吉田松陰 2
*
波が打ち寄せる。白い泡を残し、海へ帰っていく。潮風は髪の潤いをいくらか奪う。
昨年、アメリカの海軍提督であるペリーが大統領の親書を持って来航した。
その時の僕の胸は、幕末の黒船を見られると熱を帯びた。
歴史が動く瞬間も人々の反応も肌で感じられる。
今年に入って横浜に黒船が再び現れたときにも、クオンと共に見に行った。
今回の来航で、徳川幕府はアメリカと日米和親条約を結んだ。
その条約の中で開港した伊豆国(静岡県)の下田に僕たちはいる。
「カニさん、カニさん、どちらに行かれるのですか?」
クオンは磯で横歩きする小さなカニに話しかける。
「素焼きにされてしまうかもしれませんよ。海で遊べなくなってしまいますよ」
少し離れた海上には、二隻の蒸気船と数隻の帆船が波の上に佇んでいる。
防腐のためのタールが塗られた船体。それ故の黒さと重厚さ。
そして、巨大な構造物から生まれる威圧感。
アメリカの蒸気船と日本の帆船の大きさを比べれば、屈強な力士と子どもほど違う。
最初に黒船を見に行ったとき、人々が異国船を恐れているようには見えなかった。
海沿いでは屋台や茶屋を出している商人がいた。
弁当や酒を持ってきて、家族や友と黒船を見学する者たちもいた。
一種の行楽。一種の娯楽。一種の交流。
多くの人は異国船を恐れていない。そのように見えた。
日本人が書物や伝聞でしか知らなかった蒸気船。
それ故にアメリカが行える、近代兵器という力任せの外交。
異国や異人に危機感を募らせたのは、朝廷、幕府、実際に戦う武士たちだった。
その一方で、異人も日本の伝統工法である木組みや工芸品の美しく繊細な技術を見て、息をのむことになる。
「おー、相変わらず大きいですねー」
波打ち際の音に混じって、透明感のある声が聞こえた。
磯の崖の上に目を向ける。そこには二人の女性がいた。
一人は自信なさげに眉を下げている。もう一人は……声の主だろう。
灰色の小袖と黒い袴姿だ。太陽の光を吸い込んだような瞳を輝かせている。
その女性の美しい瞳と僕の瞳、視線が交差した。
目鼻立ちが整っている。
とても知的な雰囲気であるが、どこか幼子のような無邪気さが見え隠れする。
その女性が微笑み、僕たちに声を向けた。
「こんにちはー! あなた方も黒船を見に来られたのですか?」
真っ直ぐな眼差しに落ち着いた声だ。
相手に警戒心を抱かせることなく、軽やかに懐へ入り込むような温かさがある。
「あ、そうです。黒船を見に来たんです」
僕が返事をすると、二人は岩肌に足を掛けて磯に下りてきた。
旅の道中なのか、女性たちは籠を背負っている。
二人とも肩にかかる長さの黒髪を後ろで束ねていた。
連れの女性より一足先に来た人物が、僕たちの前に立つ。
先程の眼差しを変えず、艶のある前髪を潮風に靡かせて微笑んだ。
「初めまして。私は萩から来た吉田寅次郎といいます。
――今は、吉田松陰と名乗っています」
唾を飲み込む。不思議と手に力が入る。
幕末に来てから、初めて偉人に会った。
僕が会いたいと願った一人だ。
長州藩士 吉田松陰
幕末で数々の人物を世に輩出した私塾「松下村塾」をこれから主宰する人物だ。
教え子たちのなかには、徳川幕府を倒すための討幕を掲げた者が多い。
新たな時代を作るために命を散らした者。新たに生まれた政府で尽力した者。
そのような人物たちを先導した人が目の前にいる。
顔の辺りが熱くなり、足の力は少し抜けていく。
僕の背後から岩と下駄が擦れる音がした。
「初めまして。私はクオンです」
「クオンさんですか。初めまして。
紅い……瞳とは、とてもきれいですね。髪のお色も。
どこの異国から来られたのですか?」
「いいえ。私は日本人です。生まれも育ちも日の本です。血も日本人です」
「これは失礼しました。どうか、浅はかな私をお許しください」
松陰さんは深く頭を下げた。その後でクオンに笑顔を向けて、大きく頷く。
遅れてやってきたもう一人の女性が岩につまずいて、僕の懐へ飛び込んできた。
「わあっ! も、申し訳ございません!」
「あ、いえ……大丈夫ですか?」
柔らかな身体を支えて僕が問いかけると、彼女は目を伏せた。
「は、はい。わ、私は……金子重之輔といいます」
大人しい人柄なのだろう。
彼女は何度も謝罪し、少し垂れた目で瞬きを繰り返す。
その様子を見つつ、自己紹介をする。
「僕はミナトです」
「ミナトさん。お二人は黒船を見られるのは初めてですか?」
小さく首を傾げた松陰さんの背後に、後光が射しているかのように見えた。
太陽があるのは、彼女と反対方向だというのに。
僕の声は微かに震える。
「いえ、黒船を見るのは、もう三回目なんです」
「三回も。ずいぶんと熱心ですね。
私たちも黒船を見に来たんです。私は今回で二度目です」
「そうなんですか。一回目の――」
「げっべえ……ほうのう」
僕の声を遮る音が聞こえた。
言語ではない、波の音に混じる怪音だ。
振り返れば、海の中から磯に歩いてくる大柄な女性がいた。
大きく咳き込んで、痰を磯へ吐き出している。
先程の音は彼女の曖気だったのだろうか。
その人はぴったりと身体に貼りつく肌襦袢に、大きい腰籠を付けていた。
白生地は海水に濡れて、身に纏うものがないのと同じくらいに透けている。
「ミナト様! ダメです! 見てはいけません!」
クオンが僕の前に立ち塞がった。
「み、見てないよ……!」
「いいえ! 見ていました! 私にはわかります!
見ていないふりで見ましたね!?」
「やめてよ! 誤解されるから!」
そう返してみたものの、僕は確かに見てしまった。
太い足と太い腕に、ぶりっと弛んだ腹。
それと……大きい曲線を描く二つのもの。
決して見惚れるようなものではなかったけれど。
目のやり場に困って、ごつごつとした地面を見た。
僕の前にいる金子さんが下を向いて、少し皮が捲れた足の指を撫でている。
それを見たクオンは、懐から取り出した手拭いを裂いて、小さい足の指に巻いていく。
「あ、ありがとうございます」
金子さんが細い声で礼を述べると、背後から少し太く低い声がした。
「おい、あんたら」
先程の女性が近づいてくる。
僕が視線を落としていた間に着替えたのか、桃色の着物を羽織っている。
春とはいえ、海から出てきたばかりで、寒くはないのだろうか。
女性の一重瞼の眼光は鋭い。黒髪を後ろ流し、それは海藻のようにも見える。
右手に持つ腰籠の中に貝類と赤黒い瓶があった。
もう片方の手で黄色い風呂敷を握っている。
「人が話しかけてんだから、すぐに返事しな」
「すみません。どうかされましたか?」
松陰さんが返すと、女性はぎろっと睨みつけた。
「火打ち石と火口はあるかい?」
「ええ、ありますよ」
松陰さんは背負い籠から火打ち石と火口を取り出して、彼女に渡した。
女性は礼も言わず、こちらを睨みつけた後で、ぷいっと顔を背ける。
――態度……悪いな、この人。
僕たちが道中のことなどを話していると、女性は山から拾ってきた枝木を地面に並べる。
小刀で細かく切った木屑に、火打ち石で火口につけた火を移す。
なぜか……僕たちの隣で。
女性は長い息を吹きつけて、火の勢いを高める。もくもくと煙が上がっていく。
木が燃える香ばしい匂いと、生臭い磯の匂いが混じる。
胡座をかく女性は、腰籠から取り出したサザエを焚き火の中に投げ入れた。
「まあ、まあ。いったん、いったんね」
誰に言ったのだろう。
棘々としたウニを十個ほど磯に転がして、その内の一個を小刀で両断した。
指先で身を掬い取り、じゅるじゅると音を立て、ほとんど咀嚼せずに飲み込む。
その様子を見ていた金子さんが、女性に問いかける。
「あ、あの……それって生で食べられるんですか?」
「ほげえ? 生じゃなくて、どうするんだい。
こういうのは焼かなくていいんだ。塩漬けよりもうまいってもんさ」
「塩漬け……生も塩漬けも食べたことないです」
「学べ、学べ、無学者が」
「ご、ごめんなさい……」
「謝るなら地に伏せな! その心は武士に非ず!
この偉大な篠原泰之進を見習え!」
――篠原……泰之進?
僕は反射的に顎を引いた。理由は……わからない。
篠原泰之進
後に新選組や御陵衛士に入る人物だ。
史実と僕の記憶が正しいのであれば、ここに篠原さんはいない。
史実とされることが真実とは思っていないけれど。
立て続けに偉人と会話ができるのか、と少し身が震えた。
篠原さんを偉人と呼べるか……それはわからない。
彼女は風呂敷から火箸を取り出し、焚き火の中にあるサザエの位置を動かす。
その後で、腰籠から一本の赤黒い瓶を取り出した。
幕末ではあまり見ることのない、珍しい品だ。
以前から開港されていた長崎などに行かなければ、手に入らない代物だろう。
なぜ、篠原さんが持っているのか。
僕が疑問に感じていると、誰よりもその瓶に食いついたのは松陰さんだった。
「もしかして、異国の品ですか?」
「ああん? だったら、なにさ。いちいち騒ぐな。
まあ、葡萄酒ってやつだろうね」
「葡萄酒ですか! 聞いたことがあります! どのようにして手に入れたのですか?」
「んん? 拾った、拾った」
指先でウニを掬い、その身を舐める篠原さんは、松陰さんをじっと見た。
二人のやりとりは、どこか歪だ。
身体を見ても同じで、松陰さんは細いし、篠原さんはいろいろと太い。
「どこで拾われたのですか?」
松陰さんの問いかけに、篠原さんは常人の親指ほどありそうな人差し指で示した。
「異人どもは間抜けだな。気づきもしない」
指の先にあったものは……黒船だ。
「黒船に忍び込んだのですか!? それで葡萄酒を盗まれたのですね!?」
目を見開く松陰さんは、篠原さんの前にかがんだ。
眉間に皺を寄せた篠原さんが声を張る。
「あんたね! 人聞きの悪いことを言うな!
異人がワシの美しさに見惚れて、葡萄酒を献上したのさ!」
げらげらと笑い、手に持つ葡萄酒をくるくると回す。
瓶の注ぎ口は、黒い蝋で封印されている。
しばらく眺めた彼女は、小刀を使って蝋を削り、指先でばりばりと剥がす。
再び動きが止まった。注ぎ口はコルクで留められている。
「なんだい、これ。どうやって飲むんだ」
「ワインオープナーを使わないと抜けないですよ」
僕は己の立場も時代のことも考えず、何気なく言ってしまった。
「はがあ? なんだい、それは。エゲレス語か?
あんた、葡萄酒のことを知ってんのかい」
こちらを睨む篠原さんから逃げるように、僕は目を伏せた。
「あ……えっと、前に見たことがあって」
「どうやって抜くんだよ。答えな、早く答えな」
「その栓を抜くための……専用の道具が必要です」
「ないだろ。見りゃわかんだろ。バカか、あんた。他にやり方があんなら教えな」
「そうですね……瓶の中に栓を落とすとか。
ただ、そのまま落とすと、瓶の中で栓が浮いて注ぎ口を塞ぐかもしれません」
「そんなら、どうすんだい」
「コルクを――」
ふと視線を感じて隣を見ると、松陰さんが微笑んでいた。
静かに。黙って。ただ、こちらに目を向けている。
胸が高鳴っていく。僕は目を逸らし、篠原さんを見た。
彼女は葡萄酒の口を覗き込む。
瓶を斜めに傾け、眉間に皺を寄せて、注ぎ口に小指を突き立てた。
「ふんっ……!」
無理だ。固く留められたコルクを指で押し込めるわけがない。
屈強な男であっても、それは変わらない。まして、一番力の弱い小指だ。
「篠原さん、そんなことしても――」
僕が言いかけたときだ。
コルクは下に向かって動く。ずずず、と。小指が入るところまで簡単に。
「ふう、そこまで固くなかったな」
ありえない。どんな指の力をしているんだ。
人間……じゃない。
篠原さんは焚き火の傍らに置いてある火箸を手にして、コルクをさらに押し込む。
「ふんがっ……!」
軽やかな音を立て、コルクは瓶の中に落ちた。
「火箸で押さえれば飲めんだろ」
そう言って、鋭い目で僕を睨みつけた。
怪物だ。指先の力も。握力も。
火箸を素手で握っても、普通なら滑って力が入らないだろう。
僕が動揺していると、松陰さんは明るい声で彼女に告げた。
「篠原さん。私たちにも葡萄酒を分けていただけませんか?」
「はがあ? なんで分けないといけないのさ。
ワシが盗んだ物なんだから、ワシの物だ。欲しがるな、欲しがるな」
――言っちゃったよ、盗んだって。
「火打ち石と火口を貸したのは私です」
「黙りな。関係ない話を持ち出すな。分けてほしいなら一人、五両だ」
四人いるから合わせて二十両か。換算すれば、二百四十万ほどだ。
冗談で言っている……いや、目は鋭いままだ。
「申し訳ありませんが、金子はありません。
私が道具を貸したから、あなたは新鮮な焼きサザエを食べられますよね。
どうか、葡萄酒を分けてください」
「黙りな、俗物。話を変えるんじゃないよ」
「みんなで飲みましょうよ!
一人で飲むより、みんなと分け合う酒は格別です!
葡萄酒! 異国の味! みんなで楽しみましょう!」
手を打ち鳴らす、その姿。腹黒さなど微塵もない、明るい笑顔だ。
まるで、子どもが未知なるものを見つけたかのような興奮が含まれている。
「そういうことでしたら、私が払います」
クオンは帯の間から桜色の巾着を取り出して、小さな二分金を一枚見せた。
「五両だって言ったろ! 話を聞きな! 話を!」
――クオン……お金に余裕はないよ。
彼女が出した二分金は、六万円ほどの価値がある。
僕たちが始めた薬売りは軌道に乗っているけれど、あまり無駄遣いはしたくない。
クオンの黒い下駄が磯を擦る。
「一人、一杯ずつで、二分金を得られるなら十分だと思います」
「そんなら最低でも三両は出しな」
「これ以上は払えません」
「払いな! すぐに払いな!」
「二分金は大金です」
二人の間で何度も交渉が交わされた。
見つめるクオン。睨み返す篠原さん。
一触即発の雰囲気がある。
沈黙の時が過ぎた。
篠原さんは和紙を丸めたかのように顔を歪め、大きな舌打ちをする。
「ちっ……その金で手を打ってやる。それと火打ち石と火口は貰うからな。
葡萄酒は一杯ずつだ。それ以上は欲しがるなよ」
「ありがとうございます」
クオンが礼を言うと、篠原さんは全員に目を向けた。
「それと、篠原泰之進に分け与えてもらったことを生涯忘れるなよ。
しっかりと書き留めておきな。いいな、必ず書け。
親兄弟にも話して、辞世にもそれとなく入れな。
ワシのことを家訓にしたって構わんよ」
松陰さんと金子さんは、背負い籠から湯呑みと茶碗を出す。
僕とクオンにそれらを貸してくれて、篠原さんにも渡す。
淡い赤みのある葡萄酒が、湯呑みと茶碗に注がれていく。
トクトク、トク。トクトク、トク。
互いに目を合わせ、湯呑みと茶碗を軽く上げた。
僕はみんなの様子を窺う。
葡萄酒の香りを鼻で吸い上げ、茶碗の縁に唇を付ける松陰さん。
両の手で持つ茶碗を恐る恐る傾けて、静かに飲む金子さん。
ごくごくと喉を鳴らし、味わうことなく一気飲みする篠原さん。
「くっ……わい! なんだい、これは! 思ったよりも甘いな!」
篠原さんは目を見開いた。
「甘くて……独特の風味がしますね」
そう言った松陰さんが、さらに一口飲む。
金子さんは目を閉じていたが、ぱっと瞼を開けると、僕を見て微笑んだ。
「うう……喉が痛いです。で、でも、甘くておいしいですね」
僕とクオンも葡萄酒を飲む。
それは今まで飲んだ物より甘く、アルコール度数が高い。
その味を少し訝しみ、鼻の前で湯呑みを揺らす。
クオンは松陰さんと金子さんの様子を窺うように見た後で、僕の耳に手を添えた。
他の人に聞かれないように潜めた声と、彼女の吐息が耳元にかかる。
「長い航海に耐えられるようにしてあります。
若く甘いワインに、アルコール度数の高いブランデーを混ぜているのです」
だから、普通の葡萄酒よりも喉が焼けるような熱さを持っているのか。
ブランデーのアルコールで葡萄酒の発酵を止めて、ワインビネガーにならないように。
こういう話の一つ一つで保存技術の工夫がわかる。
保存に限ったことではない。異国のみならず、日本の食への執念も凄まじい。
飢饉を生き抜くために血の滲む……いや、まさに生死をかけた工夫が凝らされている。
そのまま食べたら激痛を伴う蒟蒻芋。猛毒を持つフグの卵巣。
胃酸と混ざれば青酸となる青梅もそうだ。
先人たちは経験則と紆余曲折を経て、安全な食べ物へと昇華させた。
未来を生きる僕たちは、それらを気にすることなく口にしている。
「はわあ……甘いですねえ」
のんびりとした声を出す金子さんの目尻は垂れている。
篠原さんはウニをじゅるじゅると吸い上げ、葡萄酒で流し込む。
「う、うげえ……これはまずい。
臭い、臭い。臭いぞ、これは。葡萄酒とウニはダメだな」
そう言って、上唇を鼻の先に押しつけた。
その歪んだ顔とは違い、真剣な表情の松陰さんは独り言のように呟く。
「これが西洋の味……ですか」
彼女は急に立ち上がって、黒船を真っ直ぐに見つめる。
淀みのない眼差しで前に歩み、そして声を放った。
「私は黒船に乗り込みます」
その声は焚き火より、葡萄酒が喉を焼く熱さより、何よりも熱い。
異国船に乗り込めば、死罪の可能性がある。
振り返った彼女の顔は、そのようなことを一切恐れているようには見えない。
「危ないですよ」
僕が松陰さんに言うと、彼女の黒髪はさらりと揺れた。
「元々、私たちは黒船を見に来たのではありません。
黒船へ乗り込むために来たのです。篠原さんに先を越されてしまいましたけど」
「あいつら、けっこうザルだぞ。侍相手には無理でもメリケン人なら簡単だ。
奥の部屋でうまそうなもんも食ってた。あれは塊の肉だろうな」
篠原さんは焚き火の中からサザエを取り出して、お手玉のように両の手で投げ合う。
それを見て微かに笑う松陰さんが、僕たちを見つめた。
「御三方はご存知ですか、先の日米和親条約の中身を」
僕は唾を飲み込んでから答える。
「はい、すべてではないですけど……。
領事の駐在、遭難者の保護、補給のための寄港、両国による品物の売買ですよね」
「そのとおりです。今、ミナトさんがおっしゃった条約内容は問題ありません。
補給にしろ、売買にしろ、自国の物を売れば民は潤いますから」
彼女は少し目を伏せた。
「ですが、一つ大きな懸念があります。
他国と有利な条約を結べば、メリケンにも適用される、という一文です。
まるで、人の太刀で功名するようなものです」
再び黒船に目を向けた彼女が続ける。
「私は黒船に乗り込みます。そして……メリケンまで行きます」
一歩前に踏み出す。その背中を僕は見つめる。
後に幕末を駆け抜ける志士たちの原動力となる女性は、大きく両の手を広げた。
「この目で異国を見たいです。どのような場所なのでしょうか。
この耳で聞いてみたいです。己の肌で感じてみたいです。
そして……異国の脅威にさらされる日本を守りたいのです。
――なによりも美しい、この日の本を」
長州藩の吉田松陰。
彼女は誰よりも気高く、誰よりも熱く、誰よりも誠実な心を持っているように見えた。
出会って間もない彼女の心に、僕はとても惹かれている。




