その水は、私が出します
【前回までの人物】
・ハルト:毎朝の支援から一つを選ぶ青年。五日目は、素材と魔力を使う「合成強化」を受け取った。
・ルカ:大会を目指す剣士。ハルト、ミア、ロッタと四人で旅をすることに同意した。
・ミア:魔法の実践書を作りたい魔術師。ハルトと合成強化を試す約束をしている。
・ロッタ:風見亭で働く料理人。仕事を引き継いでから、南の料理を学ぶ旅へ出たいと望んでいる。
合成で最初に強くしたのは、剣でも鎧でもなかった。
紙を挟む、小さな木片だった。
五日目の午後。昼には鞄に残っていた携帯食を食べ、本を返し終えたミアさんと、風見亭の中庭で会った。
卓には、彼女が持ってきた木の切れ端と、細い革がある。
「私の古い筆入れを直した時の余りです。この分なら、使ってかまいません」
木片を指で弾くと、乾いた高い音がした。革の方は、片端が既に裂けていた。
「もっと、立派なものを想像してました」
「私も、さっきまでは。木と革で作れるものを、考えるまでは」
ミアさんは自分の本を開く。中ほどの頁が、手を離した途端に戻った。
「あっ。また」
細い指が、逃げた頁を追いかけた。
教本へ直接書き込まず、読んだ所を別の紙へ写す。その紙を押さえれば本が閉じ、本を押さえると紙が風で動く。
「これが、開いたままになれば。指を一本、術式の練習に使えます」
「世界を救う前に、指が一本空く」
「一本でも、嬉しいです」
冗談にした俺より、彼女の方が嬉しそうだった。
合成強化の表示を出す。素材には相性があり、足せば何でも強くなるわけではない。選んだ二つを置くと、木片と革の境が淡く光った。
金属を増やす候補は出ない。硬い板を、折れない剣にするという表示もない。
俺は、革のしなりを残して、木を挟む形を選んだ。
「いきます」
指先に、針先ほどの熱が集まった。
木の匂いが一度濃くなる。革の細い端が吸い寄せられ、木目の間へ溶け込んだ。
卓の上には、元の二つの素材が残らなかった。
代わりに、小さく曲がった留め具が一つある。
「できた……」
声を出したら、肩から力が抜けた。何かが身体の奥で少し減った感じがする。頭が空になるほどではないが、何十個も続けて作りたい感覚でもなかった。
ミアさんが手を伸ばしかけ、止める。
「熱くないですか」
「少し待ちましょう。俺の方も、一息」
彼女は頷き、閉じかけた本を肘で押さえた。
成功した瞬間にも、面倒は全部消えてくれなかった。
それが可笑しくて、二人で笑った。
留め具の最初の試験は、失敗した。
頁が薄すぎて、挟んだ所から、するりと抜けたのだ。
ミアさんの手が、本と留め具を同時に追った。
「強くなったのに」
「紙まで強く挟む、とは選んでないですね」
俺は留め具を持ち上げた。
壊れたわけではない。木は少しだけしなり、革の端は剥がれていなかった。だが、なんとなく作った隙間は、なんとなく広すぎた。
ミアさんは、端に何も書いていない紙を折り、挟む部分へ添えた。
本は、今度は閉じなかった。
「あ。これなら、読めます」
片手を離す。もう片方も、少しだけ離す。
彼女の口元に笑いが広がった。
「ハルトさん、指だけでなく、両手が空きました」
「最初の目標の二倍です」
「でも、紙を添えるのは忘れないようにします」
早口で言って、彼女は留め具の形を記録し始めた。
合成なら何でもぴったりになる、と書かない。木と革をどう置いたか。素材がなくなったこと。終わった俺が休みたくなったこと。
それから、留める紙にも厚さがあること。
細かい記録を、今日は少し愉快に読めた。出来なかったことが並んでいるのに、目の前では、本がちゃんと開いている。
「ミアさん、これ、使ってください」
「素材を私が出したから、ですか」
「使いたいって言ったのが、ミアさんだったので」
彼女の鉛筆が、止まった。
留め具を見て、俺を見て、もう一度留め具を見る。
「ありがとうございます。名前は……頁留め、でいいでしょうか」
「すごい名前、つけなくていいんですか」
「実践書に『ものすごい留め具』と書くと、あとで探せません」
今度は俺が、声を出して笑った。
夕方には、ロッタさんが中庭へ顔を出した。
休憩ではなく、空いた盆を下げる途中だ。耳の先が卓の上の本へ向いた。
「できました?」
ミアさんが留め具を持ち上げる。大きな宝石でも見せるみたいに、両手で。
「紙を添えると、開いたままにできます」
「献立の帳面にも欲しいですね。粉の手で頁を押さえなくていいなら」
「まだ、一つ作っただけです」
俺が言うと、ロッタさんはすぐ頷いた。
「じゃあ、それはミアさんの分で。私のは、ちゃんとどんな帳面か見てもらってから」
ミアさんは胸元へ本を寄せた。取られそうだと思ったのではなく、自分の分だと確かめるみたいだった。
裏口からサンナさんの声が飛ぶ。
「盆は、魔法で帰ってこないよ」
「今、帰します!」
ロッタさんの尾が、戸の角を避けて揺れた。
夕食は六銅。部屋の十八銅も払った。
百二十八から引いて、残りは百四銅。派手な武器も高価な素材も買わなかったが、腹はちゃんと減るし、寝る場所には金が掛かる。
その夜、俺は、ルカに留め具の話をした。
「明日は剣も合成する?」
串の最後の一口を食べた彼女が訊く。
「いきなりルカの剣は怖い。失敗して、紙を添えて使ってって言えない」
「言われたら怒るよ」
「怒る前に、俺が泣く」
ルカは笑い、皿を卓の真ん中へ寄せた。
「だったら、明日もまず、小さいのから。魔法の先生も、そういう練習するんでしょ」
「俺が先生って呼ばれたら、ミアさんが困りそう」
「じゃあ、初級の隣の席で」
そこなら、座れそうだった。
*
六日目の朝。
前の受領から二十四時間が過ぎると、手首へ三つの候補が現れた。
旅の外套。丈夫な鍋。そして、技能共有。
俺は寝台の端で、最後の表示をもう一度読んだ。
俺が受け取った支援の能力を、同意した仲間へ使ってもらえる。相手は三人まで。一人につき、選ぶ能力は三つまで。
相手の元の技を取り上げる力でも、何も言わず身体へ流し込む力でもない。
解除すれば、貸した支援だけが使えなくなる。
水の説明を開くと、昨日までとは違う欄が続いていた。
水量の一日上限は、全員で同じ枠を使う。使う魔力は、実際に水を出す人のもの。
頭の中で、四人分の二十リットルを並べかけて、やめた。
そんなに増えるとは、どこにも書いていない。
それでも、俺が荷物を持っている時に、誰かが水を出せる。
俺が眠っていても、頼まれたことを覚えている人が、自分で選んで使える。
表示の中にある三人という数が、昨日、中庭で話した三人の顔へ変わった。
俺は技能共有を選んだ。
朝食の四銅を払うと、残りはちょうど百銅になった。
ルカは俺の手首と、朝食の椀を交互に見た。
「今朝は、何が来たの」
「少し、相談したいのが来た。水を出すやつ、他の人にも使ってもらえるようになる」
「私も?」
「ルカが使いたいなら。勝手にはしない」
彼女は、匙を止めた。
「へえ」
その一言の後で、顔が少し嬉しそうになる。
「じゃあ、私の火打ちを忘れても、ハルトの火が使える?」
「そっちは違う。ミアさんに習った火は、俺が支援で受け取った能力じゃない。今朝、貸せるのは、支援の方だけ」
「ああ。習った分は、自分の物なんだ」
ルカは頷き、椀を空けた。
「水、便利そう。でも、私は魔力の使い方から聞きたい。朝ご飯の直後に倒れる役は、遠慮する」
「それは俺も遠慮したい」
「なら、一緒に聞こう」
即答してくれたのが、ありがたかった。
使わない、と言われても、仲間ではなくなるわけではなかった。
ミアさんには、朝の用事へ出る前に話をした。
ロッタさんも仕事の合間に、説明の短い所だけ聞く。三人を長く食堂へ留めず、実際に試すのはミアさんだけと決めた。
「水なら、私はやってみたいです。自分の魔力で、どこまで使うのか分かれば」
ミアさんは、昨日より早く希望を言った。
ロッタさんが、洗った小さな計量杯を持ってくる。
「これは、お貸しするだけです。水を出すお仕事の注文じゃありませんからね」
「分かってます。まず、これを四分の一リットルで」
俺が言うと、ミアさんは杯の印へ目を近づけた。
「一度に一リットルまで、でしたね。今日は、少なく」
「はい。一日二十リットルは、誰が出しても共通です。今朝はまだ使っていないから、零から」
「私が四分の一使ったら、ハルトさんの分も、その分だけ減る」
「そうです。水を増やす人が増えるんじゃなくて、水を出せる手が増える感じ」
説明してみると、自分にもよく分かった。
ミアさんは右手を伸ばし、一度、俺の手首を見る。
「使わせてください。飲み水の生成だけ、お願いします」
「はい。こっちから、指定します」
同意を待ってから、水の能力だけを選ぶ。
彼女は何かが降ってくるのを待つ顔をしたが、光る印は、指の近くへ静かに現れただけだった。
「……手順が、分かります。でも、できるかは、別なんですね」
ミアさんが杯を置く。
視線は印へ向き、手はいつもより少し低かった。
細い水が、杯の底を叩いた。
音は小さかった。卓の横を通る客の靴の音に、一度紛れるほどだった。
それでも、俺たちは全員、黙った。
透明な線が印へ届いたところで、ミアさんが手を引く。最後の一滴が落ち、杯の表面へ丸が広がった。
「出ました」
本人が一番驚いた声だった。
俺の手首の水量も、四分の一へ変わっている。
「俺も、減ってます。今日の使用量、四分の一。残り十九と四分の三」
「こちらも、同じです。魔力は、私の方が……少し、使いました」
ミアさんが胸へ手を置く。その後で、杯をもう一度覗いた。
いつもの、理屈を追う速さがなかった。
「私が、出したんですね」
ロッタさんの耳が、彼女の方へ柔らかく向く。
「はい。最初の一杯、私が飲んでもいいですか」
「どうぞ。温かくは、ないですけれど」
「朝の台所だと、それが嬉しいんです」
口をつける前に、ロッタさんは水を透かして見た。冷やした水ではなく、常温の水。それをひと口飲んで、今度はミアさんへ杯を返す。
ルカが卓へ肘をついた。
「いいね。次に一緒に覚えるの、それにする」
「今日は、試さないんだろ?」
「うん。使いたくなったから、ちゃんと聞く日にする」
ミアさんは杯を置き、少し言いにくそうに指を曲げた。
「ハルトさん。もう一つ、試してもいいですか。水は、出さない方の」
「出さない方?」
「使えなくなる時に、どうなるのか。急に手の中が痛くなったりしないか、今、知りたいです」
俺はすぐに頷きかけ、彼女が手を卓から離したのを見てから、解除を選んだ。
淡い印が消える。
ミアさんは指を一本ずつ動かし、肩を少し上げた。
「痛みは、ありません。水の手順だけ、使う場所がなくなったような……言い方が難しいですね」
「習った火の方は?」
「そちらは、私が練習したものですから。忘れていません」
彼女は空中へ小さく指を走らせ、いつもの術式の形を確かめた。火を実際に灯すことはしなかった。
ロッタさんの盆へ熱を増やさずに済んで、俺も少しほっとする。
「もう一度、借りたいです。いまは水だけで」
「はい。お願いします」
同じ能力を、本人の返事を待って渡す。水量は変わらなかった。借り直したら、新しい一日が来るわけではない。
ミアさんは本の頁を捲り、昨日の記録の後ろへ一行書き足した。
「自分で覚えたものは、そのまま。こちらに、並べておきます」
ルカがその一行を見てから、俺へ目を戻した。
「じゃあ、私が昨日の朝に教えた分も、そのまま?」
「膝についてた土まで、そのままだった」
「土は払ってよ。覚えた分だけ、持ってって」
笑いながら椅子を引く彼女の声で、昨日の中庭の感触まで戻ってきた。
支援が六つに増えても、ルカに三回負けた朝が、何の役にも立たなくなるわけではなかった。
ロッタさんは空いた杯を盆へ載せ、自分の手の平を見た。
「私は、熱い鍋を持っている時にお借りしたいです。手を洗う水が近くにあるの、料理では助かるので。でも、今朝は戻りますね。お客さんのお粥が、もうすぐ」
耳が厨房の音へ向く。彼女は水を出せる力より先に、自分の鍋へ帰った。
俺は笑って頷いた。
昨日できた小さな留め具が、ミアさんの本に挟まっている。
今日は、その持ち主が、自分で水を出した。
誰かが全部やれるようになったわけではない。
できる手が増えると、道の先で一緒に見られるものも、少し増える気がした。




