↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
散りゆく桜の真実、ぼくは未来で口づけを  作者: 陽野 幸人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/63

吉田松陰 4

 ウィリアムズさんの気遣いで、水兵によって浜辺まで送られることになった。


 松陰さんは断ったけれど、僕たちの小舟は固定が甘かったのか、荒れた海のせいか、誰も知らない海の彼方へ消えていた。


 梯子段を下りていくと、波はずいぶんと穏やかになっていた。


 葉巻を燻らせるウィリアムズさんが微笑む。


「日本の女傑よ。今日はあなたの心意気を見せてもらった。

それはあなたの故郷を見せてもらったも同じです。

今度は私があなた方をアメリカへ招待しよう。

互いの国の人々が自由に行き来できる世がきます」


「はい。その時は、ぜひお願いします。私が生まれた萩にも来てください。

メリケンへ行くときには萩の土産を用意いたします。

今日も持ってきたのですが、海に流されました」


 頬を掻く松陰さんに、ぱっと目を開くウィリアムズさんが返す。


「まだ私が知らぬ日本の菓子がいいですね。とても楽しみです。

そうだ、あなた方は肉を食べないのでしょう。鳥や猪などは食べると聞きましたが。

これはつらいことです。ペリー提督も嘆いています。

だから、アメリカではビーフステーキを御馳走しましょう。力がみなぎりますよ」


「びーふ……」


 僕は小首を傾げる松陰さんに小さい声で告げる。


「ビーフステーキは、牛の肉を焼いた食べ物のことです」


「牛ですか。異国では牛を……食べるのですか」


 彼女は目を丸くする。

その反応を見たウィリアムズさんは、松陰さんに向けて片目を一瞬だけ瞑った。


「肉が苦手であれば、甘い物はどうでしょうか。

私の国には甘いアイスクリームがありますよ。

この船でも作れるのですが、今は船員が寝ているから作ることは難しい。

ですが、いつかアイスクリームを食べてもらいたい」


「あ、あいす?」


 眉を下げる松陰さんに、何と伝えようか僕は思案したが、適切な言葉が浮かばない。

クオンも訳せなかったのではないだろうか。


 僕は苦し紛れに松陰さんに伝える。


「アイスクリームは冷たい菓子……です」


「冷や水のようなものですか?」


「いえ、違います……うーん。色は白くて……味は甘いんですけど」


「あ、白玉のような食べ物ですか」


「違います。牛の――」


 そこでウィリアムズさんの声が割り込み、クオンが柔らかく伝えた。


「今は知らないほうが楽しみとなるでしょう。

アイスクリーム。きっと気に入ります。ぜひ、食べてもらいたい」


 彼は葉巻の煙を吐き出し、松陰さんを真っ直ぐに見つめた。


「それと最後に。もう一度、あなたの名を教えてくれますか」




「吉田松陰です」




 アメリカ側が用意してくれた小舟に僕たちは乗り込む。

黒船に向かったときとは比べものにならないほど、海は静かだった。

激しい白波も頬を打つ潮風も消えている。


 身体が浮き上がるような、ゆったりと不気味に大きく波打つ海だ。

振り返ると、大海原へ飛び出した僕たちに、手を振り上げる男性の姿が微かに見える。


 その手は逞しく、筋張っていて温かかった。

黒船から離れる前、ウィリアムズさんは全員と握手をして、丁寧に見送ってくれた。

松陰さんと金子さんは、異国の文化にとても困惑していたけれど。

彼は意に介さず、握り合う手を軽く上下させていた。


 もしかしたら、そのまま彼女たちを抱きしめるのではないか。不安が頭をよぎった。

松陰さんとウィリアムズさんが握手をしたときに、僕は彼の肩を叩いた。


『You can't hug her』


 彼女を抱きしめないで。

僕の発言にウィリアムズさんは眉間に皺を強く寄せて、両の腕を広げた。


『Don't be silly』


 バカなことを言うな、彼は僕のことを睨んだ。


 クオンの話では、この時代のアメリカにおいて男女間で抱きしめ合う文化はないそうだ。

男同士の激励のようなものらしい。

女性に行う場合は近親者のみで、なおかつ、人前でするものでもないようだ。

取り越し苦労。僕はアメリカ人に変人だと思われてしまった。


 そのようなことを考えて波に揺られていると、黒船の方向から大声がした。


「ヘイ……!」


 ウィリアムズさんの声と波の音がぶつかる。


「ショウイン! また、アイましょう! カナラズ……!

ワタシがタスケル! タスケルから!

生きて! 生きて……! また! アイましょう!」


 小舟の上に立った松陰さんは微笑み、声を張り上げた。


「ええ! ウィリアムズさん! また会いましょう!」


 大きな波を何度か越えると、互いの顔も見えず、声も聞こえないところまで離れた。


 海水の飛沫が顔に勢いよく飛ぶ。

漕ぎ手の異人たちは海の百戦錬磨であるから、あっという間に浜辺に辿り着いた。


 白み出してきた空。打ち寄せる波の音。物言わぬ疲れた身体。


 砂浜に座る四人は無言だ。僕は黒船に向かうときに痛めた腕を揉む。


 松陰さんと金子さんは、今も黒船を見つめている。

異国を見るため、国を守るため、彼女たちの想いを白波が連れて行くことはなかった。


 完全に陽が昇り、朝を迎える。

松陰さんはすっと立ち上がり、黒い袴に付いた砂を手で払う。


「それでは、私は行きますね」


 松陰さんに続いて、金子さんも立ち上がる。


「金子ちゃんは藩邸に戻りなさい」


「え? あ、あの……松陰先生は?」


「私は番所へ、こたびのことを伝えます」


 金子さんは目を伏せた。


「それでは……死罪になってしまいます……」


「私は国禁を犯しました。これは償うべきです」


「それは……国のために……」


「そうです。私は己の信念に基づいて動いたのです。

恥じることは一つもありません。

メリケンに行けなかった以外、一つの後悔もありません。

自ら出向き、己の罪を役人へ伝えます」


 静かな波の音が耳を撫で、潮の香りが鼻を掠める。

それを生み出す広大な海は、松陰さんの心と同じような気がした。


「そ、それなら私もお供します」


「いけません。金子ちゃんは、これからの世のために動いてください。

咎を受けるのは、私一人で十分です」


「わ、私など小さき者です。この国を変えるのは松陰先生です。

最後まで……最後まで私がお供します」


 松陰さんは、しばらく目を瞑り黙っていた。

そして、小さく頷いてから金子さんに言う。


「わかりました。あなたの想い、確かに受け取りました。

いつもありがとうございます」


 金子さんに笑顔を見せて、僕とクオンにも同じ顔を向けた。


「楽しかったですね。メリケンへ行けなかったのは残念ですが。

荒れた海を共に進み、黒船に共に乗り込んで。

ウィリアムズさんと心を通わせたのは、良き思い出になりました」


「はい。僕も楽し……いえ、死にかけたので楽しくはありませんでしたけど。

良い思い出になったのは、僕も同じです」


「ミナトさんがいなければ、黒船には辿り着けませんでした。ありがとうございました。

クオンさんも通訳、ありがとうございました。とてもわかりやすかったです」


「私のエゲレス語が役に立って、よかったです」


「私たちが死罪にならず、生き延びることがあるとしたら萩に来てください。

ミナトさん。クオンさん。お二人のことを歓迎しますよ。

――また、共に学びましょうね」


 僕たち四人は笑みを交わして別れた。


 松陰さんと金子さんの背中が海岸林の中の道に入る。

僕とクオンは、だんだんと小さくなる背を見つめて頭を下げた。


 猛る想いと確かな生き様を見せてもらった。


――長州の吉田松陰さん。


 不意に大地を揺らすかのような轟音が響く。身体は木桶で叩かれたかのように震えた。


 音の正体は青い海に漂う黒船からだった。


 夜明けに放たれた一発。


 アメリカ人が一人の日本人に向けた敬意。


 敵を殺すことのない。誰を殺すこともない。


 ただ一つの美しい空砲だった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。