手紙に書く、次の台所
【前回までの人物】
・ハルト:毎朝一つの特典を選ぶ転生者。虹の海を見に行くと決め、まず南のラゼルへ向かう道を買った。
・ルカ:ラゼルの剣技会を目指す剣士。ハルトと旅の相談をしようと話し、翌朝の稽古も約束している。
・ロッタ:風見亭で働く料理人。実家の街道宿を継ぐ前に、各地の料理を学ぶ修業旅をしている。
旅の地図に、一番先に置きたくなったのは、夕飯の皿だった。
南へ向かう道を眺めていたら、腹が鳴った。昼に食べた焼き包みは、とっくに腹の中で仕事を終えているらしい。
俺は地図を畳み、窓から離してしまった。
部屋を出る時、水筒の蓋も確かめる。便利な鞄へ入れたら、紙に水が染みない仕組みまで付いてくるわけではない。
階段の下から、焦がした玉葱の匂いが来た。
風見亭の食堂には、夕方の客が入り始めていた。
蜂蜜色の耳が、厨房の口から一度覗く。
「ハルトさん、夕皿ですか。今日は、豆の煮込みです」
料理人のロッタさんは、狼の耳を少し前へ向け、手元の盆へ目を戻した。旅の話を始めるには、彼女の両手が塞がりすぎている。
「はい。一つ、お願いします。あとで、手が空いたら、道の話も聞きたくて」
「道なら、女将さんの方が詳しいかも。……ご飯のある道なら、私も混ぜてください」
最後だけ、顔がこちらへ戻った。
俺は笑って頷き、客席へ座る。
六銅を払うと、財布は百三十二銅になった。
海の話を聞いても、夕飯は六銅。遠い憧れが、目の前のパンを増やすわけではない。
けれど、稼いだ金を、次の場所を楽しみにしながら使う味は、昨日と少し違っていた。
*
豆の間には、細かく切った肉と、柔らかくなった根菜が入っていた。
パンで汁を拭うと、甘さのあとに、口を少し引き締める酸味が来る。
俺が皿へ顔を近づけると、通りかかったサンナさんが笑った。
「底へ、次の特典でも書いてあるかい」
「味の正体を探してました。朝の方は、今日はもう、水で」
「なら、夕方は豆で我慢しな。食べる方に、無限のおかわりは付いてないよ」
俺は、そこは重要な違いですね、と笑った。
サンナさんは客の空いた椀を重ね、自分の仕事へ戻る。
水を出せるようになっても、誰かが鍋の前で作ってくれる皿は、別の嬉しさだった。
今日の生成量は二リットル半のままだ。食堂の水まで自分の出した分へ数えることもしない。
食べ終わる頃、厨房から、大きな桶を置く音がした。
ロッタさんが手を洗い、前掛けを外して出てくる。髪へ少しこもった熱と、煮込みの香りが一緒に近づいた。
彼女は椅子を引く前に、女将へ目を向けた。
「次の焼き物までは、座って大丈夫ですか」
「うん。鍋の方は見てる。あんたが休むと、全部止まる厨房にはしてないよ」
「ありがとうございます。じゃあ、私のご飯も、今のうちに」
彼女の皿には、俺より多い豆が載っていた。客へのおまけではなく、働く自分の食事らしい。
椅子の背へ尻尾を避け、腰を下ろす。
俺は略図を出す前に、机の濡れた所を拭いた。
「昼に、ヤーンさんへ聞いたんです。ラゼルまでなら、普通に歩いて十日くらい。天気で変わるそうですけど」
「ラゼル。剣技会ですね。ルカさん、前から行くって」
「はい。俺は、その先の虹の海も、見てみたくて」
言い終えると、ロッタさんの匙が止まった。
「見てみたい、から、行く方へ変わったんですか」
「……今日、変えたばかりです」
「いいですね。それ、まだ熱いうちに聞けました」
煮込みを食べる時と、少し似た喜び方だった。
俺も、さっき買った図の線を、自分の指で開く。
*
ロッタさんの指は、ラゼルの名で止まった。
「この辺り、酸味のある平たいパンを作るって聞いたんです。焼く前から、種が少し酸っぱい物」
「今日の煮込みも、酸っぱくておいしかったです」
「今日は果実の酢を、最後に少し。パンは、もっと前から味を作るらしくて。匂いも、膨らみ方も違うって」
彼女は手を丸くし、見たことのない生地の厚さを考えた。
俺には、前の世界で食べたパンに似た物が思い浮かぶ。
けれど、この町の粉も、南の窯も、俺はまだ見ていない。同じ名前を知っている顔で、その先まで説明するのはやめた。
「実物を食べて、作る所も見たいんですね」
「はい。失敗した種の匂いも、知りたいです。成功したパンだけ食べて、実家で真似したら、台所が大変なことになりそうなので」
彼女が笑うと、耳も少し傾いた。
可愛いと思って見てしまい、俺は慌てて地図へ視線を戻す。
南の道を聞きたい人が、ここにもいた。
ただ、俺が行きたいと言ったから、今夜の厨房を置いて来られる人ではない。
「風見亭の仕事は、いつまでの予定なんですか」
「あと三日。三日後の夕方まで、って、元から女将さんと決めています。その翌朝には、次の道へ出られるように」
俺がこの世界へ来て、今日は四日目。
指で三つ折ると、まだ名前だけだった数日後に、誰かが荷物を持って歩く姿が入った。
「でも、引継ぎが終わらないまま、朝、いなくなるのは嫌で。今日、そこも相談したかったんです」
ロッタさんは、俺を見たあと、女将の方へ顔を向けた。
俺への説明のついでに、許可が出たことにはしなかった。
*
サンナさんは、帳面を一冊持ってきた。
机へ置く前に、ロッタさんの皿が空いたのを確かめる。
「あんたが出る日の朝に、仕込みを三日分置くんじゃ、こっちが困る。今から順に、替わるよ」
「今日は、豆の戻し方を書きます。明日は、一緒に見てもらって。その次は、私が鍋を持たない方で」
「そう。その日は、あんたの目で、私の手を見ておくれ。聞いたつもりで、違う匙を使うからね」
「女将さんの匙、多いんです。長いのを一本って言うと、三本出てきます」
「どれも長い。間違ったことは言ってないよ」
俺まで笑ってしまった。
サンナさんも笑いながら、帳面の余白へ、匙の絵を小さく描く。数字だけより、その鍋の前で迷わない印だった。
期限のある仕事を、最後まで続けてから旅へ出る。
別れを引き延ばして親切にするのとも、急にいなくなって自由になるのとも違う、手の動く相談が、目の前で進んでいた。
「残りの食材も、明日、数え直します。私が出たあとに、足りない分が分かると嫌なので」
「それは助かる。でも、一年先のうちの買物まで背負って行くんじゃないよ」
「そこまでは、鞄に入りません」
言ってから、彼女が俺の鞄を見た。
「俺の方にも、未来の仕入れは入りません。今日ある物だけで」
「よかった。帳面まで先に逃げられると、追う方が大変だ」
女将が帳面を引き寄せた。
厨房から、焼き物を見る時刻を知らせる小さな鐘が鳴る。
ロッタさんはすぐ立った。
「手紙の方は、次の休み時間に書きます。明日の便へ、まだ間に合いますか」
「朝に預ける束へ入れるなら。向こうへ着いた返事まで、明日貰えると思わないでよ」
「分かっています。父、届くと、兄に先に読ませるんです。私へ返す返事なのに、台所の相談から始まって」
彼女は困ったように笑った。
それは、家族と話す道が、いまも続いている人の顔だった。
*
次にロッタさんが出てきた時、手には紙と、小さな包みがあった。
俺はまだ食堂の端で、買った略図を見ていた。客が増えたら席を空けるつもりだったが、女将から、そこは次の波まで大丈夫、と声を掛けられていた。
包みは、家へ送る料理ではない。
料理の横へ書き留めた、自分用の小さな紙を束ねた物だった。
「これ、見ながら書かないと、全部、おいしかった、で終わるので」
「それでも、嬉しいと思いますけど」
「母も料理人なので、その先を聞かれます。何がおいしかったのか。何を、自分で作れるようになったのか」
彼女は、紙の端へ指を置いた。
料理の点数を付けてもらうためだけに、書く人ではない。帰って、一緒に台所へ立つ時に、言葉だけで迷わないための物なのだろう。
俺は、自分の家へ、もう同じようには手紙を出せないことを思った。
その一瞬だけ、胸の奥が静かに冷えた。
でも、目の前の人の便りまで、俺の届かない方へ引き寄せる理由はない。
ロッタさんが書き始める間、俺は自分の地図へ目を戻した。
紙へペンの先が当たる音がした。
時々、止まる。
少し笑って、また動く。
書き終えるのを急かさず、俺は略図の道を、指でゆっくり辿った。
「ハルトさん。ラゼルの字、そっちを見ていいですか」
「はい。俺も、買った字を借りてる方ですけど」
地図を横へ寄せる。
彼女は町の名を写し、その先へ、まだ自分で決めていない道の余白を残した。
*
「次は南へ行きたい、って書きました」
書き終えた紙を、ロッタさんは自分の方へ向けたまま言った。
俺に読ませるための手紙ではない。その区別があるまま、聞かせてくれる言葉だった。
「もう、誰と行くかも?」
「そこは、相談してから。実家へ先に、仲間が四人になりました、って書くと、帰る時まで四人分の寝台を空けられそうなので」
「俺たちの分まで、宿へ?」
「兄なら、たぶん、人数分の料金表を入れて返します」
俺は、真面目な商売ですね、と笑った。
彼女も笑い、手紙を折る。
朗らかに冗談を言っていても、その紙へ最後の一行を書く時だけ、少しゆっくりになった。
「父と母には、無事です、も書きました。料理の話ばかりだと、私の身体の方が、最後になりますから」
封を閉じる。
女将へ預ける時、便の費用は彼女が自分で払った。俺の六銅の夕皿とも、共同の旅費とも違う金だった。
届いたかどうかは、まだ分からない。
それでも、次の道を言葉へ書いて、外へ出せる形にしたのは、今日の彼女の仕事だった。
俺は地図を畳みかけ、一度、手を止めた。
「俺、ロッタさんとも、旅の相談をしたいです。ご飯を作ってもらいたい、だけじゃなくて」
彼女がこちらへ戻ってきた。
少し、言葉が速くなりそうなのを、俺は待った。
「食べたい物を聞くのも、見たことのない所で、一緒に驚くのも。……ただ、俺がどこまで役に立つかは、明日の稽古次第な所もあります」
「そこ、全部を稽古へ預けないでください。歩く靴がなくても、ご飯は食べるでしょう」
「はい。今日は、かなり、確かめました」
彼女の耳が、笑う方へ動いた。
「私も、相談したいです。ルカさんと、ミアさんにも。誰か一人へお願いしたら、残りの人が付いてくる決め方には、したくないので」
「明日、時間を聞いてみます。俺、朝はルカと稽古で」
「なら、朝食を冷ますほど長くしないように、そっちも相談してくださいね」
言い方が、さっきの鍋の順と同じくらい具体的だった。
俺は頷いた。
まだ、正式な四人の隊ではない。報酬の分け方も、泊まる所も決めていない。
それでも、相手がどんな旅をしたいのかを、聞く前と同じ自分ではなくなった。
*
部屋へ戻る前に、ロッタさんは厨房へ入っていった。
後ろ姿へ、勝手に明日から仲間だと呼び掛けるのはやめた。
代わりに、夕皿、おいしかったです、と伝える。
「明日の豆は、もう少し柔らかいかもしれません。仕込みを、女将さんと二人でするので」
「その言い方だと、私が煮すぎるみたいじゃないか」
「柔らかいのも、おいしいです」
厨房から返る声に、俺はまた笑った。
今いる人が抜けたあとの台所にも、次の味がある。
それを見てから旅へ出たい人が、俺と同じ地図の南を選ぼうとしていた。
部屋の机へ、二行の続きだけ書いた。
ロッタさんは、七日目の夕まで仕事。南のパンを作る所へ行きたい。家族への手紙は、明朝の便へ預けた。
その下には、明日、四人の都合を聞く、と置く。
ルカの試合は二十四日目。八日目に出るとしたら、普通の道で十日を見ても、余裕はまだある。ただし、天気まで、この紙で決まるわけではない。
窓の外は、もう、夕飯の匂いより夜風の方が強かった。
俺は百三十二銅の袋をしまい、水筒を倒れない所へ置いた。
四日目の特典は、飲める水。
今日、話を聞いた人の旅の理由は、特典の欄には増えない。
それでも、明日の朝が、ただ新しい力を待つだけではなくなった。
稽古へ行って、帰って、ちゃんと朝食を食べる。
そのあと、俺の行きたい道を、もう一度、自分から話そうと思った。
階下で、鍋の蓋が鳴った。そこへ帰ってくる明日の自分まで、今夜の予定に入れて、灯りを落とした。




