吉田松陰 1
「ひっ……!」
思わず叫んでしまった。
多くの人が行き交う江戸の町の中で、僕は震える。
目の前の女性は笑顔のまま続けた。
「どうしたんだい、そんなに驚いて。
ね、男前のお兄さん。うちで食べていってよ」
接客するときの愛想笑いとは、未来でも幕末でも同じだった。
僕が驚愕したのは、声をかけてきた女性の口元だ。
口角が上がり、顔の中で妖しく光ったもの。
真っ黒な歯だ。漆のような光沢がある。
すべての歯が……黒い。
「ご、ごめんなさい……」
「ええ? お兄さん、少しくらい食べていってよ」
「ひっ……」
明るい口調とは対照的な黒い歯だ。さらに眉毛も無い。
――臭い……。腐ってる……歯が腐ってる。
「ごめんなさい……許してください」
深く頭を下げる。なるべく相手の神経を逆撫でしないように。
恐る恐る顔を上げれば、変わらない女性の笑みがあった。
――ダメだ……腐ってる……。
「ミナト様。会話になっていませんよ」
薄紅の下地に、白い縞模様の着物を纏うクオンが僕を見つめる。
幼き頃から見慣れた彼女の紅い瞳と銀髪が、少しだけ心を落ち着かせてくれた。
しかし……。
僕は藍色の着流しから足を出して、逃げ出す。恐怖と臭気に耐えられそうにない。
「待ってください、ミナト様。あの女性に失礼ですよ」
背に当たるクオンの声を無視し、歩みを進める。
女性がいた店から大きく離れて、相変わらず綺麗な顔立ちのクオンに言う。
「歯が真っ黒だった。あれ……伝染るかも。すごい臭いもしたよ」
「伝染りません、大丈夫です」
「飛沫感染するかもしれないよ」
クオンの白い肌に映える、桃色の唇が動く。
「お歯黒です」
「お歯黒? そうか……あれが、そうなんだ……」
「はい。既婚女性の証です」
幕末の歴史などは、幼い頃からクオンに詳しく教えてもらっている。
史実とされることや通説など、違和感があれば議論していた。
実際に当時の文化に触れてみれば、すんなりと受け入れられないとわかった。
知識として知っていても、やはり現実で向き合うことは違う。
「お歯黒は立派な文化なのです。
ミナト様には江戸時代の生活様式について、詳しく教えませんでしたね」
「まあ……生活様式には、あまり興味がなかったから。子どもだったし」
「それでは幕末の生活様式も学びましょう」
「うん。お願いします」
「お歯黒は人妻であることの象徴です。
諸説ありますが、夫以外の色には染まりません、という意味が込められているのです。
それ以外にも子ども時代は終わり、という象徴でももあります」
「そうなんだ。でもさ、少しは腐ってるの?」
「腐っていません。それはミナト様の想像に過ぎません。
思い込みなのです。お歯黒は歯を保護します」
「そんなふうには見えないけど」
「お歯黒のタンニン鉄というものが、口内の酸などから歯を守ってくれます。
タンニンには殺菌作用があるので、口内の雑菌の繁殖を抑えます」
「タンニン鉄って口に入れていいの?
昔は毒物の認識がなかったりもするよね。遊女さんが塗る白粉とかさ」
「タンニン鉄は特に問題ありません。自然と体外へ排出されます」
小さく咳払いする彼女は、瞼を一度閉じてから話を続けた。
「まず、酢などに鉄くずを数箇月漬けます。
これによって、かね水というものができます。その液体を歯に塗ります」
「ええ……そんなの塗りたくないよ」
「いいえ、塗ります。ぬるぬる塗ります。筆で歯を丁寧に愛でます。
次にヌルデという植物の葉のコブを乾燥させた五倍子粉を歯に塗ります」
「ちょっと待ってよ……どんな経緯があったら、それを塗ろうと思うのさ」
「そこを紐解くことが、生活様式のおもしろいところでもあります。
今お話した二つを塗ると、化学反応によりタンニン鉄となります」
「それが……お歯黒なんだね」
「おっしゃるとおりです。
ミナト様が臭いと感じたということは、塗りたてだったのだと思います。
基本的に塗る前は臭いですが、塗った後の臭いは落ち着くはずです」
クオンが隣に並ぶ。先程の臭いを消し去るように、優しい香りが僕を包む。
子どもの頃から変わらない、果実のような甘い香りが僕は好きだ。
さらに歩いていくと、前から歩いてくる女性と目が合い、少しだけ身構える。
それは当然だ。こちらを見る目が鋭い。
僕は声を潜めて、クオンに問いかける。
「ねえ、また眉毛の無い女の人だよ。もしかして、あれも文化なの?」
「はい。引き眉というものです」
「引き眉……クオンの授業で聞いたことがあるかも」
「眉毛を剃り落とすことで、落ち着いた女性であると示すのです。
出産した女性や結婚後数年を経た女性が施す美容ですね」
「へー、そうなんだ。落ち着いているというか威圧感があるよ」
斜め前の茶屋で愛想良く客引きをする、十代後半の女の子の姿があった。
白い歯に自前の柔らかそうな眉毛が生えている。
「クオン、見てみなよ。
僕は断然、あの子みたいな感じがいい。威圧感なんて皆無だよ」
隣から声は聞こえない。ちらりと見ると、彼女は茶屋の娘に目を向けていた。
「ミナト様。それは……どういう意味でしょうか」
「明るくて優しい、愛嬌のある子がいいでしょ。多くの男の人がそうだと思う」
「そうですか」
「強面な人は好かれないと思うよ」
「それは私がいつも不貞腐れているということでしょうか。
仏頂面ということでしょうか。どうなのですか?」
「そ、そんなこと言ってないよ」
「ミナト様には私がそのように見えている、という解釈でよろしいですか?
お答えください。淡々と、簡潔に」
クオンの紅い瞳が濃くなったような気がした。
「違うよ。そんなこと思ってないよ」
「その焦り方が怪しいです。私の目は誤魔化せません。真実を見抜きます。
私のことを遠回しに蔑んでいるのですね!?」
クオンは急に激怒する。時々あることだ。
「思ってないって。大声を出さないでよ」
「看板娘を見て惚れ惚れとしていたのは、どういうおつもりですか!」
彼女の怒声に、道行く江戸の人々が振り返る。
クオンは紅い瞳と銀髪という特徴的な外見だ。
日本人である彼女が異人と勘違いされて、好奇の目を向けられる。
この時代では当然だろう。
幕末にタイムトラベルしてから二日目だが、クオンに話しかけてくる人も少なくない。
少し意外だった。みんな積極的だ。
恐る恐るといった者もいるけれど、多くの人が笑顔で話しかけてくる。
島国である日本。そこに住む日本人の確かな好奇心が存在していた。
「落ち着いてよ。クオンのことを悪く言ったわけじゃないから」
「ですが……ですが……。
可愛げがないと……そう言いたいのですよね?」
少しばかり潤む目がこちらに向けられる。
熱した鉄鍋に、水を落とすような急激な感情の変化だ。
「違うよ。そんなこと思ってないから」
「もうダメです! これはダメです! 私はどうしたらよいのですか!?」
彼女の両の手は握りこぶしに変わった。紅い瞳で、ちらちらと周囲を確認する。
見世物となることを気にしている……おそらく違う。
同情を集めようとしている……これも違うだろう。
未来にいるときもそうだ。意図的にやっているように感じることも多い。
何と言葉を返そうかと考え、さらにクオンの肩に触れようと手を伸ばした瞬間だ。
彼女は僕の背後を見据えた。
「ミナト様、下がってください」
クオンの声が急に張り詰めた。
取り乱していた表情は、三味線の弦を断ち切るように変わる。
彼女に腕を引かれ、人々の往来の隙間から店先に押し込まれた。
クオンの視線を追う。刀を帯びる数人の男性が、大通りを闊歩してくる。
近くまで来ると、彼らは僕たちを睨みつけた。
まるで、目で相手を殺すかのように。
瞬きをしないことこそが最大の威嚇になる、といったように。
身体が少し震える。
異人と間違われそうなクオンが心配になって、彼女の腕を振り切り前に出た。
しかし……。
予想に反し、彼らはすぐに談笑へと戻り、僕たちの前を通過していった。
肩の力が、すっと抜ける。
考えてみれば、当然かもしれない。
幕末といえば攘夷と称して異人は斬り殺される、というのは妄信だ。
作り話を信じる者もいるけれど、現実にそのようなことは頻発しない。
毎日のように異人を斬り殺していたら、外交問題になる。
明らかな不敬さえ働かなければ、武士が無闇に人を傷つけることはない。
刀を安易に抜かぬことを誇りにする武士もいるのだから。
僕は長めの息を吐いた。
「ガラの悪い……人たちだったね」
「はい。ミナト様に危害が及ばず、よかったです」
彼女はいつも僕の心配をする。何よりも優先する。
僕は少し苦手だ。クオンがいつでも守ろうとしてくることが。
彼女は普通の女の子と変わらない、というのに。
人工生命体とはいっても、心も身体も人間と同様で、食事も摂るし生理現象もある。
未来でも、彼女が人工生命体であると見抜ける者は多くない。
「先程の方たちは訛り、風貌、言動から推測するに、水戸藩士であると思います」
「水戸藩……か」
まだ誰も知らない。
徳川幕府の実質的な頭である大老の井伊直弼らが志を持つ者たちを処罰、処刑する。
安政の大獄。
そして、水戸藩を脱藩した者たちと薩摩藩を脱藩した者が井伊直弼を暗殺する。
桜田門外の変。
この血に濡れた連鎖が、幕府を潰すための「討幕」という狼煙になる。
「ミナト様。女の子を見てばかりではダメです。
これは幕末の観測なのですから」
クオンは笑みをこぼす。怒りを収めてくれたのだろうか。
僕は視線を落とす。先程、彼女の肩に触れようとした手が小刻みに震えていた。
水戸藩士が現れず、時が流れたとしても、僕が掴むのは空気のみだったと思う。
いつも……そうだ。昔から変わっていない。僕の手は臆病者の象徴だ。
クオンに視線を戻すと、今も変わらずに微笑んでいる。
彼女も幕末に来ることを楽しみにしていた。
「ミナト様、行きましょう」
「うん」
僕たちは幕末の人々が行き交う道を歩み始めた。




