吉田松陰 7
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クオンの持つ提灯が闇夜を照らす。
僕の持つ風呂敷とは別の荷物を背負っていて、牢獄に侵入したときの香もその中にある。
松陰先生のいた牢屋敷から出て、川沿いを歩いていると同じ問いかけが繰り返された。
「なぜ、抱きしめていたのですか」
それが始まったのは僕の涙が収まったときだ。
「抱きしめてないから」
「ミナト様は汚いおじさんであっても抱きしめるのですか?
脂ぎとぎとのハゲ上がったおじさんを抱きしめるのですね?
歯周病に侵されたおじさんを抱きしめて、接吻するのですね?」
「抱きしめてないって言ってるじゃん。
それに……おじさんに対する意見が厳しすぎるよ。その言い方はよくない」
「おじさんの話はどうでもよいのです。私のことも抱きしめるべきだと思います。
誰のことも抱きしめるのであれば、私のことも同様にするべきです。
これは一種の差別であると考えます」
真っ暗な前方を一切見ずに問いかけてくる様は、妖かしの類だ。
クオンの恨み言に適当な言葉で返すと、彼女は片方の手に持つ竹筒を僕に向けた。
青竹には細かい穴が空いていて、謎の液体が弾けるように飛び出す。
彼女は細い腕を振り回し、僕の顔と身体に容赦なく液体を振りかける。
「うわっ! な、なにするんだよ……!」
「除菌です……! あのような不衛生なところに長居したのですから当然です!」
「や、やめてよ……!」
「大丈夫です! 私が調合した独自の殺菌剤です!
身体に害はないので、安心してください!」
「痛い! 目にしみるよ!」
「良薬口に苦し! このことです……!」
「意味が違うよ!」
秋の夜はひんやりと肌寒い。
クオンが自作した除菌の液体は僕の藍色の着物を湿らせて、余計に冷え込んだ。
「ねえ、クオン。聞きたいことがある」
「熱による殺菌はダメです。
帰ったら私の手で丁寧に清拭しますので、安心してください」
「そんなこと聞いてないよ。松陰先生の……刑の執行は何時なの?」
返事はない。夏の終わりと共に消えるはずの虫の鳴き声が、一つだけ聞こえた。
続いて、息を吸い込む微かな音が隣からする。
「およそ十時くらいと推測されます」
僕は立ち止まり、土だけで舗装された道を見つめる。
「ミナト様、申し訳ございません」
振り返ったクオンが、僕に向けて頭を下げる。
「そのことはいいよ、大丈夫だよ」
「一時帰還と重なる不手際は、私の甘さが原因です……申し訳ございません」
「仕方ないよ。史実とズレることもあるし、誤差はあるでしょ。
それに嫌な言い方だけど……執行に立ち会うことはできないんだから」
「もう二度と今回のようにならないことをお約束します」
誰が悪いわけでもないと思いつつ、それとは裏腹に身体が重くなる。
「一時帰還と強制帰還の規約はないほうがよかったよ。あらためて……思う。
過去と未来の時間が同期するってところも。
どちらかで一日進めば、片方も一日が過ぎている。
これがあると立ち会いたいときに不利になるよ」
「おっしゃるとおりです。
ですが、過去にいるときだけ虫食いのように前へ進めることは観測として便利です。
ずっと幕末で過ごしていたら老けてしまいます」
僕は歩幅を小さくして歩き始めて、足元を見た。
誰が作ったかわからぬ微かな草履の跡がある。
僕たちが作る足跡は、明日も続くわけではない。
小さく溜め息をつくと、クオンは小さな声を出した。
「先程のミナト様……松陰先生を助けようとしましたね」
その声は夜道を照らす、どこか温かな提灯の灯りとは違っている。
痛みを抑え込むように……震えていた。
「もう一度、確認してください。規約のことを忘れないでください。
共に過ごす。会話をする。ケンカをする。これらは問題ありません。
ですが、死刑になる生死介入を破ってはいけません」
「うん……わかってるよ」
「ミナト様を死刑にするわけにはいきません。
一度歩んだ道、過ごした時間は二度と観測できないことも忘れないでください」
タイムトラベルの規約に書かれていた。
僕たちは幕末という時代を歩んだことがない。
そのときは、どこにでも行ける状態だった。
しかし、特定の場所へ足を踏み入れれば、その時間を生きたことになる。
過去に戻ることはできるが、過去を生きることは二度とできない。
葡萄酒を飲んだこと。黒船に乗り込んだこと。松下村塾で過ごしたこと。
先程の松陰先生との会話も二度目はない。
「松陰先生は……ああやって言っていたけどさ。
僕は一緒に行くって……言ってほしかったよ」
いつの間にかクオンより前を歩いていた。
僕の草履の音だけが聞こえて、先は見えない。
振り返ると、提灯の頼りない灯りは動かず、一部分だけを照らしている。
「失礼ですよ、ミナト様」
「え?」
「私も松陰先生には亡くなってほしくありません。
知ったつもりになっていたことを鋭い言葉で折られることもありました。
嫌味ではなく、真っ直ぐな瞳で教えてくれました。
私も大好きな先生です。あのような方に初めてお会いしました」
「うん……そうだね」
「松陰先生と笑いたいです。もっとたくさんのことを教えて……もらいたいです。
みんなで笑い合う松下村塾が大好きです」
クオンは鼻水を啜り、懐から取り出した懐紙で目元を何度も拭った。
彼女の想いにつられて、僕の目にも涙が浮かび、袖口で擦り取る。
「ですが……先程のミナト様の意見を私は受け入れられません。
松陰先生は己の義を通す。
そうおっしゃっていたのに、ミナト様が勝手に代弁しようとする。
それは失礼です。松陰先生の覚悟に泥を塗ることであると私は思います」
言葉を返せなかった。歯を軽く擦り合わせる。
命は決して平等ではないし、誰にとっても横並びではない。
重い軽いが確かに存在する。死んでほしくない人が確かにいる。
心を通わせた相手に対する想い。
松陰先生に死んでほしくないと思ってしまう。
共に過ごした大切な日々が脳裏をよぎり、来た道を戻りたくなる。
しかし……松陰先生は望んでいない。
自身の身勝手な想い。彼女が貫く義。秤にかけるまでもない。
松陰先生の命の灯火は……今日、消える。
幕末に巻き起こった、安政の大獄によって。
大老の井伊直弼が、幕府を非難する者たちを徹底的に弾圧した安政の大獄。
松陰先生は確かに幕府に楯突いた。
けれど、それは私怨によるものでも、私欲によるものでもない。
日本を憂い、民を守ろうとしただけだ。
そして……井伊直弼も日本を守ろうとしている。
政治闘争。幕府内部の派閥争い。
徳川を盤石な体制にするために動いているのだろう。
異国の脅威から日本を守るために。
僕たちは史実とされることを把握している。
けれど、幕末の人々に未来人であると明かすことは決してない。
今までもこれからも。一方的に知り得る別れを飲み込むことしかできない。
前に進むことを拒む足を引きずり、一つの言葉も出さずに僕たちは未来へ帰る。
幕末に来て最初に会った偉人。
誰からも慕われていた人。
人生で心の底から先生と呼べた人。
僕は幕末で初めて……とても大切な人を失った。




