ。指の先に薄い輪が一度広がり、それから手首の印の中へ収まる。
靴や鞄のように、卓へ新しい道具が落ちたわけではない。
それでも、帰ってこられる場所が増える気がして、俺は食べ終わった皿を少し寄せた。
宿の女将サンナさんへ説明する時は、思ったより緊張した。
旅人の俺が便利になることと、宿の中へ突然四人が戻ることは、同じではなかった。
朝の仕事が一段落するまで待ち、受付の端で、新しい能力と、試したい場所を話した。
「部屋の寝台へ、どん、と戻るんじゃないんだね」
「戻る場所は、登録する時に決めると出ています。宿の方がよいと言った所へ。通路を塞がない場所を、見てもらえますか」
サンナさんは帳簿を閉じ、中庭への戸を開けた。
「なら、あの壁の前。洗い桶を置く所は、使わない。昼にはここで荷を動かすから、戻る前にこちらが受けられる状態かも確かめて」
俺が頷くと、彼女は少し笑った。
「あと、それで戻ったから、もう一晩無料ってことにはならないよ」
「はい。食事も、別ですね」
「そこまで分かってたら、話が早い」
彼女は床へ置かれた籠を退け、壁の前に人が立てる幅を作った。
俺は言われた位置を見てから、風見亭を帰還先に選ぶ。
宿の名前と、登録された場所の印が出た。受入れの確認が終わると、帰還先は一つ、と示される。
扉をいくつでも増やせる力ではなかった。
それでも、俺の頭に最初に浮かんだのは、もっと遠くの宿を選ぶ得ではない。この戸を開けたら、料理の匂いがするということだった。
「戻ってきたら、おかえりって言ってもらえる所なんですね」
うっかり声に出すと、サンナさんは籠を抱え直した。
「顔が見えて、こっちの手が空いてたらね。鍋を焦がしそうな時まで、待たせないでおくれよ」
俺は笑って、はい、と答えた。
ロッタさんが、その話を聞いたのは休憩へ入ってからだった。
狼の耳が、手首の新しい印へ向く。
「今日は、外へ出ても戻って来られるんですか」
「一度だけ。四人で試したいです。ロッタさんも、よければ」
「行きたいです。でも、お昼の仕込みに戻る時刻は、変えられません」
俺は、帰還できるから大丈夫、と言いかけた。
その言い方をしたら、使えなかった時の徒歩の分を、彼女へ押しつけることになる。
「歩いて戻っても間に合う所にします。今日は、門の外まで行かずに、近い目印から」
「それなら。女将さんにも、時刻を言ってきます」
ミアさんは、もう本を開いていた。
「三十キロの端まで行って、一度で全部調べるんですか」
「今日は、そこまでは。地図でどの辺になるか見て、近い場所で使う方を確かめたいです」
「はい。地図の距離と、本当にそこから戻れたことは、別に書きます」
彼女は自分の頁留めを動かした。
紙の端に、試した場所、と書く。説明の数字を、そのまま実験の結果へ写さない手だった。
地図を開いたのは、その後だった。
ミアさんは、風見亭の印へ指を置き、物差しで三十キロの幅を確かめた。町の外の道まで入るが、虹の海のある方までは、到底届かない。
「どこにいても帰れる、とは書けませんね」
「はい。円の外へ出たら、普通に戻る道が要ります」
俺が言うと、ルカは自分の旅先の方へ指を滑らせた。
「次の町で宿を替えたら、ここへは帰れなくなる?」
「登録は一つ。替えたら、前の登録は残らないと出てる」
「じゃあ、ここへ忘れ物したからって、全部取りに戻れるわけじゃないんだ」
「それは、鞄へ入れる方で頑張ろう」
ロッタさんが、持つ包みを見下ろして笑った。
「荷造りの練習も、まだ必要ですね。帰れる力があると、余計に忘れそうです」
四人で地図を閉じた。
大きな数字を知っただけで、もう長旅が終わった顔にはならなかった。それより、今日、仕事へ戻る人が無理なく行ける場所を、一緒に選ぶ方が先だった。
出る前に、三人へ、それぞれ聞いた。
帰還に同意するか。荷物を含めて一緒に戻りたいか。戻る場所が風見亭の中庭でよいか。
昨日の水の貸し出しと、今日の帰還の同意は、別だった。
「水を飲んだからって、勝手に運ばれたら困るしね」
ルカは笑い、自分の剣帯を確かめた。
「私は、一緒に戻る。剣も、これで全部。まだ抜かない」
ミアさんは本と鞄を示す。
「私もです。記録は、着いてから書きます。移動する途中を覗こうとして、手を離しません」
「私は、この包みだけ。今日は鍋を持ちません」
ロッタさんの言葉へ、俺はつい青い鞄を見た。
鞄へ入れれば重量の話が消えるわけでも、生き物を入れられるわけでもない。今日は新しい能力の試験に、重い荷まで足さないことにした。
持ち物の口を閉じるだけで、四人の出発には少し時間が掛かった。
それを、遅いな、とは思わなかった。
四人で出る所から、もう、昨日と違っていた。
宿を出て、俺たちは市場へ向かう通りを歩いた。
朝のパンの匂いは一つ角を曲がると薄れ、代わりに積んだ木箱の樹脂の匂いがした。ルカが昨日より軽い歩幅で、俺の横へ並ぶ。
「これで、帰りは歩かなくていいわけだ」
「今日は、成功すればね」
「全部、成功しても、たまには歩こう。帰りに見つける食べ物もあるし」
俺は、その理由に笑った。
「行きで見つけたら?」
「行きでも買う」
「それ、荷物が増えるやつだよ」
「そのための帰還でしょ」
言いながらも、ルカは店へ駆け込まなかった。
今日はロッタさんの休憩の中で試している。彼女は、自分の食べたい物より先に、その歩幅へ合わせていた。
ミアさんが、広い辻で立ち止まる。
「ここまでなら、宿から歩いた道も分かります。目印は、あの水を汲む台ですね」
ロッタさんも頷いた。
「お客さんへ、市場を案内する時に使う所です」
俺は、手首の表示を開いた。
帰還先は風見亭。範囲の内側。同行者の確認も、三人分が揃っている。
地図で三十キロの円を見た後では、随分近い。
それでも、俺たちがいま立っている所は、宿の戸口ではない。戻るには、さっき曲がった二つの角を通らなくてはならなかった。
人の流れから外れた場所へ寄り、俺は三人の顔を見た。
「いまから、戻ります。急いでいる所や、気分の悪い所は、ないですか」
「ない。だけど、ハルトの顔がいちばん固い」
ルカが手を差し出した。
俺は笑おうとして、息を吐く。
「水を出す時も、最初、こんな顔だった?」
「もっと、嬉しそうだった。今日は、行っていいのかなって顔」
ロッタさんが、包みを胸へ寄せた。
「私は、帰ってから、まだ続きをしたいです。外で食べる時の器も、試してみたいので」
ミアさんは本を閉じ、右手を空ける。
「私も。今日できる分だけで、構いません」
励ましのために、全員が同じ声になったわけではなかった。
ルカは手を出し、ロッタさんは次の料理を考え、ミアさんは記録を閉じて待っている。
俺も、自分のしたいことを言った。
「俺、遠くへ出るのを、もっと楽しめるようになりたい。帰り道が分かると、行きたいって言いやすくなる気がするので」
「じゃあ、一回、帰ってみよ」
ルカの声が、いつもの稽古の始まりみたいだった。
俺たちは、示された接触を保った。互いの袖や荷だけを引っ張るのでなく、それぞれが同意した姿勢を取る。
帰還を選んだ。
足の下の石の色が変わった。
引き延ばされる感じも、空を落ちる感じもなかった。ただ、光が短く細くなった後、鼻の先へ、煮込みの匂いが届いた。
俺は反射的に膝を緩めた。
昨日、止まる練習をしておいて、本当によかった。
壁。空けてもらった床。井戸側ではなく、指定された中庭の端。
四人が、風見亭へ立っていた。
ルカが自分の足元を見てから、顔を上げる。
「……帰った」
「はい。ここ、いつもの壁です」
ロッタさんの声が弾んだ。耳が立ち、次に、包みの中身を確かめる。
ミアさんはすぐ本を開かなかった。俺たちの顔を順に見ている。
「三人とも、揃っていますね。ハルトさんも」
「俺まで数えてくれて、ありがとうございます」
笑ったら、ようやく肩の固さが抜けた。
手首には、本日の使用済み、と出ていた。
一緒に戻った人を替えれば、もう一度使えるのではない。一人で戻って、別の三人を迎えに行く力にもならなかった。
今日、帰ったのは、この四人だった。
「早かったね」
戸口から、サンナさんが顔を出した。
俺は説明しようとして、ルカと同時に口を開いた。
二人で止まると、女将は笑う。
「順番に。中庭へ立てたのは見た。何処まで行った?」
「市場の手前の水汲み台です。範囲内と出た所から、一度、使いました」
「荷も、人も、大丈夫そう?」
俺は三人へ目を向けた。返事まで自分がまとめなかった。
それぞれが答えるのを聞いてから、サンナさんは戸の外へ目をやった。
「なら、こっちは、受ける場所をこのまま空けておく。ただし、何も言わずに毎日大勢を連れて帰る約束じゃないよ」
「はい。今日の三人と、明日の宿泊も、別に相談します」
ロッタさんが、厨房の方を見る。
「女将さん、休憩の残りで、お水を一杯だけ飲んできます」
「行っておいで。戻る仕事は、さっき決めた時刻からでいい」
彼女は頷き、すぐ仕事へ飛び込まず、俺たちの卓へ戻ってきた。
ミアさんの記録には、大きな三十と、小さな辻の絵が並んだ。
説明上の上限は半径三十キロ。今日、確かめたのは、歩いて戻れる近い辻からの帰還一回。
「境目を越えて、戻れなくなる試験は、していません」
彼女は言い、俺も頷く。
「はい。三十キロの円を、全部歩いた顔はしません」
「全部歩いたら、夕飯もいっぱい食べられるね」
ルカが言うと、ロッタさんが、量は先に、と笑った。
昨日までの水の使用量は、新しい一日で区切られていた。今朝はまだ、誰も生成していない。帰還の使用回数と、水の二十リットルも、同じ欄へ入れない。
俺は青い鞄へ、閉じたままの敷物を戻した。
特典を受け取るたびに、一人でできることが増えると思っていた。
今日は、四人で戻ってから、また四人で続きを考えられる場所ができた。
「虹の海の近くでも、泊まる宿を登録できたらいいな」
俺が言うと、ルカは窓の向こうへ目をやった。
「そこへ行く道は、歩こうね」
「うん。そっちは、まだ持ってない」
海までの道を飛び越えたわけではない。
風見亭の戸の向こうにある今日の朝へ、一度、帰ってきただけだ。
それが嬉しくて、俺はもう一度、中庭の空いた床を見た。
次に外へ出る時も、今日の一回は残っていない。
だから、歩いて帰れる準備をしたまま、今度はもう少し遠くを見に行こうと思った。




