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散りゆく桜の真実、ぼくは未来で口づけを  作者: 陽野 幸人


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吉田松陰 5

             *




 しんと張り詰めた冷たさの中で足音を忍ばせる。


 牢屋敷の太く頑丈な格子の枠組みが並ぶ。

肺を悪くするようなカビの臭い。牢の中にある箱から糞尿の悪臭が漏れ出す。


 ゆっくり。ゆっくりと歩く。


 微かな行灯の灯りが漏れている牢があった。


 首を引っ張られるように牢内を覗く。


 隅のほうでは数人が寝ていて、その中に異質な存在があった。


 板敷きに古い畳が乗せられ、一人の女性が正座している。

筆を走らせ、肩甲骨が粗末な着物の下で動く。

それを見つめていると、女性の動きがぴたりと止まった。


「ミナトくん……ですか?」


 なぜ、わかるのか。身が引き締まる。

彼女と共に黒船に乗り込んでから、幾つもの季節が巡っていた。

僕とクオンは時間を飛ばして過ごしていたけれど、あれからさまざまなことがあった。


 振り返る女性は、以前と変わらぬ笑顔を浮かべている。

垂れた目尻は人を包み込み、瞳は人を疑うことを知らない幼子のようだ。

しかし、その奥にある心は義を語り、魂を焼き尽くすほどの烈火を宿す。


 僕は頭を下げた。


「松陰先生、お久しぶりです」


「久しぶりですね。ここまでどうやって入ってきたのですか」


「クオンが香を使って、外の人を眠らせました」


 牢番の同心も下働きの者も夢の中だ。


 クオンが独自に作り出した薬。その香は強烈な眠気を誘う。

牢内の罪人たちにまで使うわけにはいかず、同心たちだけに使ったが、すでに夜更けだ。

罪人たちの寝息が僕たちの会話に混じって聞こえる。


「眠らせるとは……強硬手段ですね。クオンちゃんは、どこにいるんですか?」


「今は外の見張りをしています」


「ふふ、相変わらず良き相棒ですね」


 太い木の格子が僕たちを隔てる。


 重厚な海老錠にクオンが奪取してくれた鍵を挿すと、軽く小さな音が出る。

そのまま鍵を捻った後で、格子戸に掛けられた閂を外す。


 松陰先生は溜め息を漏らした。


「晋作ちゃんの影響ですか。いけませんよ、無茶なことばかりしては」


「松陰先生には言われたくありません」


 彼女は友との約束を果たすために脱藩の罪を犯したことがある。

藩から立ち去る脱藩は、死罪に相当するというのに。

それは本人のみならず一族も危険に晒される。黒船に乗り込んだことも大罪だ。

今は別件で江戸の伝馬町牢屋敷に囚われている。


 松陰先生は以前より痩せているけれど、目の奥にある意志は変わっていないようだ。


 あの日。海を渡った日。黒船に乗り込んだ日。


 奉行所に自首した彼女は、後に長州藩の野山獄に送られた。

その後は生家で幽閉の身となっていたが、熱き魂は決して折れることはなかった。


 松陰先生は叔父である玉木文之進が、かつて主宰していた松下村塾を引き継いだ。

そこに彼女の噂を聞きつけた若者たちが次々と現れた。

僕とクオンも入門し、みんなと共に多くのことを吸収する。机上の学問だけではない。

剣術に汗を流し、敷地内にある畑で泥だらけになることもあった。

幽閉中の松陰先生は行けなかったが、門下生と山で遊ぶことも大きな学びだった。


「私に言われたくないとはどういう意味ですか。失礼ですよ、ミナトくん」


「誰よりも行動するではないですか。松陰先生は立ち止まるということをしない。

常に誠実であろうとする姿勢、僕は憧れています」


「褒めてくれるんですね」


 荒れる時勢の中で、彼女が心に持つ刃を振り上げたのは必然だったのかもしれない。


 徳川幕府は帝の勅許を得ずに、アメリカと不平等な条約を新たに交わす。

怒りを露わにした松陰先生は、老中である間部詮勝の暗殺を企てた。

そして……長州藩に対し、暗殺のための武器を貸してほしいと依頼する。

その話を聞いたときは思わず笑ってしまった。


「さあ、このように汚いところですけど座ってください。

おもてなしすることができなくて……ごめんなさい」


 彼女に促されて畳に座る。

僕は片手に持っていた茶色の風呂敷から、瓶の飲料を二本取り出す。


「それは……なんですか?」


「これはレモネードという異国の飲み物です。横浜に行って密かに買いました」


「れも……ねいど。お酒ですか?」


「いえ、甘い飲み物です」


 彼女は目を見開き、微かに顎を上げた。


「それはウィリアムズさんが言っていた『あいす』とは関係ありませんか?」


「えっと……これは違います。アイスクリームは飲み物ではないので」


「あ……そうでしたね、ミナトくんは冷たい菓子と言っていましたね」


 彼女は頭を下げて、ぽつりと声をこぼす。


「私は結局……ウィリアムズさんとの約束を守れませんでしたね」


 伏せた目は少しだけ光っている。


「あの時、どういうわけか私と金子ちゃんは斬首にならなかった。

ウィリアムズさんが助命を訴えてくれたからだと後で知りました」


「そう……でしたか」


「国禁を犯した私を幕府が許すはずがありません。

あの日、姿を見せなかったペリー提督も助命のために動いてくれたそうです」


 松陰先生は瞼を閉じた。


「それなのに……申し訳ないです。

私はメリケンに行くことも、萩に来てもらうことも反故にしてしまいました。

ウィリアムズさんには……感謝と申し訳なさでいっぱいです」


 僕は視線を落とし、手に持つレモネードを見つめた。

アイスクリームは食べられなくても、それと同じくらいに驚いてもらえる飲み物だ。


 飲み口はコルクと針金で留められている。細い針金を指先でほどく。

着流しの腹辺りにレモネードの口を押しつけ、音が漏れ出ないように、そっと動かす。


 破裂音が出れば、就寝中の罪人が目を覚ますかもしれない。

外でクオンが見張ってくれているとはいえ、他の者が来ることも否定できない。


 静かに。慎重に。確実に。


 レモネードのコルクをじりじりと抜くように、指先に力を込める。

瓶の中に溜まった炭酸を逃がすために、コルクを斜めに動かす。


 ぱひゅう……。


 間抜けな音がした。松陰先生はこちらを凝視している。

軽く笑みを浮かべた僕は、もう一本のレモネードを開けた。


 松陰先生にレモネードを渡す。


 彼女は淡い琥珀色の飲み物を暗がりの中で揺らし、瞬きせずに見つめている。

その瞳は未知なる物への興味と探究心があふれる。


 唇を内側に巻き込み、僕に目を向けた。


「今、茶碗を用意しますね」


「あ、大丈夫です。レモネードはそのまま飲むものです」


「そのまま……ですか」


 彼女は恐る恐る飲み口に唇をつけて、瓶を傾けた。


「くっ、ぴいっ……」


 口に含んだレモネードが喉の奥で弾けたのか、変な声を漏らし、僕を見る。


「これは……毒です。甘いですが……とても痛いです。私に毒を盛ったのですか」


「ち、違いますよ。そういう飲み物なんです」


「まさか、幕府の間者にでもなったのですか? 私を暗殺するために」


 松陰先生はわざとらしい流し目をしてみせて、口元を上げる。

僕の心はじんわりと温かくなり、笑みを返す。


「そうだとしたら、こんなにわかりやすく毒を盛りませんよ。

饅頭の中に毒を入れたほうが早いです」


「ふふ、そのとおりですね」


 彼女を安心させるために、僕はもう一本のレモネードをごくごくと飲む。

嫌な苦味のようなものはなく、すっきりとした酸味と少しくどい甘さが口に広がる。


 幕末では高級品だ。

レモネードという呼び方が訛り、後にラムネになったとクオンが前に教えてくれた。


 再び瓶に口を付ける松陰先生の姿は、牢内の行灯に照らされた。


 炭酸の刺激に顔をしかめ、目に涙を浮かべて微笑む。


「これが……れも、ねいど。不思議な飲み物ですね。

喉が痛いですけど……慣れると甘くておいしいです。

下田で篠原さんと飲んだ葡萄酒もおいしかったですものね」


「篠原さんのこと見かけますよ。行く先々にいるんです」


「そうなんですか。お元気でしたか?」


「元気というか……。

農民や商人に難癖をつけて、食べ物を巻き上げたりしていましたよ」


「あの方とも、もっと語り合いたかったです」


「それは……やめましょう。

――あ、松陰先生、菓子もありますよ」


 炭酸飲料には合わないだろうが、江戸の町で購入した金鍔を風呂敷から取り出す。


 松陰先生は萩にいた頃から、質素な食事を好んでいた。

甘い菓子を食べることは、めったにない。

稀に甘い物を食べるときの顔つきは、志士という熱情から僅かに離れたようにも思う。


 彼女は金鍔を食べて微笑む。


「こちらも甘くておいしいですね」


「すみません。握り飯のほうがよかったですか?

牢では満足に食べられないですよね」


「いいえ。私はミナトくんとクオンちゃんの心遣いがとても嬉しいですよ。

特に……れも、ねいど。これは気に入りました」


「クオンが教えてくれたんです。

松陰先生は異国に興味があるから、レモネードを渡したら喜ぶんじゃないかって」


「そうですか。ありがとうございます。

ですが、お二人は松下村塾で私が言ったことを誤解していませんか」


「え? どういうことですか?」


「己の道を進めとは言いましたが、私の牢に入ってくることではありませんよ」


「それは……わかっています」


「松下村塾の者ということを少しは考えてくださいね」


 松下村塾には多くの者たちがいた。

新しい時代を作るために、幕末を駆け抜ける維新志士たち。

後に近代国家の礎を築く者たちがいて、新しき時代で商売を始め、成功する者もいる。


 そして……歴史に名を残さぬ者もいた。


「ミナトくん。己の道を進むためにはどうするべきか、という話を覚えていますか?」


 かつての講義を思い出し、小さく頷くと、松陰先生は微笑んだ。


「真摯な姿勢で物事に打ち込めば、変わらないことはないと教えましたね。

それが成らずとも、なにかは変わるものです。

変わらないのであれば、己の志に誠を尽くせていない証であるとも思います。

誠を尽くせたかどうかは己が決め、そして他者が決めてくれるものです」


「そうであれば、今夜の僕とクオンの行動は誠を尽くしたことの証ですね」


「どういう意味ですか?」


「こうして松陰先生に会えました。行動したことで変わりました。

松陰先生はレモネードを口にして新たな考えを持ったかもしれません。

それは一つのことが確かに変わったということです。

松陰先生の教えを守った僕たちは正しかったと思います」


「こら。そういうことは言っていませんよ」


 彼女の人差し指は、僕の頬を優しく刺す。


 それだけのことなのに心は満たされていく。


「僕たちは差し入れですが……高杉さんだったら、この牢屋敷に攻め入りそうです」


「確かにそうですね。でも、晋作ちゃんは来ませんよ」


「え?」


「少し前まで江戸にいたのですが、藩命で長州に帰ったんです。

それに釘を刺しておきました。決して行動しないように、と」


「そう……だったんですか」


「ミナトくんたちにも文を送ったでしょう。助けには来ないように、と」


「…………。すみません」


「晋作ちゃんですら約束を守ってくれましたよ」


「すみません……」


 松陰先生は顔を綻ばせて、膝の上に置く手を少し引いた。


「彼女は私の死を喰らって、さらに大きくなる龍です。

人のため、道のため、国のために彼女は咆哮するのです」


 暗い牢獄に光が差したかのように見えた。


 その一方で、僕の心には刃こぼれの刀で引き斬られるような痛みが走った。


 松陰先生と会えなくなる。話せなくなる。


 けれど……今は目の前に松陰先生がいて、己の想いを教えてくれる。


 松下村塾で学ぶ、あの頃のようだ。


 松下村塾は身分も問わないし、師弟という垣根もない。

議論するときは対等な立場で意見を交わし、己の考えを深めていく。

対等、と言えば見下す者も出てきそうだが、決してそのようなことはなかった。


 誰もが吉田松陰という人物を敬っている。


 それは「教育者」という肩書きではなく、人格に対してであることは明白だった。


 僕とクオンの住む未来にはない関係性だ。

見せかけの教師と生徒という形ではない。学びにおける人と人の対話。

身分や肩書きなどを意に介さず、人の意見を欲し、己の意見を渡す。

笑顔で語り合う彼女の姿は、まさに「教育者」だ。


 人生で初めて「先生」と呼べる人に出会った。


 レモネードを一口飲んだ松陰先生は、少し目を伏せる。

その瞳は薄暗い牢獄の中で、どこか遠くを見つめているようだった。


「彼女は元気でしょうか……ね」


「誰のことですか?」


 僕の問いかけに微笑んだ松陰先生が、一人の門下生の名を口にした。

膝の上で両の手を重ね、優しく、優しく、言葉を紡いだ。


「静かに根を張り、青空を見上げる。目立たなくても堅実に前へ進んでいく。

痛みを知っているからこそ、人の心に寄り添うことができます」


 松下村塾の隅で、みんなの話を聞いていた一人の姿が頭に浮かぶ。


「長い冬を耐えた志は、美しい桜の花になります」




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