藤堂平助 6
*
その日、クオンは朝から元気がなかった。
食事をしているときも。洗濯をしているときも。和歌を詠んでいるときも。
ゴンさんの妻であるツネさんが、駆け込み寺のように僕たちの家へ来たときでさえも。
駆け込み寺とは言っても、いつも暴力によって抑え込まれるのは夫であるゴンさんだ。
以前、夫婦喧嘩で重傷を負った彼を見て、肝が冷えた。
喧嘩の延長だったのだろう。
ツネさんが脅しのために振り回した鍬は、手元が狂ったことでゴンさんの腹の肉を抉った。
泣きながら僕たちを呼びに来たツネさんと共に家に向かう。
そこにいた血だらけのゴンさんは、意識が朦朧としていた。
助けなければ、このままでは死んでしまう。
僕とクオンは、ゴンさんの手足を太い縄で縛り上げた。
抗生物質も麻酔も当然ない。
焼酎を消毒代わりに使い、傷口に吹きつける。
暴れるゴンさんの身体を僕は押さえつけた。
クオンは裁縫用の針と糸で、血に濡れる腹の傷口を縫い合わせる。
三日三晩、高熱にうなされたゴンさんは何とか一命を取りとめた。
必死だった。日頃からお世話になって、心を通わせている人を助けたい。
その時の僕とクオンは、一つのことが抜け落ちていたのかもしれない。
生死不介入。
僕は後で死刑を覚悟したけれど、特に大きな咎めはなかった。
一般人であるゴンさんを助けても、未来で担当者から小言を言われるだけで済んだ。
けれど、偉人に対して生死介入すれば、刑罰……死刑は免れないだろう。
『そんなにゴンさんが憎いのであれば、鍬で頭を割ることが最善です。
家を荒らし、金品を盗み、盗賊の仕業に見せかけてください。
他の者に金子を払い、お上に嘘の証言をさせてください。
しっかりと示し合わせてから向かわないと怪しまれます』
今日のクオンはツネさんに対して、普段とは真逆の態度を取り、とても冷たかった。
当のツネさんは話を聞いてもらいたいだけで、本気でゴンさんを憎んではいない。
一種の愛情表現のようなもので、嫌っているようにみせて、気を引こうとしている。
そのようなことはクオンもわかっていた。知っていながら相談に乗っている。
普段はとても親身になって話を聞いているというのに、今日の彼女は様子が変だ。
「どうしたの。手が止まってるよ」
「はい……申し訳ございません」
夕げの準備で沢庵を切る彼女の手はゆっくりだ。
「坂本さんの……こと?」
「いえ……」
稔麿ちゃんが亡くなってから、僕は未来で偉人の明確な死亡日を調べていない。
クオンは意識しないようにしているのか、考えないようにしているのか。
それとも頭に浮かぶ数字を掻き消しているのか。
どちらにしても、僕たちは話し合い、没年月日を口にすることはなかった。
以蔵ちゃんのときは、彼女に会いに行きたいという想いから、縛りをほどいたけれど。
そして……タイムトラベルの緊急メンテナンスによって、会うことは叶わなかった。
幕末の人たちと僕たちの交流。
互いのために、死を強く意識することはやめようとクオンと話した。
助けたい想いや助けられぬことへの罪悪感に心が支配されてしまう。
しかし……僕はわかっていた。
先日、坂本さんが亡くなったという事実がある。
そして、新たな文字が頭の中に現れる。
背後まで迫った死神の足音は、確かに聞こえていた。
「油小路のことだよね」
沢庵を切る音に僕の声を紛れこませた。
「新選組が御陵衛士を粛清する油小路事件。
それが起こるのは、坂本さんの死と近かったと思う」
まな板に視線を落とすクオンは黙っている。
「油小路事件は……いつ起こるの?」
彼女の息を吸う音が耳に入る。
「坂本龍馬が亡くなって……頭に浮かんでしまいます。
油小路事件は……今日です。申し訳ございません」
僕たちと交流のある人が京の路地で戦い、数人が亡くなる。
そこには……一人の女の子が確かにいる。
「謝らないでよ。坂本さんが亡くなったと聞いて……僕もすぐに気づいたから」
かまどの上で、ぐつぐつと汁物が煮える。
視界を奪うように白く上がる湯気は、冷え込む冬の夜をよく表していた。
僕とクオンは正面で向かい合い、夕げを食べ進める。
箸が器に当たり、寂しい音が座敷に響く。
いつものような楽しい会話も軽口もない。ただ黙々とご飯を口に運んだ。
夕げを済ませた僕たちは、居間で背を向け合っていた。
僕は天井に顔を向けて寝転び、隣をちらりと見る。
桃色の着物には白い花が浮かぶ。
クオンは文机の前で墨を擦り、その後ろ姿は普段の真っ直ぐな背筋とは違っていた。
一つ考える。それは二つ、三つと増えていく。
今までも考えていた。考えないことはなかった。
そのたびに想いを強く握り、丸めて……丸めて、胸の奥に隠した。
押し込んだ心の中を開けて、それが雪崩のように勢いがあるかといえば、そうではない。
偉人さんたちの志は綺麗な丸い玉だった。
だからこそ、心に入る前に、その色と、その輝きを……。
「クオン」
「なんでしょうか」
クオンは墨を擦る手を止めた。
正座を維持したまま、手と膝を畳に擦りつけて、こちらを向く。
僕は身体を起こし、彼女を見つめた。
「行こう」
「え……」
「油小路へ行こう」
「いけません。とても危険です」
「うん、わかってる。新選組と御陵衛士の斬り合いの場だ」
「動けば……生死介入になります」
「それも……わかってる。
それも含めて、どうなるか……わからない。
でもさ……クオンは行きたいんじゃないの?」
クオンは視線を畳に落とし、頭を少し垂らした。
「僕は行きたい。今まで……助けられないからって自分に言い聞かせてきた。
生死不介入があるから……って、抑え込んでいた」
初めからそうだった。
みんなのことを助けたかった。心を通わせる大切な人たちを助けたかった。
誰一人……死んでほしくなかった。
しかし、僕が安易に止めること自体が不義に値する人たちもいた。
死を止められることを望まぬ人たちがいた。
彼女たちは自らの死をもって、次の者たちへ、次の時代へ志を託していた。
「助けたかったよ、みんなのこと。離れたくなかったよ、みんなと。
以蔵ちゃんとも……会って話したかった」
「はい……」
「クオンには死刑になってほしくないし、僕がさせない。
でもさ……もう目を逸らしたくないっていう想いもあるんだ」
生死介入になったとしても、クオンのことだけは守る。
自身の独断によって進めたことだと主張すれば、何とかなるかもしれない。
どのような手を使っても……彼女のことは守る。
深く息を吸い込んで、クオンを見る。
「自分が動くべきと思っていることから、逃げ出したくないんだ。
みんな立ち向かっていた。偉人さんたちは……己の道を貫いていたから」
「はい……」
一人の笑顔が頭の中に現れる。
新選組から御陵衛士に移った女の子だ。
いつでも笑っている女の子だ。
今夜起こる油小路事件で……彼女は命を落とす。
「平助ちゃんは、なにがあっても戦うと思う。
僕たちが行ったとしても、どうなるかわからない。
クオンは……どうしたい?」
「私は……」
膝の上に揃えたクオンの手は震えている。
「私は……」
「本音で言って大丈夫だよ」
「お礼を……お礼を言いたいです」
その言葉と共に顔を上げた。紅い瞳には涙が滲んでいる。
「一緒に過ごせたこと、話せたこと……私は平助ちゃんに、お礼を言いたいです」
「行こう。ちゃんと僕たちの想いを伝えようよ」
僕たちはすぐに身支度を整えて家から出た。
もうすぐ今年が終わるということを白く濃い吐息が教えてくれる。
提灯を片手に夜道を走り、荒れた道では足を取られないように早歩きで進んでいく。
「クオン、大丈夫?」
「はい、問題ありません。次の角を左です。そのまま二つの辻を通り過ぎて、右です」
逸る気持ちが足を前に押し出し、大きめの石を踏んでも気にならないほどだ。
左手で腰に差した稔麿ちゃんの脇差を握りしめる。
「ごふ……ごほ……」
人の咳き込む音が聞こえた。自身の少し荒い呼吸音より遥かに大きい。
足を止めて、提灯の灯りを前方に照らし、目を凝らす。
暗闇の中で人が動く。ゆっくり。ゆっくり、と。
外壁に身体を押しつけ、不確かな足取りで前に進んでいる。
僕たちが様子を窺いながら近づくと、その人物は振り向きざまに刀に手を掛けた。
「大丈夫……ですか?」
僕が声をかけても相手の警戒態勢は変わらない。
息切れしているのか、荒い呼吸音も聞こえる。
顔は見えない。水色……淡い青の着物だけが認識できた。
さらに近づき、声をかける。
「僕たちは怪しい者ではありません。あの……具合が悪いんですか?」
「その声……もしかして……ミナトさんですか?」
提灯で上部を照らす。知っている顔だった。
綺麗な二重瞼が弱々しく下がっている。
新選組 一番組の組長 沖田総司。
「総司さん、どうしたんですか。その身体で……」
僕の声と同時に総司さんの元に駆け寄ったクオンは、彼女の背を優しく撫でる。
空気を巻き込むような息をする総司さんが、僕たちに言う。
「お二人とも奇遇ですね……ですが、今は行かないといけなくて……」
一つの鈴を転がすような、透明感のある以前の声とは違っていた。
張り詰めた生糸が、ぷつりと切れたようにも聞こえる。
ここは新選組の屯所が移転した場所から遠くない。
総司さんがいても不思議ではない。けれど、今の彼女がこの場にいるのはおかしかった。
僕は総司さんの顔を覗き込んで、問いかける。
「どこに行くんですか?」
――動けるような……状態には見えない。
彼女は微かに笑い、答えてくれた。
「おバカな友を……助けに行かないといけなくて」
平助ちゃんのことだ。
やはり……もうすぐなのか。
油小路は新選組の新しい屯所から近い。
さらに局長である近藤勇さんの邸宅からも近いと、クオンの授業で聞いたことがある。
徒歩で数分。走れば、あっという間だ。
「先程、屯所から出た隊士たちが……配置につきました。
御陵衛士が来れば……始まります。助けに行かないと……」
総司さんの弱々しい声で、胸が痛む。
彼女は高杉さんと同じように、この時代における不治の病、労咳に冒されていた。
何度も咳き込むのは、それが原因だろう。
「今のお身体で戦いの場に身を置くのは……とても危ういです」
クオンが彼女の背を撫でて言った。
総司さんの顔は一瞬強張ったが、すぐに笑みへと変わる。
「わかっています。この身体は……もう……。
ですが……おバカさんは私が行って止めてあげない……と。
まだ戦えます……私は刃を振るえるんです。
それに……気になることもあります」
提灯の灯りであっても、総司さんの白い肌から血の気が引いていることがわかる。
「物乞いの女が……来たんです」
その言葉に、僕の身体は微かに震えた。
以蔵ちゃんが助けてくれた路地での出来事が頭に浮かぶ。
民衆が踊り狂うときに、屋根の上から紙を散らしていた人物を思い出す。
その姿が、嫌でも頭の中に現れる。
僕は総司さんに恐る恐る尋ねた。
「物乞いって……どのような人ですか。
もしかすると、僕も同じ人を見たことがあるかもしれません」
「あれは……ただの……物乞いではありません」
「普通の人とは雰囲気の違う……黒い着物と黒い手拭いを被っている人ですか?」
「おそらく……その人です。ミナトさんの前にも現れましたか……。
昔、芹沢さんから聞いたことがあります。
物乞い……彼女のことを『黒き物乞い』と……」
――芹沢さんも……会っていたのか。
――黒き物乞い。
「同じ人であれば、僕たちも会ったことがあります。
その人が……新選組に来たんですか?」
「ええ……少し前、門番に文を渡しているところを見かけました。
追いかけたのですが、この身体では……どうも。
――その文は……土方副長へ宛てたものです」
話を続ける彼女の呼吸は弱くもありつつ、荒くもある。
「文には……御陵衛士の伊東さんが近藤先生の暗殺を企んでいる。
薩摩と手を組んで……謀をしていると」
「それを土方さんは信じたんですか?」
「いいえ……違います。黒き物乞いは素性の知れぬ者です。
ですから……私たち幹部は特に気にしていました。
その文も……幹部たちは把握しています。
今回の件は信じたというより……大義を得た、というものに近いかもしれません」
「大義……」
「ええ……土方さんは御陵衛士を潰そうとしていましたから……ね。
新選組局長の暗殺を企てる……さらに薩摩と繋がっている……。
情報の出どころが、どこの馬の骨かもわからぬ者であっても言い訳はできます……」
「真偽は……どうでもいいんですか」
「なにかを貫くためには……物事の是非を問わずに手を下すこともあります。
汚いとかでは……ないんです。
義のために……振るう刃は残酷でなければいけません」
地面に視線を落とし、力なく笑う彼女の顔には悲壮が浮かんでいた。
「早く平助ちゃんを助けに行かないと……」
「総司さん……」
「私……平助ちゃんに文を書いたんです。
御陵衛士から抜けなよって。帰ってきなよって。
でも……届いていない気がするんです」
その文が届いていても、文字を目で追ったとしても、友の心を汲み取ったとしても。
平助ちゃんは仲間のために死地へ飛び込む。
そういう女の子であることは、僕もよく知っている。
「あの子、おバカなんです。バカな……友なんです。
だから……私が止めに行かないと」
彼女は瞼を閉じて、笑った。
「平助ちゃんには……これからを生きてほしいんです」
総司さんは立ち上がり、一歩、一歩と踏み出す。
クオンが動き出した彼女の背に手を伸ばす。
けれど、その白い手が掴んだのは、夜の冷たい空気だけだった。
淡い青の着物に白い水玉模様が浮かぶ背中に映るのは、武士としての矜持だ。
そして……友を助けに行くという願い。
病に蝕まれながらも、その熱き魂が暗闇の中で猛っている。
しかし……。
大きく咳き込む彼女は、地面に向けて崩れ落ちた。
僕は瞼を閉じて、歯を食いしばり、握りこぶしが震える。
目を開けて駆け寄り、総司さんの前にかがむ。
塀に頭を擦りつける彼女の片眼からは、一筋の滴が伝っていた。
僕はさらに奥歯を噛みしめてから、クオンに言う。
「総司さんを屯所に運ぼう」
「はい!」
「や、やめてください。私は……」
クオンに手伝ってもらい、総司さんの身体を僕の背中に乗せる。
驚くほどに軽い。
もともと細身であったけれど、病に喰われている身体は……とても軽かった。
かつて、剣術の稽古のときに触れた、弾力のある肌とは違っている。
僕の背後から細い声が聞こえた。
「平助ちゃんを……助けに行かないと」
「行きます。僕たちが……平助ちゃんのところへ行きますから」
彼女から返事はなかった。嗚咽だけが聞こえる。
なるべく衝撃が伝わらないように、夜道を小走りする。
進んでいくと、闇夜に浮かぶ篝火が見えた。
炎で暖を取るかのように二人の門番がいる。
「な、何者だっ……!」
怒声と共に向けられた槍の先端には、ぎらぎらとした炎が映り込む。
「新選組に出入りしている薬売りのミナトです!」
「ああ……ミナトさんですか。どうされたんですか、こんな夜に」
新選組の門番を務める中年男性が、目を丸くして言った。
「沖田さんをお連れしました。すぐに屯所内で休ませてください!」
「ええ……。さっきも無茶だって言ったんですよ。俺は言いましたよ、確かに。
はい、言いましたね。いやね、さっき沖田先生が出て行くって。
俺は止めたんですよ? 何度も止めたんですよ?
止めたのに……ねえ。行くって聞かないんですから。これではねえ――」
その口調は油を塗ったかのように早口だ。
呑気に話している暇はない。
もう一人の門番は若い男性で、僕が目を向けると小さく頭を下げた。
「沖田さんのこと、頼んでよいですか?」
「承知しました」
呼吸すら苦しそうな沖田さんを背から下ろす。
「俺は言いましたよ。無茶だって。
ほら、沖田先生を行かせたら、土方副長の逆鱗に触れますよね。
かたや、退かないと斬るって沖田先生には脅かされるんですから」
僕の背後にいる中年男性の声は止まらない。
「たまったものではないですよねえ、ほんとに。
切腹で死ぬか、鮮やかな一刀のもとに死ぬか、二つに一つですよ」
かがんだ若手門番の広い背中に、総司さんを乗せる。
「なるべく、ゆっくりと運んでください」
「承知しました」
「総司さん。僕が……平助ちゃんのところへ行きます」
彼女から返事はなく、啜り泣く声だけが聞こえる。
新選組の天才剣士、一番組長の沖田総司。
総司さんから出る涙は、一つの理由ではないはずだ。
慰めの言葉など口が裂けても言えない。
血の刃を振るってきた彼女に、生き様を刀に映してきた剣客に、あまりに無礼だ。
「あの聞いてますか?
俺は考えましたよ。ミナトさんも考えますよね? そりゃ、考えますよねえ。
なんたって死にますからねえ。どちらを選んでも――」
自己保身を並べる中年男性に背を向けて、僕とクオンは再び走り出す。
提灯が燃えないように、柄を強く握りしめて夜の道を駆けていく。
先の見えない角を曲がった。
その時だ。
目の前に人影が見える。走ってくる姿があった。
地面と足裏を擦りつけ、僕たちと相手は前に飛び出すように止まった。
互いに緊迫した雰囲気の中で、相手からは大きな呼吸音が聞こえる。
それは獣の息づかいに近い、野太い音を出していた。
僕は身体を後ろに引いて、身構える。
相手は手を前に翳した。
「誰だい! 新選組かい! 名を名乗りな……!
いったん、いったんね!」
その声は馴染みがある。
僕は必要もないのに、提灯を相手の顔の高さまで上げた。
目は大きく離れ、唇は厚みがあって横に広がっている。
顎の下は、まるで鏡餅のような重なり方をしていた。
御陵衛士 篠原泰之進
「名乗れと言ってんだろ……!」
「僕たちです。ミナトとクオンです」
提灯を自身とクオン側へ引き寄せる。
「あんたらかい! 紛らわしい!」
そう言ってから、酷く痰が絡んだような咳をしている。
もはや咳ではなく、罵倒かのようだ。
地面を駆ける、いくつかの音が重なり合った。
身構えると、すぐに冷たい風が頬を撫でつけていく。
顔の見えぬ数人が、僕たちの隣を脇目も振らずに駆け抜けていった。
「あっ! ワシが先だ……! 隊列の話をしただろうが!
待ちな! 臆病者どもが! いったん、いったんね!」
風を生んだ人たちの背を見て、篠原さんは駆け出した。
「うらしゃあ!」
大声を出して、暗闇に消えていく。
「平助ちゃん……」
クオンは小さく呟き、篠原さんたちが走ってきた方向へ足を踏み出した。
僕も駆ける。闇夜で転ばないように。
雫が鼻に当たる。夜空を見上げると、月明かりのない漆黒が広がっている。
ぽつぽつと冷たい雨が降り出した。
クオンに追いつくと、橙色の光が瞳に入る。
曲がり角から洩れる灯りが、うっすらとこちらの道にも出ている。
その光は地と壁を蝕んでいるように見えて、何かが転がってくる気さえした。
そして……人の声がする。争うような声だ。
辻を曲がると、その先には夜道に似合わない灯りが広がっていた。
多くの人が立っている。
この先。駆けて行く先にあるのは、大きく口を開けた地獄だ。
逃げ場のない道は四方を刃で囲まれる。
僕とクオンは真冬の夜の灯りに飛び込む。
飛んで火に入る、季節外れの虫だ。




