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散りゆく桜の真実、ぼくは未来で口づけを  作者: 陽野 幸人


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吉田松陰 6

 松陰先生はレモネードを一口飲むと、傷んだ畳の上に置いた。


「ミナトくん。一つ私とお話しましょう」


「はい。議論ですか?」


「いいえ。想像してみましょう」


「想像……ですか」


「はい。我が国の『先』についてです」


 未来人である僕の胸に、細い針がちくりと刺さる。


「この国はどうなるのでしょう。これは私の考えですが、討幕は成せます。

晋作ちゃん、玄瑞ちゃんたちがいますから。

その者たちに呼応して多くの同志が集まるでしょう。

討幕を成した後も問題はありません。稔麿ちゃんと一誠ちゃんがいてくれます。

みんなが……この国を新しき道へと導いてくれます」


 名を挙げてくれた四人のうち三人は、明治を迎える前に亡くなってしまう。


 病に倒れる者。己で命を絶つ者。敵に討たれる者。


 その未来を知っているが故に言葉を返せず、冷えていないレモネードを握りしめる。


「ですが……百年後、二百年後、それよりも先。

日本は日本のままでいられるのでしょうか。

敵はいつの時代にも現れるものです。それは内外問わず。

私たちがいなくなった日本で、戦ってくれる人はいるのでしょうか」


 僕は視線を落とし、息を吸い、一度呼吸を止めてから答える。


「少しは……いてくれると思います。僕の想像ですけど」


「少しです……か。でも、いてくれるのですね。

ミナトくんがそう言うのであれば、きっと大丈夫ですよね」


 視線を戻す。松陰先生は僕を見て微笑んでいた。


「そのことが気がかりだったのです。

いくら考えたところで私が知る由もないことであると、わかってはいるのですけど」


 いつも真っ直ぐだ。ひたすらに。


 彼女は身に覚えのない密謀や落とし文を疑われたことがある。

その尋問で江戸に召喚されたとき、己の義を包み隠さず訴えた。


 そして、徳川幕府の老中である間部詮勝の暗殺計画までも幕府の役人に自ら話した。

言わなければ、今こうして牢屋敷に囚われ、沙汰を待つことはなかったはずだ。


 僕は昔から彼女に聞きたいことがあった。

言えなかったのは、どこかで未来と過去を生きる者としての葛藤があったからだ。


「松陰先生の言う先の日本のことで、僕も聞きたいです。

今は国を想う多くの人々がいます。でも、それすらも変わることがありますよね」


「ええ、あるでしょうね」


「今は異国が攻めてくるという懸念があります。

ですが、この先……一部の者たちが異人と手を組むこともありえますよね」


「はい。悪巧みをする者はいるでしょう」


「もし、先の世で日本の役人などが異国と共謀して、この日本を陥れたら……。

日本を貶める者がいるとしたら、松陰先生はどうされますか」


 聞きたかった。どうしても彼女の口から聞きたかった。

私利私欲ではなく、己の義を貫く、純粋な想いを持っている人に。








「殺しますよ」








 冷たい牢に相応しい言葉だった。

白刃を向けられたかのように空気が張り詰め、息をすることを忘れる。


 彼女は変わらぬ口調で言った。


「日本を陥れる者は日本の民ではありません。

日本を汚す者は日本の民ではいられません。殲滅するべき敵です。

そのときは私のすべてをもって……その者たちを殺します」


 その言葉は、僕の着流しの衿元を切るかのような鋭さがある。

彼女の中では国の仇となる者、民を喰らう者はすべて敵だ。


 松陰先生は尊皇攘夷(そんのうじょうい)を掲げている。


 天皇を敬い、外敵を打ち払う。


 けれど、彼女の持つ尊皇攘夷は、固定観念としてのものではなかった。

外敵を打ち払うとは、すべての異人を追い払うという意味ではない。

そこには日本を良くするための開国が含まれている。

力の弱い今は鎖国し、国力を上げてから堂々と開国する、と彼女は前に言っていた。


「松陰先生は……百年後にはいませんよね。そのことはどのように考えますか?」


「難しい話ですね。それでしたら先程の発言、私の憂慮は撤回します。

先の世で戦ってくれる人は現れます」


 そう言った後でレモネードを一口飲み、肩を上げて身体を震わせた。


「私がいなくとも戦ってくれる人はいます。

なぜなら、私たちが種を撒いておくからです。

百年後、二百年後、何百年後。先の世の子たちが花を咲かせてくれます。

その子たちが美しき日本を守ってくれます」


 落ち着いた口調でも、確かな想いが偽りなく存在している。


 未来の日本の姿が頭に浮かぶ。


 向かい合ってくれる彼女から目を逸らす。


 頭が重くなり、ゆっくりと垂れていく。


「ミナトくん。ごめんなさい」


 不意に言われた言葉で、僕は伏せていた顔を上げる。


「私は萩でミナトくんとクオンちゃんに言いましたね、共に討幕の道を歩もうと。

押しつけるように言ってしまったこと……どうか、お許しください」


「いえ、謝らないでください」


「あなたは言いましたね。佐幕、討幕、どちらにも与しない。

なぜなら、双方とも日本のためを考えているからだ、と。

それなら今は己ができることをする。

小さいことであったとしても、と言ってくれましたね」


「すみません、生意気なことを……」


「そのようなことはありません。私はあなたが己の道を選んだことが嬉しいのです。

そして……松下村塾で学んだことは決して忘れないと言ってくれましたから。

――あの時の眼差しを私は今でも覚えています」


 松下村塾でのやりとりを思い出す。

陽の差し込む座敷には、多くの者たちが出入りしていた。


 今は暗がりの牢内だ。二人だけで言葉を交わしている。

みんなの笑顔であふれていた、松下村塾のような明るさは一つもない。


「ひくっ……」


 松陰先生の身体が大きく動いた。


「ミ、ミナトくん。あなた……やはり毒を盛りましたね?」


 炭酸によって震えた身体。その異常のせいで彼女に睨まれる。


「ち、違いますよ。体質的にそういうふうになる人もいるんです」


 僕がそう言うと、松陰先生は穏やかに笑う。


 そして静かに立ち上がり、僕の右隣に正座した。


「不躾ですが……よろしいですか」


 彼女は僕の肩に頭を乗せた。


「ごめんなさい」


「い、いえ……」


「少しだけ……こうさせてください」


 心の臓がどくどくと音を出す。憧れの人が隣で身を預けてくれる。

冷たい牢獄の中で、身体の中心が熱くなっていくのを感じた。


「人とは温かいものですね。触れ合えば心が落ち着きます。

――少し……弱音を吐いてもいいですか」


 僕が頷くと、小さな声で彼女は続けた。


「私は死を恐れていません。私の死は先の世を形作ると信じているからです。

人における「死」とは、誰にも想いが繋がれずに消えていくものだと私は思います。

後に続く者たちが、必ずや私の意志を受け継いでくれます。

今は知られていない、名も無き者たちが立ち上がります」


「僕も……そう思います」


「ですが……こうして友に会うと、どうしても考えてしまいます」


 行灯の灯りが広がる牢内の中で、彼女の声は震えた。


「みんなと学びたい、みんなと歩みたい。

松下村塾の子たちの笑顔を見ていたい。彼ら彼女らの道を見守りたい。

そのように……考えてしまいます」


 隣に目を向けると、涙を流す一人の女性がいた。


「だめですね、このようなことを考えては。私は決意を固めたはずなのに……。

己の義を通したいはずが、己の願いと混ざっています」


「そんなことありませんよ」


 僕は膝上に乗せた左こぶしを握りしめて続けた。


「人の想いは一つだけではないから、揺れ動くことはありますよ」


「ですが、私は己が決めたことを……」


「みんなも松陰先生には生きていてほしいって思っていますよ。

松下村塾は松陰先生がいるから……みんなが楽しく学べました。

僕は……あの場所を故郷だと思っています。それを作ってくれたのは松陰先生です」


 鼻水を啜る音が聞こえた。

目を向けると、彼女の双眸からぽろぽろと涙が流れていた。


 僕は傷んだ畳を左の手のひらで擦る。


 彼女の痩せ細った身体は震えて、嗚咽が激しくなる。


 松下村塾で雄弁に語る彼女にも痛みがあった。

幾重もある心を飲み込み、その中の一つを鷲掴みにし、ひたすら駆けている。


 僕たちは黙って肩を触れ合わせ、呼吸を合わせる。

言葉より大切なものが、そこにはあるような気がした。


 沈黙の牢内。罪人たちの寝息は小さくなっている。


 しばらくすると、小さな足音がした。

身が強張る。だんだんと音が小刻みになって、振り返ったと同時に声が刺さる。


「そこまでにしてください」


 声の主は牢番の同心でも、下働きの者でもない。


 紅い瞳で僕たちを睨むクオンだ。


「私の勘が働いたので見に来ました。

お二人は、なぜ身を寄せ合っているのですか?

牢内であまりに不謹慎です、淫らです」


 松陰先生は僕の身体から離れて、クオンを見て微笑む。


「クオンちゃん、お久しぶりですね」


「お久しぶりです、松陰先生。不誠実な行動は謹んでください。ここは獄です」


「牢に侵入することもいけませんよ」


「松陰先生にだけは言われたくありません」


「クオンちゃんまで……それを言うのですか」


 松陰先生は笑い、着古した着物の袖口で涙を拭う。


 瞬きをしないクオンは松陰先生を見据える。


「お答えください。なぜ、抱き合っていたのですか」


「抱き合ってはいませんよ。ミナトくんの肩を借りていたのです」


 松陰先生から満足な答えを得られず、クオンは僕を睨んだ。


「ミナト様! お答えください……!」


「ちょっと……大声は、まずいって。みんなが起きちゃうよ」


「関係ありません……! 覚醒する女囚など永遠の眠りにつかせればよいのです!

――お答えください……!

ミナト様が一人で行くと言うので任せてみれば、このざまです!」


「ク、クオン! 声が大きいよ!」


 僕は声を抑えつつ、語尾を強めた。


「最初からこれが目的だったのですね! 私に知られなければ、なにをしてもいいと!

そういうところを私は見抜きます!」


「ち、違うよ!」


「クオンちゃん、ミナトくんは悪くありません。責めるべき相手は私です」


「松陰先生のお気持ちは……わかります。

このような牢獄で毎日を過ごして……。ですが! ですが……!」


「ごめんなさい。私が身勝手な振る舞いをしました。どうか、許してください」


 クオンの怒りは松陰先生が宥めたことで、何とか収まった。


 これも懐かしい。

松下村塾にいたときも誰かが喧嘩をすれば、他の者が止めに入って。

それでも止まらない場合は、松陰先生の優しさが場を和ませた。

爽やかな風が入り込んでくる、あの講義の場はとても心地よかった。


 クオンは松陰先生と言葉を交わしていくうちに、だんだんと穏やかになる。

二人は思い出話に花を咲かせ、僕はその様子を見つめていた。


 不意にクオンの顔から笑みが消える。話の途中で言い淀み、下を向いた。


「そろそろ香の効果が切れる頃です。ミナト様、準備をしてください」


「うん……わかった」


 空き瓶などを回収して格子戸の前に立つ。息を短く吸い込み、振り返る。


 そこには穏やかに微笑み正座する、いつもの松陰先生の姿があった。


 彼女の清廉さを受けて、僕は言ってはいけないことを口にする。


「松陰先生。一緒に行きましょう。ここから出ましょう」


「ミナト様……」


 クオンの小さな声に、松陰先生の声が重なる。


「いいえ。私は行きませんよ」


「このままだと……松陰先生は……」


「それが私の義です。私の貫くべき義だからです。己で決めた道から逃げません」


「ですが……」


「己のことは己で決めます」


 変わっていない。初めて会ったときから何も変わっていない。

松陰先生の持つ信念は、切れ味の衰えない刃だ。

彼女の身を傷つけることはできても、心は何人にも折ることのできない大樹だった。


 格子に閂を落とし、鍵をかける。自身の手が恨めしい。


「ミナトくん。クオンちゃん」


 罪人たちの寝息は聞こえない。

静かな夜に彼女の声というのは、深い安らぎを持つ。


「お二人のこれからが幸福であることを私は願っていますよ」


「松陰先生……」


「大丈夫です。恐れることはありません。

苦しいときや悲しいときには、心の中で話しかけてください。

私は……いつでもそこにいますよ」


 喉の奥が重くなる。堪えていた涙があふれ出す。


 先生。松陰先生。何度も心の中で声が出る。


「れも、ねいど。とてもおいしかったです。

今日、お話ができて、また新たな学びを得ました。

――ありがとうございました」


「ありがとうございます……松陰先生」


 僕は深く、深く頭を下げる。隣で垂れる銀髪が視界に入った。


「松陰先生、ありがとうございました」


 クオンの声は震えている。


 僕が顔を上げると、松陰先生の頬には涙が伝っていた。


「どうか健やかに。素晴らしい先の世を過ごしてください。

私はいつでも、みんなと共にありますよ。

美しい日々をありがとうございました」




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