吉田松陰 3
*
波打つように光る銃剣を向けられた。
夜の海は黒船の横っ腹を容赦なく叩き、激しい音を立てる。
甲板に佇む僕たちの鼻を突くのは、焦げたような臭いと纏わりつく生臭さだ。
周囲に提げられた灯りは、船の傷んだ木目をぼんやりと映し出す。
水兵が足元に置いたカンテラの炎は、甲板の上を這っていた。
僕の眼前には、松陰さんの背中がある。
「こんばんは。夜分に無礼と承知ですが、私たちは日本から来た者です」
濡れた前髪を払う松陰さんが告げる。
濃紺の軍服を纏う一人の水兵は声を荒らげた。
「出て行け! 帰れ! ここはアメリカの船だ!」
見張り番の彼らは元々三人いた。
一人は船内に駆けて行ったが、残りの二人は小銃の引き金に指をかけている。
アメリカ船であるから、これが雷管式のマスケット銃という物だろうか。
小銃に取り付けられた剣は、落ち着きなく縦横に揺れている。
クオンは物怖じせず、彼らに話しかけた。
「私たちは敵ではありません。お話があって来ました」
彼女の口から出た流暢な英語は、二人の水兵の目を丸くさせる。
「お前……英語ができるのか?」
「はい、私が通訳をします。銃を下ろしてください」
「それはできない。下がれ。近寄るな」
「なぜですか。怖いのですか?」
「なんだと!」
「私たちのことが怖いのかな、と思いまして」
「早く下がれ……!」
激昂する水兵が小銃を構え直す。クオンは見届けることなく振り返り、僕を見た。
彼女の銀髪も薄紅の着物も海水で濡れている。
「おケガはありませんか、ミナト様」
「うん、大丈夫。腕が痛いけどね」
櫂を漕いだ腕を揉みほぐしつつ、先程の海のことを考えると肝が冷える。
僕は黒船に侵入するつもりなどなかった。
数日前、クオンが何気なく言った一言が原因だ。
『私はエゲレス語が得意です』
その言葉を聞いて、松陰さんは目を見開いた。
通訳を彼女に頼み込まれて、クオンを一人にできない僕は付いていくしかなかった。
僕たちの渡った海は、まさに地獄と呼ぶに相応しい。
先の見えぬ暗闇。耳の奥を打つ波の音。そびえ立つような海水。
頭から被る海の水は、泥で叩かれるような重さがあった。
海に投げ出されたら、間違いなく死ぬ。
決死の覚悟で乗り込んだ船は、本命の黒船ではなかった。
気さくな水兵に大笑いで追い返され、再び荒れた海を渡る。
黒船に飛び移る金子さんを補助した僕は、荒れ狂う海に落ちた。
咄嗟にクオンと松陰さんが引き上げてくれなかったら、海の藻屑と消えていただろう。
だからだろうか。
本命の黒船に乗り込み、銃口を向けられても、強い恐怖を感じない。
もはや、どうでもいい。自然のほうが圧倒的に怖いのだから。
相手に「撃つ」という意思がないことも、何となくわかる。
冷えた身体で待っていると、船内に通ずる扉が開き、甲板を踏む硬い足音がした。
灯りによって、二人の男性の姿が浮かび上がる。
一人は先程の水兵だ。もう一人は目の辺りを手で擦りつつ、足早に迫ってきた。
髭を蓄え、鼻が高く、ぎょろりとした双眸が光る。
男性は黒く長いコートを纏っていて、僕たちを訝しんだ。
「こんばんは。私は吉田松陰と申します」
松陰さんが挨拶をすると、男性は軽く頭を下げた。
「サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ」
彼はゆっくりと英語で名乗りを上げた後で、日本語を口にした。
「ナニしにきました。ワタシ、アナタのコトバわかります」
クオンが二人の会話に割って入る。
「私はクオンと申します。私が通訳します」
ウィリアムズさんは、クオンの容姿と話す英語が美しいと言った。
けれど、どこか訝しむように口元の髭を撫でて、少し溜め息を漏らす。
「漂流民ですか? それとも、なにか目的があって来たのですか、と言っています」
クオンを介したウィリアムズさんの問いかけだ。
松陰さんの濡れた草鞋が甲板を擦る。
「私たちをメリケンへ連れて行ってください。あなた方の国を見てみたいのです」
クオンの通訳を聞いた水兵たちは、目を見合わせて鼻で笑う。
手に持つ銃の先は定まらず、目を見開いたり、口を曲げたりしている。
僕は眉間に皺を寄せて、歯を食いしばった。そんなに笑うことか、と。
彼らを手で制止したウィリアムズさんは、静かに話を続ける。
「アメリカに連れて行くのは無理です、と言っています」
「私たちには大義があります。そのためにメリケンを見てみたいのです。
あなたの生まれた国を私に見せていただけませんか」
「アメリカへ連れて行くことは可能です。
しかし、あなた方を連れて行くことは幕府に許されていません。
徳川から許しを得て、ここに来ているのですか、と言っています」
松陰さんは頭を小さく振った。
「許しは得ていません。ですが、どうか……どうか連れて行ってください」
その声は静かだが、海の底を掻き回すような力強さがある。
一人の水兵がこちらに銃を向けたまま、低い声を出す。
「調子に乗るなよ。お前、このまま海に落とすぞ」
顎をしゃくって、前に踏み出す。銃剣の鋒が松陰さんに向けられた、その時だ。
金子さんが刀に手を掛けて、水兵の前に飛び出した。
「さ、下がってください! そ、それ以上、近づくなら斬ります……!」
鯉口を切り、身を低くして構えた。
声は震えているが、しっかりと刀の柄を握っている。
「さ、下がってください! 松陰先生に無礼な振る舞いをしないでください!」
大人しい彼女とは思えないほどの気迫が込められている。
「下がって……! 松陰先生に近づかないでください!」
松陰さんは、金子さんの肩を軽く叩いた。
「大丈夫ですよ、金子ちゃん」
「ですが……先生……」
「あなたが剣を振るう必要はありません。
もし、斬り合うことになっても私が立ち会います。
そうですよね、メリケンの水兵さん。殺し合う覚悟、持っておられるのですよね」
普段の松陰さんとは違い、威圧的な声だ。
僕からは彼女の表情は窺えない。
先程まで勢いのあった水兵の顔は、蛇に睨まれた蛙のように硬直している。
いや……底の知れない「何か」を見てしまったかのような顔だ。
ウィリアムズさんは、銃口が定まらない水兵の肩を掴んで、後ろに引き下がらせた。
その後で顎に手を当て、視線を落とす。
「アメリカと日本は条約が結ばれた。
日本の人民を勝手に連れ帰れば、約束を破ったことになる。
せっかくの条約も取り消されてしまうかもしれない。
だから、あなた方を連れて行くことはできない」
彼の英語はゆったりとしているが、時に語尾を強め、威厳を見せつけてくる。
決して嫌味なものではなく、真摯な姿勢で相手に言い聞かせるように。
沈黙の甲板。激しい波音。揺れる身体。
「どうして、アメリカへ行きたいのですか」
ウィリアムズさんの言葉をクオンが伝える。
それを聞いた松陰さんは、腰に差した刀を外し、自身の右隣に置いて甲板へ跪いた。
「敵を知らなければ、日本は異国に攻め滅ぼされてしまいます。
この美しい国が。この美しい日本が。異人によって踏み荒らされてしまいます」
「私たちは敵ではない」
「無礼を承知で言います。あなた方は、いずれ日本を攻めてくる。他の異国もそうです。
それは武力だけではない。日本の民を喰い物にし、異国は富を得る。
その内に日本は、諸国の奴隷に成り下がる。それは先の戦が証明しています」
ウィリアムズさんは再び目を伏せて沈黙する。
鼻をつまみ、息を吐いてから重く低い声で言った。
「アヘン戦争の……ことか」
「はい。エゲレスが大義なき戦を起こし、罪無き清を奪いました。
清はエゲレスに陥れられた自国の民を守ろうとしただけです。
エゲレスは勝手な解釈、さらに言いがかりをつけて戦を始めた。
――そこには……大義などなかった」
訴えかける松陰さんの背中は、鋭い刃が芯に刺さっているかのように真っ直ぐだ。
「私は異国を知ることで、万一のときに異国と戦える力を得たいのです。
日本のために。この先の日本のために」
冷たい潮風が吹きつけて、ウィリアムズさんは渋い顔で返した。
「侵略はしないはずだ。
それに敵であるというなら、敵である私たちに頼み事をするのは、おかしいではないか」
「我が国には敵に塩を送る、という言葉があります」
変わらぬ姿勢。相手に突きつける彼女の想い。
異人の目には、どう映るのだろうか。
ウィリアムズさんは、松陰さんから目を逸らさない。
「その心意気は認めるが、こればかりはどうしようもない。
一人のために国をおびやかすことはできない。
時が経てば、両国の人々も行き交うようになる。それまで待ちなさい」
「それでは……それでは遅いのです!」
後ろで纏められた艶のある黒髪が左右に揺れた。
「私たちは、今こそ立ち上がらなければならない。
異国が攻めてくるというのであれば、私たちは戦わなければいけません」
「我々は戦うつもりなどない」
「戦とは己が望まなくとも起こるものです」
「戦は起こらないから、安心していい。日本とは友好な関係を築きたい。
人類とは……みんな友である」
「それはウィリアムズさんの考えではないのですか。
メリケンの兵士やペリー提督はどうですか。メリケンの国主はどうですか。
今が良くても、この先、日本は必ず異国に狙われます」
「我々の想いは一つだ。侵略することは……決してあってはならない」
声を潜め、鼻水を一度だけ啜ったウィリアムズさんに対し、松陰さんは声を張った。
「今が大丈夫だとしても、先の世はどうですか!
五十年後、百年後、二百年後、日本は異国に奪われるかもしれない!」
「それをうまくすることが外交だ。我々が無駄に争う必要はない」
「先の世の話をしているのです!
異人が我が物顔で日本の地を踏み荒らす! 日本の民が泣く世にはしたくありません!
――今を生きる私たちが……志を持って、立ち上がらないといけない!」
息をのむ。少し俯いていた僕の顔は自然と上がり、未来の国の姿がよぎる。
ウィリアムズさんは松陰さんから目を逸らすことなく、正面から真っ直ぐに見る。
歯を食いしばっているのか、角張った顎の辺りが少し膨らんだ。
灯りによって、松陰さんの黒髪は温かい色に染まる。
彼女の顔は見えない。そこには、己の想いを蓄えた鬼気迫る表情があるはずだ。
「私は日本のために戦います。民のため、先の世のため。
この先……日本に生まれる一人のために」
船体を叩く荒れた海の音が、少しだけ弱まっていくように感じる。
ぎょろりとした双眸を手のひらで覆うウィリアムズさんは、大きく息を吸い込む。
「もし、戦になったとしたら……あなたは私のことを殺すのか?」
「はい、斬ります。日本を汚す者は、誰であろうと必ず斬ります」
真冬の外に置かれた刃のように冷たい声だ。
しかし、真夏の下に置かれた鋼のような熱さもある。
僕は奥歯を噛みしめた。
僕たちが住む日本のために戦ってくれる、その姿を見て。
ウィリアムズさんは口をすぼめる。
「私は日本に敬意を払っている。
あなたのように美しい人がいる、日本を。あなたは異人が嫌いか?」
「忌み嫌ってはいません。
異人だからというだけで、排斥するつもりもありません。
ですが、日本の民を踏みにじる者があれば……容赦なく殺します」
「殺す……か。とても野蛮な行いだ。あってはならないことだ」
クオンの抑揚は、ウィリアムズさんの言動をよく表せている。
野蛮な行い。アメリカ人がよく言えたものだ、と僕はウィリアムズさんを見据えた。
彼のいる大陸には、平穏に暮らす多くの原住民が住んでいたというのに。
「守るために戦うことは、悪ではないと私は思います」
そう静かに告げた松陰さんは、微動だにすることなく言葉を続ける。
「守る戦い。そこには、人を想う心と大義があります。
大国は人を想う心があるように見せて、その実、誰よりも残虐な振る舞いをする。
人の心を軽んじ、人の心を踏み殺す。
己の国やエゲレスが歩んできた歴史を振り返ってみてください」
ウィリアムズさんは口を噤み、眉間の辺りを指先で掻く。
返事を待たずに、松陰さんが言う。
「誤解しないでください。良識ある異人は敵ではありません。
しかし、民を傷つけ、民を犯し、国を奪う異人は、誰であろうと必ず殺します。
どこの国の者であろうと、我が国は屈せず、その敵と戦います」
「幕府は……戦うつもりなどないだろう。
たった一人でやるのか? 他にも仲間がいるのか?
そうだとしても、列強国と戦えるわけがない」
「できます。この身が朽ちたとしても、後に続く者たちが日本を守るからです」
次に松陰さんから放たれた言葉は、僕の胸を深く切り裂くようなものだった。
「今の世にも。この先の世にも。日本を守ってくれる人がいると、私は信じます。
――日本の美しさを守る者たちがいます」
鈍い痛み。鋭い痛み。抉る痛み。
僕の生きる未来が脳裏によぎり、心は深い海で溺れる。
顎髭をしきりに撫でるウィリアムズさんは、しばらく黙っていた。
目を瞑り、何度か俯き、そして声を出した。
「あなたの気持ちはわかった。
しかし、連れて行くことは……どうしてもできない」
クオンを介して、誠実な彼の言葉は続く。
「わかってほしい。あなたのアメリカへ行きたいという気持ちは、受け入れられない。
すべてを語らずとも、あなたほどの人物なら理解できるだろう。
これは……双方の国家のためだ」
松陰さんは返事をしなかった。
冷たい潮風が僕たちの間をすり抜けていく。
波が思うがままに叫んでいる一方で、黙ったままの松陰さんの首はゆっくりと垂れる。
僕は浅い呼吸を繰り返す。ウィリアムズさんは、松陰さんを静かに見つめている。
甲板には波の音しか聞こえない。
二人が同じ言語を話すとしたら、どうだろうか。
交渉は別の形に進んだのだろうか。僕はそのようなことを考えていた。
すると、急に顔を上げた松陰さんが背筋を伸ばし、淀みなく言う。
「わかりました。無礼な振る舞いと数々の非礼をどうか……お許しください」
ウィリアムズさんに向けて、深く頭を下げた。
謝罪を受けた彼は何度も頷き、彼女を見つめている。
跡が残るようなほど眉間に皺を寄せて。
「機会があれば、再び我々の船に来てください。
今度は幕府の許しを得てから。それなら問題はないでしょう」
「それは叶わないことです」
「なぜですか。また会って、ゆっくりと話をしてみたい」
「異国の船に乗り込み、密航を企てれば死罪になるからです」
「死罪……。それでは……なぜ、密航を企てたのですか」
「己の命を賭して、成し遂げる義があるからです。
義を前にして、死など恐れるわけがありません」
「それほど強い意志……その強い想いは、どこから生まれてくるのですか」
僕からは見えない。松陰さんの顔は見えない。
けれど……優しく微笑んでいる気がした。
「私が日本に生まれた者であるからです」
心を叩かれ、瞼が痙攣する。
僕が生まれた未来では、その言葉を口にすれば、嘲笑されることは必至だった。
自国を誇ることを「何も持たない者たち」に侮られる。
そのような愚かな国になっていた。しかし……この幕末は違う。
当たり前に存在している、その想い。決して裁かれることはない。
堂々と日本を誇る、と淀みなく言う彼女のことが僕は羨ましかった。
松陰さんは再び頭を下げて、礼を述べる。
「私の話を聞いてくださり、ありがとうございました」




