水を出す人、火を守る人
【前回までの人物】
・ハルト:六日目の特典で、同意した仲間へ支援の能力を貸せるようになった。水量の一日上限は全員共通。
・ルカ:大会を目指す剣士。ハルトの稽古にも付き合い、自分も水を使ってみたいと話した。
・ミア:実践書を作りたい魔術師。共有された水の能力で、最初の四分の一リットルを出した。
・ロッタ:旅立ち前の仕事を引き継いでいる料理人。共有する能力は、本人が選んで試す約束。
ルカが出した最初の水は、杯より自分の膝へ入った。
「あっ、冷たっ」
「常温です」
ミアさんが真面目に言うので、俺は笑いかけた口を、片手で押さえた。
六日目の午前。風見亭の中庭は、洗い物の時間が終わって、石畳の半分だけ乾いていた。
ルカは片膝を少し横へ向け、濡れた布を指で摘まむ。
「布の上では、冷たいんだよ。ほら、出たでしょ」
「出たのは、ちゃんと見た。でも、飲む所まで見てない」
「次は飲む」
杯を持ち直す目が、稽古で俺を転ばせる時と同じになった。
始める前、ルカは自分の空の杯を俺へ向けていた。
「私にも、水を貸して。いま、自分で出して飲んでみたい」
俺は、水だけでいいかと聞き返した。彼女が頷いてから、その能力を選んだ。杯を持つ手が濡れたのは、その後だ。
今朝、ミアさんに出してもらった水は四分の一リットル。そこから同じ能力を貸したルカの最初の一回も、同じ量だった。杯には半分ほど、残りは膝と石畳へ落ちた。
どこへ出しても、使った水が戻るわけではない。
俺の手首の表示は、半リットルになっていた。
「今日の使用量、半リットル。残り十九と半分」
「私の服を絞って、戻すのは?」
「やめてください。飲み水です」
ミアさんの速い返事に、今度は三人で笑った。
ルカは杯を卓へ置き、空いた手をその上へ持っていった。
「手を動かさなければいいんだ」
「剣の時みたいに、最後まで振り抜かなくていいですね」
俺が言うと、彼女が目を細める。
「今日の稽古で、その返事、覚えとく」
「忘れてくれていい所だよ」
次の細い水は、ちゃんと杯へ入った。
四分の一で止める。手首の印が変わり、彼女は自分の指を一度開いた。
「少し、胸の下が軽くなる感じ。息を吐いた後に似てる」
「痛みは、ありませんか」
ミアさんが訊く。
「ない。あと、見て。服、これ以上濡れてない」
ルカは杯を持ち上げて、今度こそ飲んだ。
俺まで、ひと仕事終えたような顔になっていたらしい。
「ハルト。私が水飲むの、そんなに嬉しい?」
「膝じゃなくて、口へ入ったから」
彼女は、空いた手で俺の肩を軽く叩いた。
ロッタさんが来たのは、休憩に入ってからだった。
仕事中の盆を持たず、小さな包みを胸の前で抱えている。狼の耳が、庭へ入った途端にぴんと立った。
「今日の失敗、聞いちゃいました」
「盆も持ってないのに、噂だけ運ばれてる」
ルカが膝を払うと、ロッタさんは笑って、包みを卓へ置いた。
「私も水を、お願いします。自分の魔力を使う所から、ミアさんに見てもらえますか」
「はい。少ない量で、途中で止めたくなったら止めましょう」
ミアさんは、自分の本を閉じた。
昨日の頁留めは、本の端へ付けたままだった。
俺はロッタさんの返事を聞いてから、水の能力だけを指定する。これで貸している相手は三人。一人三つまで選べるが、いま使えるようにしたのは、三人とも水だけだ。
「収納の方も、気になりませんか」
ロッタさんが、俺の青い鞄を見た。
俺は、ちょっと申し訳なくなる。
「俺も考えました。でも、あれは貰った道具の方です。鞄そのものが、三つ増える表示は出ませんでした」
「残念です。粉の袋、持たなくてよくなるかと思って」
「俺の鞄で運ぶのは、できます。ただ、口へ入れるまでは、持つ手が要ります」
「じゃあ、持つ所を一緒に考えますね。鍋ごと、雑に入れないように」
言いながら、彼女は計量杯を、自分の見やすい向きへ回した。
料理を量る時と、同じ手だった。
最初の水が、杯の底へ小さな音を立てる。
「……これ、手を洗う時より、少なく見えますね」
「出続けると、すぐ増えます」
ミアさんの声に、ロッタさんが頷いた。
印の所で、すっと止まる。
四分の一リットル。
共通の使用量が、ちょうど一リットルになった。
「できました」
ロッタさんの尾が一度揺れ、それから、卓の脚の前で止まった。
彼女は杯を覗き、俺の手首も見る。
「本当に、そちらでも増えるんですね。いま私が使った分なのに」
「使う手が増えたの、ちゃんと見えるのも嬉しいです」
「じゃあ、出しすぎたのも、見えちゃいますね」
そこで彼女は、ルカの膝を見なかった。
見なかったことが、かえって全員に分かった。
「はいはい。次から、卓へ置く」
ルカが先に言うので、俺たちはまた笑った。
包みには、焼いてから少し固くなったパンが入っていた。
ロッタさんが、四つに分ける。
「私が買った分です。試作の余りだからって、お店の物を勝手には持ってきません」
「何のパンですか」
俺が身を乗り出すと、彼女の耳も、こちらを向いた。
「南の方で、汁へ浸して食べると聞いたんです。まだ、その土地の味は知りませんけど。今ある豆の煮汁と合わせたら、どうかなって」
小さな蓋を開けると、豆と香草の匂いがした。煮汁も、自分の試食用に材料代を払って取っておいた分だと、ロッタさんが付け足した。
俺は、すぐに一切れを取ろうとして止まった。
「それ、温める方がいいですか」
「はい。でも、ここで大きな火は使えませんね」
彼女の目が、庭の端の石敷きへ向く。
洗濯物の下でも、客が通る戸口でもない、以前、小さな火の練習に使った場所だった。
ミアさんが立った。
「温めるだけなら、私の練習した火で。水は、別にしておきましょう」
水を出せる人が増えても、火を見なくてよくなるわけではなかった。
ロッタさんは器の底を確かめ、固い石の上へ置く。
俺とルカは、その脇へ腰を下ろした。
四人で小さな器を囲むと、旅に出た後の昼休みに見えた。
まだ宿の中庭なのに、少しだけ、遠くへ来た気分になった。
最初に困ったのは、風だった。
ミアさんが指を寄せていた小さな炎が、庭を抜けた風で傾く。彼女は火を大きくせず、器から一度、離した。
「下へ、回ってしまいます」
「こっちで、風を避けようか」
ルカが自分の座る場所を少しずらした。
炎だけ見ていた俺は、彼女の膝の向きに気づく。
立つ時に器へ当たらず、戸口も塞がない位置だった。
「ルカ、ずっと、そういう所から見てるんだ」
「そりゃ、食べる前に蹴りたくないし」
当然のように言い、彼女は風上へ背を向けた。
ミアさんの火が、今度は器の下で短く揺れる。
ロッタさんは、木の匙で煮汁をゆっくり動かした。
「熱くしすぎる前に、少しお水を足したいです。ハルトさん、これを置く所、持ってきてもらえますか」
俺は鞄から、自分の荷に入れていた小さな敷物を出した。
遠くの物が勝手に吸い寄せられるのではない。口へ手を入れ、自分で取り出して渡す。
その間にも、ロッタさんは自分の指を、器から離れた所へ向けていた。
「こっちの杯へ、先に出します」
彼女は四分の一リットルを作り、そのうち必要な分だけ煮汁へ加えた。
ミアさんの火は、一度消す。
量を見て、また短く温める。
誰かが、全部を一度にしなくてもよかった。
俺の手首では、一と四分の一リットルになっていた。
魔力を使ったのは、ロッタさん自身だ。杯の水を鍋へ全部入れなかったからといって、表示が減ったりはしない。
彼女は残りを、すぐそばへ置いた。
「これも、あとで使います。作って余った分なので」
ロッタさんらしい言い方だった。
煮汁の表面に、ふつ、と泡が一つ出た。
「そこまでで、大丈夫です」
料理人の声は、いつもの柔らかさより、少し短かった。
ミアさんはすぐに火を止めた。
ルカが風上から顔を戻し、鼻をひくつかせる。
「いい匂い。まだ食べちゃだめ?」
「器の方が熱いので、こちらへ分けてからです」
「敵が強い時より、待ってる気がする」
俺が言うと、ルカが真剣に頷いた。
「相手が逃げないって分かってる時が、一番長い」
「パンは逃げませんよ」
ロッタさんが笑う。
ミアさんは、消した指先を見て、それから俺を見た。
「ハルトさんが習った火も、いまみたいに、自分で止められるようにしておけばいいんですね」
「俺なら、泡が出た所で、成功だって手を上げてたかも」
「その手を上げる前に、火を消してください」
「はい。覚えます」
共有の力より、教わったことが先に増えた。
最初の一口は、思っていたより酸っぱかった。
俺の目が、少し大きくなったらしい。
ロッタさんが、匙を止めた。
「酸味、強かったですか」
「びっくりしました。でも、豆だけより、次の口が欲しくなる」
言いながら、俺はもう一切れのパンを持っていた。
彼女の耳が、ゆっくり上がる。
「干した実を、少し。甘くなるだけかと思ったら、こっちの香草と合わせると、酸味が残ったんです」
「私は、このくらいが好き」
ルカが自分の器を抱えた。
「でも、稽古の前には、もう少し欲しい」
「量の話は、味の後にしてください」
ミアさんが言うと、彼女はパンの欠片を口へ入れたまま笑った。
ミアさん自身は、器を持つ前に、少し考えた。
「私には、香草が強いかもしれません。嫌いではないんですが、豆の方も食べたいです」
ロッタさんは頷き、匙の先を見た。
「次は、後から足せるようにしてみます。皆さん、同じ味が好きじゃなくていいんですね」
「同じ味が好きでも、ルカの分だけ、鍋がもう一つ要るよ」
俺が言うと、彼女はあっさり返した。
「じゃあ、私が運ぶ。収納じゃなくても、一個なら持てる」
誰も強くなった力の話だけをしていなかった。
それが、俺には嬉しかった。
食べ終える頃、ロッタさんは休憩の残り時間を確かめた。
俺は反射的に、器を集めかける。
「ハルトさん、その杯は私が持ちます。残っている水も使って、冷めてから下洗いしますね」
「俺が出さなくても、大丈夫なんですね」
「はい。さっき、自分で出しましたから」
言われて、俺は少し照れた。
頼まれる前に全部やる習慣は、仲間が増えても、すぐには抜けなかった。
ロッタさんは使った物を自分の盆へまとめ、厨房へ戻っていった。休憩の試作が、宿の新しい仕事になったわけではない。次の献立へ出すかどうかは、また、彼女の仕事の時間に考えることだった。
ルカは石畳の端に残った、最初の水の跡を見る。
「乾いた」
「膝は?」
「まだ少し。今日、最初に失敗した人が、私だったの、帳面に書いた?」
ミアさんは、本を開いた。
「手を動かすと、出る先も動く、とは書きました。ルカさんの膝、とは」
「よし。それなら、いい先生だ」
「まだ、教える方も練習中です」
昨日の留め具へ紙を添えると、本が開いたままになった。
ミアさんは空いた右手で、今日の続きを書く。
火の強さだけでは、器は温められない。風を見る人と、止める時を知っている人がいた。
水を出す人が増えても、鍋を持つ人が要る。
俺は、その横で、残っているパン屑を集めた。
「午後は、少し外で歩こうか」
ルカが伸びをして言った。
「走る靴を使う時、いまみたいに、持ってる物をどこへ置くかも練習しよ。水は出せるようになったけど、私の走り方まで、靴に入ってないからね」
「その練習、俺が転ぶやつ?」
「転ぶ前に、止まるやつ」
ミアさんが本を閉じた。
「私も、風上を見るのを忘れないようにしたいです。行くなら、少しだけ一緒に」
俺は、手首の使用量をもう一度見た。
今日、一と四分の一リットル。残り、十八と四分の三。
新しい特典を受け取ってから、まだ次の二十四時間は来ていない。貰った能力が、また増えたわけでもなかった。
それなのに、昨日は一人でしかできなかったことが、三人の違う手で動いた。
財布は、朝食を払った後の百銅のまま。試作のご馳走で、宿代が浮いたことにはならない。昼の食事も、あとで自分で選ぶ。
俺は青い鞄の蓋を閉めた。
虹の海までの道は、まだ、地図の先に長く残っている。
でも、今日の小さな火を囲んでいた四人で、あの景色を見るところは、前よりはっきり想像できた。
「行こう。転ぶ前に止まれたら、昼は何を食べるか考えたい」
ルカが、いいね、と笑った。
まだ少し濡れている膝を、彼女は、最後にもう一度払った。




