序章
間に合った。戦場には真っ赤な桜が咲いている。
山の中を駆けてきた僕は荒い息を吐き出す。
隣から鋭い金属音がした。
撃鉄を起こすクオンの銀髪が揺れる。
スペンサー銃の鈍く光る銃身に頬を寄せ、紅い瞳で狙いを定めた。
「鎮台の兵士、射程内です」
目を細めたクオンが小さく息を吸う。
僕は斜面の中腹から平地を見下ろす。
一つの軍と少数の者たちが、命の奪い合いをしている。
濃紺の軍服を纏う者たち。くたびれた着物で戦う者たち。
小袖に袴姿で刀を振るう者たち。
三者の色が泥の上を駆けている。
先程まで戦場には銃声が響いていた。
平地で刃を振るう女性に向けて、クオンは祈るように呟く。
「どうか、前だけを見て……駆け抜けてください」
細く白い指先で引き金を絞る。
大地を叩き割るような銃声が轟く。
白い花が細かくあしらわれた牡丹色の着物を纏う細い身体は、射撃の反動で揺れた。
鼻を突く強烈な硝煙の匂い。雨上がりの山の香り。
黒色火薬の白煙が視界を塞ぎ、クオンは横に移動しながら同じ動作を繰り返す。
レバーを引き下げ、空薬莢が飛ぶ。手元に引き戻すと、薬室に銃弾が装填される。
無駄のない動作で撃鉄を起こし、引き金を引く。
スペンサー弾は、敵の肉ではなく、雨上がりのぬかるんだ地面を大きく抉る。
着弾のたび、水溜まりを勢いよく踏みつけたように泥が弾けた。
刀を振り上げる敵兵の顔に泥が飛び散り、彼らの視界を奪う。
その一瞬の怯んだ隙を見逃さず、平地に立つ一人の女性が腰を落とす。
そして……刀を鞘に納めた。
身を低くしたまま、敵に向かって走り出す。
女性が、ちらりと僕たちのほうを見た気がした。
戦場を駆ける彼女の小袖にあしらわれた桜の花は、真っ赤に染まっている。
汚れなき刃を見せてほしい。その生き様を見せてほしい。最後まで貫いてほしい。
――仇を……取ってください。
僕はそう願った。
けれど……。
平地にいる敵兵の十人ほどが、山の斜面を駆け上ってくる。
「退こう、クオン」
細く白い手を掴んで走り出そうとしたが、ぬかるんだ地面に僕の足は取られた。
体勢を崩した僕の腕をクオンが掴み返し、優しく微笑む。
「おケガはありませんか、ミナト様」
「うん、ありがとう。早く行こう」
その瞬間、少し離れた木々の隙間から二人の男が飛び出してきた。
濃紺の軍服姿。おそらく山に潜んでいた偵察の者たちだ。
刀を顔の横に押しつけるように構え、叫び声と共に駆けてくる。
「クオン! 下がって!」
僕は声を張った。
村の寺子屋に似合わぬ、道場の隅に残されていた無骨な刀を抜く。
「ミナト様! 薬丸自顕流です!」
「わかってる! クオンは先に逃げて!」
背後ではクオンが枝木を踏みつけて、後ずさる音がした。
前方からは、上半身を杭で打ち止めたような不気味な走り方で、兵士たちが迫ってくる。
「きえええい……!」
薩摩の者が気合を放つときの猿叫が、山の中に響く。
僕は腰を落とし、刀の柄を握りしめて敵を待ち構える。
一瞬、喉の奥が重くなった。
大丈夫だ。恐れることはない。見ればわかる。
眼前の二人が、あの人たちより強いなんてことはない。
僕が知る偉人たちは、稽古のときに対峙するだけで、生きた心地がしなかったのだから。
奥歯を噛みしめて、鼻から息を吸う。
枝葉から滴り落ちる雨粒の音と共に、透き通る声が蘇った。
子どもたちの声があふれる寺子屋の庭で、剣術の指南を受けたときのことを。
『流したときに相手の首を落としてください』
――それができたら、命を奪う刃を振るえたら……楽かもしれません。
一人の兵士が僕の間合いに入った。
蜻蛉の構えから、湿気で白く曇った刃を振り下ろしてくる。
「けっええい……!」
刃が風を切り裂く。白刃が触れ合う。
鹿威しが落ちるように刀で受け流し、斜め前に踏み込む。
すぐに相手の脇腹を蹴飛ばす。肉の沈み込む感触が草鞋の足裏から伝わる。
敵兵は山の斜面を滑り落ちて、背を木に打ちつけた。
もう一人の兵士が踏み込み、新たな刃が迫る。
一撃目を躱すと、間髪あけずに二撃目の切り上げが繰り出された。
「きっえええい!」
上体を逸らして避ける。鋒が髪の毛を掠めた。
相手は間合いを潰すために突っ込んでくる。
刃の衝突。力任せの鍔迫り合い。拳骨がぶつかり、骨が砕けそうになる。
すぐに離れ、互いに刀を構え直す。
僕は脇構えで間合いをじりじりと詰める。
蜻蛉の構えの兵士が、血走った目で腰を落とす。
荒い呼吸。揺れる肩。睨み合う瞳。
二人の息が合わさるかのようだ。
大地を蹴り、勢いよく踏み込む。
濡れた風の中で刃が火花を散らし、互いにすり抜ける。
再び向かい合う僕たちは、なぜか……微かに、微かに、口元を上げた。
*
書物を開いて、小さな溜め息を漏らす。
あの時代。あの日。あの戦。
名も無き兵士と僕は刃を交えた。
そこに生まれた僅かな火花など、日本の正史を照らすはずもない。
あの戦は……抹消されていた。
日本が揺れ動いた幕末と明治。
歴史に名を残す偉人の女武士たちは、己の道を駆け抜けた。
討幕派、佐幕派に関わらず、女性の名は捨て、武士としての名を掲げていた。
その中の一人。
血と泥にまみれた戦場で桜模様の小袖を翻し、刃を振るい、己の道を貫いた人がいる。
彼女が明治政府に立ち向かった事実は、公的な書物には記されていない。
たったの一行も。一つも見当たらない。
歴史に残されているのは、討死でも誅伐でもなく「斬首」という文字だった。
明治政府は、真実が明るみになることを恐れた。
幕末で名を馳せた一人の女武士が義を掲げ、政府に立ち向かったことを。
そして……もう一人。
維新志士として、明治政府の中核を担っていた女性が謀反を起こしたという事実を。
未来人である僕と人工生命体のクオン。
観測者である僕たちの目には、偉人である彼女たちの生き様が焼きついている。
春の道を彩る桜のように美しく、誰も知らぬところで散る夜桜のように儚かった。
これは僕たちが見てきた、幕末から明治にかけての記録だ。




