吉田松陰 8
*
「吉田松陰、出ろ」
ついに来た。朝げを食べ終えて、筆を走らせているときのことだった。
朝から牢屋敷が騒がしかったのは、このせいだろう。
私はすっかり傷んだ着物を正し、一つ息を吐いてから立ち上がる。
「吉田先生」
同囚である女性が声をかけてくれた。
「先生……!」
「吉田先生!」
向かいの牢からも、太い格子を掴んだ人たちが私の名を呼んでくれる。
牢屋敷という場にあっても、私の講義を熱心に聞いてくれる方々だ。
昨夜は、ミナトくんとクオンちゃんが来たことに途中で気づいていたらしい。
しかし、邪魔をしたら悪いと、狸寝入りをしていてくれたそうだ。
その一人一人の思いやりには頭が下がり、口元は上がる。
「背を向けて、手を回せ」
牢の入口で役人に促され、後ろに回した腕と手首に縄が食い込む。
「吉田先生……今まで、ありがとうございました」
眉間に皺を寄せる同囚が頭を下げた。
私も同じように頭を下げた後で、彼女に笑みを向ける。
「今までありがとうございました。これからも学びを大切にしてください。
私が記したものは置いていきますから。
書物だけではなく、実を伴う、人との触れ合いの中で学んでくださいね」
「はい。教えていただいたことは忘れません。
残されたものは……私が必ず届けます。先生の故郷へ必ずや届けます」
「ありがとうございます。それでは……お先に行きますね」
牢から出て、数人の役人に囲まれ、一歩ずつ踏み出す。
動くことのない足腰はすっかり弱っていた。
牢内で動かすのは口と手だけ。足を動かすことはほとんどなかった。
昔は旅に出て、日本中を駆け回っていたというのに。
隣を歩く、よく知った男性をちらりと見る。
同心である彼は立場を顧みず、私の講義を聞いてくれる一人だった。
板を踏みしめ、前を見たまま、呟くように彼に伝える。
「日々のご配慮、とても嬉しかったです。ありがとうございました」
「吉田先生……私は先生に出会えて、学ぶことの楽しさを知りました。
あなたに会えたからこそ、変わることができました。
――ありがとう……ございました」
「はい。これからも、どうか楽しく学んでください」
講義を開けば、彼は職務を建前に必ず聞きに来てくれた。
牢内に持ち込むことが禁止されている筆、墨、紙を密かに与えてくれた。
己の命や地位も危険に晒されるというのに。
江戸の牢は萩の野山獄と比べものにならないほど火気に敏感だ。
けれど、彼は私が夜に書き物をするための行灯までも用意してくれた。
他の同心も見て見ぬ振りをして、講義に参加してくれる者もいた。
狭く暗い牢獄の中にあったとしても、人の心遣いという温かさは私を癒やしてくれる。
真っ直ぐに進む。この道の先には死が待っている。
私は牢屋敷の白洲へと連れて行かれ、綺麗に整えられた砂の上に正座する。
一段高い板敷きの間には役人の姿があった。
町奉行や勘定奉行の肩書きと名を告げられる。
私の罪は、幕府にとって大いなるものであると自覚した。
彼らの横には記録を付ける書記たちが並び、一様に険しい表情を浮かべている。
男性の勘定奉行が眉間に皺を寄せて、私を睨みつけた。
「吉田松陰」
痰が絡んだような野太い声だ。
「そなたは以前より幕府の政道を非難していた。
さらに老中である間部詮勝様の暗殺を計画し、国家を揺るがそうとした。
それは天下に仇なす重罪である。よって死罪を申しつける」
罪状と判決を言い渡された私は、深く頭を下げた。
刑場に向かう道中、思考が定まらないことに気づく。
手足の感覚が薄れて真っ直ぐに歩けない。
意識が濁り、まるで何かに操られているかのようだ。
死を恐れてはいない。己に振るわれる刃から逃げるつもりもない。
これは……そうか。
どこか浮くような感覚は、一つの贈り物なのかもしれない。
久方ぶりの青空と太陽が我が身を抱きしめている。
幼き頃より私を包む天からの恵み、それを懐かしく感じた。
刑場の玉砂利の上には、一枚の筵が敷かれている。
役人に促されて近づいていくと、その前には一つの暗い穴がぽっかりと空いていた。
己の頭を落とすには広く深い。この暗闇の中に私は転がるのだ。
周囲の丸い砂利はいくらか血で染まっていた。
すでに刑を執行された者がいるのだろう。
少し前にも才人がこの場で命を落としている。
越前藩の橋本左内
面と向かって話したかったけれど、彼女は入獄してから僅か数日で斬首された。
徳川幕府の大老である井伊直弼は、よほど彼女のことが怖かったようだ。
その才覚も、その思想も、その熱心も。
瞼を閉じて筵の上に座る。
自然の香りを身体にじっくり取り入れていると、砂利同士が擦れる音がした。
「七代目、山田浅右衛門です」
私の右斜め前に気品ある女性が立つ。
薄墨色の肩衣と袴、小袖は墨色だ。腰には立派な大小が差してある。
山田浅右衛門
江戸で代々続く罪人の首を斬るための執行人だ。
その隣には斬首を手伝う下役の男性二人がいる。
私は御三方に頭を下げた。
「吉田松陰です。本日はご迷惑をおかけします」
下役の一人がすっと近づき、私の前で白布を開いた。
一般的な斬首であれば、当然だ。
私は目の前の男性に向けて、声を潜める。
「申し訳ございません。目隠しは必要ありません。
消えゆく、その時まで……この世を見ていたいのです」
「構いませんよ」
私の右隣に移動する山田浅右衛門さんが、静かな声色で言った。
彼女は私を見ずに、周囲を囲む竹垣に目を向けたまま続ける。
「あなたのお話は聞いております。聞けば聞くほど残念でなりません。
せめて……斬首ではなく、切腹の介錯人として立ち会いたかったものです」
「私に切腹はもったいないことです」
「そのようなことはありません」
はっきりとした物言いに、私は笑みをこぼした。
数多の罪人の首を斬り落としてきた彼女に、一つの虚勢も通じないだろう。
「強がりを言いました。本心で言えば、切腹で果てたかったです」
「そうですね……。本日は私の愛刀で臨ませていただきます」
「格別のご配慮、ありがたく頂戴します」
そよ風に乗って、山田浅右衛門さんの吐息が聞こえた。
「あなたが羨ましいです」
腰の辺りに筋張った左手を触れさせたまま、私を見据える。
「あなたを慕う者が多くいるのでしょう。
そして……あなたは荒れる時勢の中にあって、最後まで己の信念を貫いた」
「無茶なことをしてきたと……己でも思います」
「その生き様が美しいのですよ。
死に際を見誤る、見るに堪えぬ愚か者もいますから」
「そうですね。私は己の生き様に偽りも恥もありません。
ですが、人に誇るようなものでもありません」
「あなたほどの者が口にできないとしたら、誰も誇ってはいけませんね。
あなたの志は……先の世に繋がれますよ」
先の世、という言葉が私の胸を重く叩いた。
死を目前にしても、まだ心の奥に……返し針のように刺さっている。
これからどうなるのだろう、日本は。
目先のことだけでいえば一つの不安もない。私の友が国を救ってくれる。
必ずや新しき世を作ってくれるだろう。彼女たちを知っている私だからこそわかる。
しかし、ミナトくんと話した先の日本はどうだろうか。
この国は美しいまま、人を想う心を持っているだろうか。
悪人が善人を笑い、不義がまかり通る世の中ではないだろうか。
日本の民がおびやかされ、異人に傷つけられてはいないだろうか。
――私の杞憂ですか、ミナトくん。
――戦ってくれる者はいる、と言いましたよね。
――そこには笑顔の民がいるのですよね。
――泣いている子を助けてくれる人はいますよね。
――たった一人で泣く子を見捨てはしませんよね。
いくら考えても仕方がないと思いつつ、頭の中には波のように流れてくる。
私の悪い癖なのかもしれない。
死の間際にあっても、人の性分とは変わらないものだということを知る。
これも……新しい学びだ。
風がふわっと吹き、私の前髪を揺らす。
その時だった。
幾人もの血を吸った寂しげな刑場に、一つの声が聞こえた。
「松陰先生! 松陰……せんせー!」
――この声……。
一人の女の子の声が牢屋敷の外から聞こえる。
「せ、せんせー! 松陰せんせー!」
馴染みのある声に続いて、数人の太い怒号が飛び交う。
次々と人が増えている気配がする。
私の名を呼ぶ綺麗な声は、叫び声に変わった。
双方の争う声が聞こえる。
呻き声のようなものが微かに耳に入り、そして……何も聞こえなくなった。
後ろで縛られた手首に縄がぎりぎりと食い込む。
歯を強く噛みしめ、畳んだ足を浮かせようと身を捩らせた。
「あなたの……門下生の方ですか」
私の動きを察知したのか、山田浅右衛門さんは淡々と問いかけた。
「はい。とても……とても優しい私の誇るべき友です」
「そう……ですか」
彼女を見ると、少し瞼を下げていた。力の入っていた私の身体は少し緩む。
「山田浅右衛門さん。お願いしたき義がございます」
「なんでしょうか」
「今の声の主が詮議を受けた場合……助けてはいただけないでしょうか。
何一つ罪のない、心優しき者です。
あなたにしか頼めません。どうか……助けてあげてください」
「承知しました。七代目、山田浅右衛門の名に懸けて、お約束いたします」
一切淀みのない返答だった。それは彼女が振るうであろう一刀のように。
身体を縛っている緊張は、緩やかにほどけた。
「ありがとうございます。どうか、あの子の命をお助けください」
「口先だけではありませんので、どうかご安心を。
あなたの想いは私が必ず守ってみせます」
しばらくの沈黙が続き、下役が口を開く。
「刻限にございます」
私は頭上を見上げた。
白い雲が転々とある青空。軽やかに飛び回る鳥たち。頬を撫でる優しい風。
吸い込む緑の香りは、身体の中を満たしていく。
どこまでも美しい。日本は美しい。私を見守り、私を育ててくれた。
山田浅右衛門さんが、私の左の後方に移動する。そして、衣擦れの音が耳に届く。
肩衣を脱いで、袖を襷掛けで留めているのだろう。
鯉口を切り、刀身が鞘から滑り出る優雅な音が続く。
真っ赤な血を想像させるというより、まるで、母の腹に帰るような印象を持たせた。
身体を倒し、首を差し出す。
――晋作ちゃん。
――ついに来ましたね、咆哮するときが。その熱き志で世の中を変えてください。
――玄瑞ちゃん、稔麿ちゃん。冷静さと優しさで道を切り開いてください。
――ミナトくん。クオンちゃん。私を欺くには……少しだけ早かったですね。
――みなさん。どうか、お元気で。とても楽しかったです。
背後から水の音が聞こえた。
柄杓が傾き、水が鋼の上を滑る。私を喰らう刃が清められる。
目の前の掘られた穴の中には、黒いものが蠢く。
小さな蟻が必死に虫の骸を運んでいる。
風に揺蕩う白い蝶は、鮮やかな舞を見せる。
「では……」
山田浅右衛門さんの声が背中に当たる。
「はい。よろしくお願いします」
草鞋と玉砂利が擦れ合う。
大きく息を吸い込む。
数々の思い出が一瞬にして蘇り、心を温めてくれる。
忘れることのない出会いを。
かけがえのない美しき日々を。
――あなたと出会えて本当によかった。どうか、お身体に気をつけてください。
――決して一人じゃありませんよ。
――また……会いましょう。
――さようなら。




