虹の海まで、行ってみたい
【前回までの人物】
・ハルト:毎朝一つの特典を選ぶ転生者。四日目に飲用水を出す特典を選び、ルカたちと試した。
・ルカ:南の剣技会を目指す剣士。ハルトと翌朝の稽古を約束している。
・ヤーン:ハルトが町へ来た時に会った定期便の御者。ルカへ護衛を頼んでいた。
ルカの剣は、布で拭く時にも、思ったより長かった。
風見亭の裏で、彼女は刃の向きを通路へ出さず、膝から少し離して油を薄く引いている。朝、俺の出した水を飲んだ人が、午後には、次の道へ持っていく物を整えていた。
俺は水筒を腰へ戻し、声を掛けた。
「南への道、聞きに行くんだよね」
「うん。手入れが終わったら。ハルトも?」
「俺も、聞きたい。虹の海まで、どう行くのか」
口にすると、遠い地名が、自分の予定の言葉になる。
ルカは、布を畳んでから顔を上げた。
「途中で、お腹空くと思う」
「最初の難所、そこ?」
「道は、聞けば分かるかもしれない。でも、私は、もう空いてる」
俺は笑い、財布を出した。
百五十二銅。
朝食を食べたあとの額だ。新しい水が出た喜びで、昼まで無料になったと思うわけにはいかない。
でも、道を聞いて、腹を空かせて、何かを買う。
その順を、自分で決めて歩ける午後が、少し嬉しかった。
*
河港へ向かう通りには、焼いた皮の香ばしい匂いが出ていた。
肉と刻んだ野菜を包んだ、平たい焼き包みだ。
俺は六銅の札を見て、一つ買った。ルカも自分の分を、自分の財布から払う。
受け取った時は、端が指へ熱かった。
鞄へしまわず、少し冷ましてから歩く。
「それ、今しまったら、いつ食べるの?」
「虹の海へ着く前には」
「長いなあ。その頃には、私のは、三つ目かもしれない」
どれだけ日が掛かるのか、俺は、まだ知らない。
彼女も、今の冗談を正確な日数として答えたわけではなかった。
だから、聞きに行く。
道の両側の建物が低くなり、濡れた綱と木の匂いが近くなる。川には、海で想像する大きな帆より、低い荷船が多かった。
荷台の脇で、見覚えのある男が箱を押さえていた。
灰の混じった髪と、日焼けした首。俺がこの町へ来た時、ルカを護衛に雇っていた御者だ。
「ヤーンさん。次の便の前、少し聞ける?」
「その箱を、あっちへ載せたあとならな。そこの縄、踏むなよ。まだ引く」
俺たちは、すぐ横へ寄った。
話を聞きに来た人の足で、荷下ろしを増やしてはいけない。
ヤーンさんが箱を動かし、相手の荷役へ手を上げる。縄が緩み、持ち場から人が離れてから、彼は、こちらを向いた。
「今日は、走って来なかったな」
「はい。道を聞く前に、通り過ぎそうなので」
「あの靴でなら、やりかねん。食う方も、急がずやれ。中、熱いぞ」
言われた所で、ひと口噛んだ。
肉汁が、思ったより奥から来た。
俺が慌てて口を閉じると、ルカが、ほら、と、自分の包みを少し開いて見せる。彼女の分は、もう湯気を逃がしていた。
*
ヤーンさんは、自分の荷車の外側へ腰を預けた。
御者台へ乗って地図の先生になるより、車輪が見える所にいたいらしい。手には、使い込んだ水筒があった。
「ルカは、南の試合か」
「ラゼル。今度の剣技会へ行きたい。大きな荷の便が、道を詰まらせてないかも知りたくて」
彼女が出した紙には、町の名と、開催日が書かれていた。
ラゼル迷宮市。
俺がこちらへ来た日から数えて、二十四日目になる。今日は四日目だから、あと二十日だ。
まだ遠いと思っていた剣の試合にも、残りの朝の数があった。
「ここから普通の街道を歩いて、休みを入れながら十日くらいは見とけ。雨で道が切れたら、その通りとはいかん。走れる靴でも、宿が夜中に迎えに来るわけじゃないからな」
「十日。道を、全部歩いて」
「うん。私は、その分の旅費を残してる。途中で仕事を受ける余地も欲しいけど、前の日に着けばいいとは思ってない」
俺は、彼女の紙を見直した。
朝の特典を楽しみにするのと同じように、ルカには、その日に立ちたい場所がある。
俺に会ったから始まった予定ではない。前から持っていた剣と、前から目指していた試合だった。
「虹の海は、そこから、まだ南ですか」
「海を見たいのか」
「はい。名前だけ聞いて、ずっと、気になっていて」
ヤーンさんが、俺の顔を見た。
危ない所を知らない旅人へ、すぐ大丈夫と笑う目ではなかった。でも、行く理由を試すような目でもない。
「ラゼルから先へ、道は続いてる。俺が海沿いまで荷を運んだのは、前の季節だ。今の便と通れる道は、向こうで聞き直せ」
「ヤーンさん、見たんですね。虹の海」
「ああ。最初は、油でも流れたのかと思った」
ルカが、食べかけの包みを膝から持ち上げた。
俺も、次のひと口を待った。
*
海は、ずっと虹色ではないらしい。
「俺がいた日は、昼は青かった。荷の札を数えて、顔を上げたら、波の上だけ、色が違った。紫から、緑みたいな色へ。向きを変えると、また青い」
「一日中、見張ってたらよかったのに」
「その間、誰が荷を運ぶんだ。見張るなら、客として行きたいもんだな」
彼は笑い、片手で車輪の泥を少し落とした。
俺の頭の中では、波より先に、その人が札を数える手が浮かんだ。
仕事の途中で、顔を上げて、初めて違う色に気づく。
前の世界でも、俺は、そういう景色の近くへ行ったことがあったのかもしれない。
駅を出ず、時間だけを確かめて帰った町。出張先で、いつか休みに来ようと思った海。
祖父は旅の写真を見せる時、予定より早く切り上げた日も、雨に降られた日も、同じように話していた。
俺は、ちゃんと楽しめる日に行こうとして、行かない方の日だけを増やした。
「俺、見張る時間も欲しいです」
思ったより強い声になった。
ヤーンさんが、車輪から手を離す。
ルカも、俺を見た。
「荷を運んでる途中に、少し見えるのも、嬉しいと思うんです。でも、俺は、自分が見たくて、そこへ行きたい。今日は青かったから、もう一日いようって、決められるくらい」
言ってから、胸の辺りが熱くなった。
旅慣れた人の前で、当たり前のことを、大きく言っているのかもしれない。
でも、ルカは、当たり前でしょう、と流さなかった。
「じゃあ、その一日分も、稼がないとね」
「うん。帰りの仕事へ間に合う範囲で見るんじゃなくて、見るために、仕事の方を選びたい」
「俺の見た日は、波が光ってた。お前の行く日もそうだ、とは言えんぞ」
「はい。それは、俺が見に行く分なので」
ヤーンさんの目尻が、少し深くなった。
「なら、まず、そこへ着ける道を買え。景色だけ聞いて、曲がる所を忘れるなよ」
彼が示した先には、街道の略図を売る小さな台があった。
その言い方で、俺は、ようやく照れたまま笑えた。
*
略図は、八銅だった。
川沿いと、南へ曲がる街道。町の印と、道が分かれる所だけが、太い線で書かれている。
これを持ったら、旅先の全てが分かるわけではない。宿の空室も、今日の道の泥も、紙の中で先に片付いてはいなかった。
それでも、さっきまで音だけだったラゼルが、紙の上で、ここから繋がった。
俺は八銅を払い、台から少し離れた所で、ルカと一緒に図を広げた。
川を辿れば、迷いにくい。荷物を運ぶ時の癖で、俺は、曲がる回数の少ない線へ先に指を置いた。
「そこ、渡る印がないね」
ルカが、少し上の橋の印を示す。
俺が選んだ線は、川の同じ側へ続いているだけだった。対岸に見える町まで、勝手に渡れる道を足していたらしい。
「近くに描いてあると、行ける方だと思った」
「遠い方の橋を使うかもしれない。だから、距離だけで決める前に、ヤーンさんへ聞こう」
俺は頷いた。前の仕事で地図を見たことがあっても、この川の橋を知っているわけではない。
紙を裏返すと、指に、さっきの包みの油が少し付いているのに気づいた。端を汚す前に、布で拭く。
大事な最初の地図が、肉の匂いのする道案内になる所だった。
「その匂いなら、帰りの道も分かるかも」
「来る方は、先に食べ終えないと、道を選べなくなるね」
二人で笑ってから、図を持ち直した。
見落とした橋を聞くための図なら、いま買った甲斐があった。
焼き包み六銅と合わせて十四。
財布は、百三十八銅になる。
買った焼き包みは、その場で食べ終えた。鞄の食料が、増えたことにはしない。
「今、一番大きい出費、海の色の話かもしれない」
「図の値段です。色は、ヤーンさんに聞いた分なら無料」
「そのうち、お土産を持って返す話になるよ。自分が、どんな色を見たか」
俺は、略図の南の端を見た。
虹の海は、まだ紙に載っていない。
いま買った道は、最初の町までだ。
そこから先の分からなさを、不安だけとして畳まなくてよい気がした。
「ルカは、海も見たい?」
「見たい。でも、まずは試合。そこで勝ちたい。私の予定の真ん中は、そっち」
「うん。俺が海へ行きたいからって、ルカの試合を後回しには……」
「それは、もう少し、私が旅の話をしてから言って。ハルトとどこまで行きたいか、私も、考えるから」
俺は顔を上げた。
彼女は紙ではなく、俺を見ていた。
最初から一緒だと決めるのも、相手の用事だけを残して自分を外すのも、早すぎたらしい。
「……はい。俺は、ラゼルまで、一緒に歩けたら嬉しい」
「うん。私は、その相談、したい」
返事を聞いて、指が紙の端へ少し強く掛かった。
正式に誰と隊を組むかも、出発する日も、今ここで決まったわけではない。
でも、自分がどうしたいかを、訊かれる前に言えた。
ルカは、そこを笑いの材料にしなかった。
*
ヤーンさんへ戻ると、荷車には、次の荷が載り始めていた。
俺たちは、空いた横から礼を言う。
彼は略図を見て、途中の分かれ道を一つだけ指した。
「ここは、川の側がいつも近道とは限らん。雨のあとなら、町で先に聞け。俺が今日、晴れた顔で話したからって、十日先の天気まで背負わせるなよ」
「分かりました。道の方で、聞き直します」
「次の便、気をつけて。私の大会より前に、また戻る?」
「そのつもりだ。俺も、お前らが町を出る前に、もう一度顔を見たいがな」
自分の便の予定として言ったあと、彼は縄へ手を戻した。
俺たちの旅を最後まで案内する人ではない。ここへ帰る仕事と、待っている家のある人だった。
車輪が動き出す前に、道を空ける。
ヤーンさんが御者台から手を上げ、ルカも大きく振り返した。
俺は、その横で、自分の手を上げた。
次に会う時、教わるだけの話ではない物を持っていたかった。
宿へ戻る道で、水筒からひと口飲んだ。
朝、自分で出した水が、午後の喉を通る。
今日の使用量は、二リットル半のまま。道で飲んだからといって、出した量の表示まで減るわけではなかった。
ルカも自分の水筒を開き、少し飲んで蓋を戻した。
どちらか一人が相手の分を、ずっと抱えて歩く午後ではない。
「明日の稽古、寝坊しないでね。海へ行く前に、足を置く場所」
「はい。速く動ける靴の中で、転ばないように」
「そこは、私も、見たいところ」
彼女が笑った。
俺も笑い、今度は、明日の約束を先延ばしにしない方へ、頷いた。
*
部屋の机へ略図を広げると、窓から入る風で端が持ち上がった。
空の器で重しをする。
濡れた物を、買ったばかりの紙へ載せないくらいの用心は、朝に少し覚えた。
帳面へ、二行書いた。
最初は、ラゼル。
その先は、虹の海。
誰かに頼まれた配達先でも、仕事で行かなければならない町でもない。
見たい物があるから、行く。
小さな字にすると、さっき、河港で言った声まで静かになった。
ミアさんの午後の当番も、ロッタさんの厨房の仕事も、この二行で勝手に終わらせない。誘うなら、それぞれの行きたい道を聞いてからだ。
ルカとは、ラゼルまでの相談をしたいと、互いに言えた。
まず、今日、増えたのはそこまでだった。
財布の百三十八銅と、まだ少し水のある水筒を並べる。
海まで足りる財布ではない。全てが揃うまで、机の前で待つための財布でもなかった。
次にどんな仕事をするか、何を買って持つか。選ぶための行き先を、今日、自分で決められた。
俺は略図を丁寧に折り、水から離した所へしまった。
まだ見ていない波が、いままでより、少し近くにある気がした。




