藤堂平助 4
「さっ! 邪魔者もいなくなったし、エゲレス語の続きをやろうよ!」
そう言って、平助ちゃんは目尻を下げた。
髪を真ん中で分けた額には、池田屋事件のときに負った傷跡が残る。
あの時、重傷を負いながらも、見舞った僕たちのことを笑わせてくれた。
いつでも笑顔を見せてくれる女の子だ。
彼女は和綴じ本を捲りながら、合間でぜんざいを啜った。
真剣な眼差しで文字を追う平助ちゃんに、僕は問いかける。
「平助ちゃんは異国に行ってみたいとかあるの?」
「え? うーん。どうだろうなー。
別に行きたくはないけど……言葉を話せないよりは、話せたほうがいいかなって」
「そっか。そうだよね。話せないより、話せたほうがいいよね」
「うん! 異人とやり合うときは言うよ!
ヨウ! ヨウ! ババア、ノ、トモヨ!」
またしても彼女の罠に嵌められた。
啜った茶は咳き込んだことによって鼻の奥に入り、つんとした感覚が頭に響く。
「お前に明日はない、You have no tomorrowです」
冷静に訂正したクオンから英語の綴りを教えてもらう平助ちゃんは、身を乗り出した。
「ねえ、ねえ、みんなでカッコいい言葉を出し合おうよ!
それをエゲレス語に変えてさ! そういうのやってみたい!」
「カッコいい言葉って?」
僕が問いかけると、平助ちゃんは首を傾げて微笑む。
「うん。それぞれが普段思っていることとか、考えていることとか」
「思っていること……か」
僕は人差し指で顎を触った。
クオンは姿勢の良い正座で目を閉じる。和紙に筆を走らせる平助ちゃんは笑みをこぼす。
客の話し声や茶を飲む音が思考に混ざっていく。
しばらくすると、平助ちゃんは筆を握り、真っ直ぐに立てた。
「どう? 二人ともできた?」
「僕はできたよ」
「私は常にあります」
「私もできたよ! 誰からにする?」
僕は机の上の空になった器を見つめる。
今までの経験で確かに感じていたこと。それは揺るがない想いを持っている。
幕末で出会った人たちを見てきて、いつも背中で教えてもらったことだ。
「僕から言うよ」
「おっ! さすがはミナトくん! それでは魁先生! よろしく!」
息を吸い込む。湯呑みの茶を見つめる。
「心無き者に大義はない」
幕末の偉人たちと触れ合い、そこで見つけた一つの真実だ。
「おおー! カッコいいね! それをエゲレス語にすると、どうなるの?」
「少し変わりますが、Justice cannot dwell in a heartless soulです」
クオンが英訳してくれて、平助ちゃんは後を追いかける。
「ジャ、ジャステ! キャン……ドンイン、ハト、ステル!」
「違います。ハトを捨てないでください。
言いやすくするために格言のようにしましょう」
「うん! いいね!」
「No Heart No Cause」
「ノー、ハト! ノー、コズ!」
「それでは日本語が混ざり、ハトの話になってしまいます。Heartです。次にCauseです」
「ノーハート! ノーコーズ!」
「よしとします。次は私が披露しましょう」
そう言ってから、クオンは瞼を閉じる。
「情を知って使命を得る」
背筋を真っ直ぐに伸ばして言った。
平助ちゃんは彼女の言葉を和綴じの帳面に綴る。
「いいねー、クオン! それはエゲレス語でなんて言うの?」
「これも格言にします。Know Heart Find Missionです」
「あ! また出た! ハトだ!」
「違います、ハトは関係ありません。さあ、繰り返してください」
「ノー、ハート! フアン、ミソ!」
「それでは非情になってしまいます。Know Heartです。
そして、不安な味噌など誰も口にしません。Find Missionです」
「ノウ、ハート! フアインド、ミション!」
「よいです」
「じゃあ、私の番だね!」
彼女は和紙に筆を走らせて、綺麗な文字を僕たちに見せつけた。
「自由に走れば見えぬ道、残り火に見える消えぬ道」
笑顔のまま首を傾ける平助ちゃんは、僕たちの様子を窺う。
「エゲレス語に訳します。少し変わってしまいますが、よろしいですね」
クオンが言うと、平助ちゃんは手のひらを前に突き出した。
「あ、待って! 自分でやってみたい!」
和綴じ本をぱらぱらと往復させる。何度も何度も。
帳面には多くの英単語が書かれていて、先程の言葉と照らし合わせている。
眉間に皺を寄せ、文字を追う瞳の動きはとても速い。
「えっとねー、自由……自由はフリーでしょ。知ってるよ、うん、知ってる。
走る……走るはラン! ランだ!」
「合っています」
「道……見えない、うんと……ノー、ロード?」
帳面を捲って、日本語と英語を合わせていく。
「残り火……は、ファイアでいいか。大体、合っていればいいもんね!」
問いかけられた僕は目を逸らし、小さく頷く。
「消えぬ道……消えない、道は、えーっと……んーっと、フレンド、ロード!」
――消えぬ道がフレンドとロード……。
僕は彼女が今回の言葉を作った理由がわかるような気がした。
意識したのか、無意識なのか。
英訳を言葉そのものではなく、別の意味に置き換えたことも。
隣にいるクオンを見ると、口元が上がっていた。
「えーっと……うん! できた!」
「それでは平助ちゃん、エゲレスの文にしてみてください」
「フリー、ラン! ノー、ロード! ファイア! フレンド、ロード!」
文法を一切無視している。クオンに強く指摘されるはずだ。
そう……思った。
「素晴らしいです」
彼女の反応は、僕の予想と違っていた。
「平助ちゃんの想いが言葉に表れています。
誰にも真似できない言葉、素晴らしいです」
「こんなの簡単だよ! エゲレス語なんて大したことないんだから!」
「おっしゃるとおりです」
壬生浪士組から新選組へ進む。彼女は友と命を懸けて歩んできた。
その友と道を違える御陵衛士は、簡単に選んだ道では決してないだろう。
彼女の本心は先程の言葉に強く表れ、同時に心の中に隠れている気がした。
一つだけではなく、その想いは幾重にも重なっている。
自由に走れば見えぬ道、残り火に見える消えぬ道。
「三人ともよかったよね! 忘れないようにちゃんと書いたから!
――ねえ、ねえ、ミナトくん。
他にもエゲレス語にしたら、おもしろい言葉とかあるかな?」
「おもしろい言葉……平助ちゃんの好きそうな言葉だよね?」
「うん! 敵に言ったらカッコいい言葉とかさ!」
「うーん。そうだな……平助ちゃんの無茶な感じを表す……か。
『戦うなら斬る、退いても斬る』とか。
どっちにしても斬る、という無慈悲な感じがあるよ」
「やめてよー! それ悪だよ! ね、エゲレス語ではどうやって書くの?」
彼女は和綴じ本と筆を手に持って立ち上がり、僕の隣に座った。
筆を渡してきて、帳面に書くように言われる。
強く身体を押しつけてくるものだから、胸が熱くなり、鼓動が高鳴っていく。
「平助ちゃん、ミナト様にくっつかないでください」
「うるさーい、いいの!」
僕は筆で和紙に英語を記し、平助ちゃんに教える。
「Whether you fight or flee, I will cut you downみたいな感じかな」
「ミナトくんもエゲレス語が得意なんだね! カッコいい……!」
甘い香りが、筆を持つ手をぴくっと震わせた。
「Get away from him right now!」
クオンが手のひらを畳に叩きつけ、声を張った。
「な、なにい!? なんて言ったの!?」
「僕から離れろってさ」
「へへーん! やーだよー! クオンのバーカ!」
平助ちゃんは僕の顎の下から顔を出し、隣にいるクオンを挑発した。
「ミナト様に、べたべた触らないでください!」
「いいんだよー! ミナトくんは嫌がってないし! ねー、ミナトくん!」
「う、うん……嫌じゃな――」
「ミナト様! ダメです! それはダメです!
ああ……! もう……! 離れてください!」
押し問答を繰り返しながら、勉強は進んでいく。
どれくらいそうしていただろうか。
楽しい時間とは、あっという間に過ぎていく。
そろそろ帰るかと、僕たちは立ち上がった。
当初の約束であった、平助ちゃんが茶屋の代金を支払うという話は消えていない。
茶は無料だけれど、ぜんざいは三人分だ。
加えて、平助ちゃんは三杯ほどおかわりしていた。
帳場で茶屋の娘が優しく微笑む。
「百八十文になりますえ」
「ひゃ、百八十文!? なんでよ! おかしいよ!
こないだまで百文と少しくらいだったじゃん!」
身を仰け反らせた平助ちゃんに、茶屋の娘は朗らかに返す。
「へえ、近頃、米の相場が跳ね上がりましたさかい。どうか堪忍しておくれやす」
平助ちゃんは手のひらに向けて、若葉色の巾着袋を振る。
隣に立つ僕は目を疑った。
一つ、二つと微かな音が出る。
寂しく落ちてきたのは寛永通宝の三文のみだ。
――ええ……全然足りないじゃん。
彼女は腰を引きながら腕を伸ばし、帳場に三文を並べた。
常に微笑んでいる茶屋の娘の細くなった目は、一切動かない。
僕は懐から灰色の巾着袋を出して、銀貨を一枚、帳場に置いた。
「ミナトくん……!」
声高らかに平助ちゃんは叫んだ。
その後で僕の様子を窺い、頭を下げてから小さく言う。
「ミナトくん……もしさ、金子がまだあるなら……。
あの……お団子、三本買ってほしいんだけど」
「うん、いいよ」
「ダメです……!」
僕たちの間にクオンが割って入る。
「元々、平助ちゃんが払うはずだったのに、ミナト様に払ってもらう。
お団子まで買ってもらうのは道理に反します!」
「う、うう……」
「やめなよ、クオン。すみません、団子を六本包んでください」
「へえ、おおきに。六本どすな、すぐにお包みさせてもらいやす」
「ミナト様! その優しさは――」
「いいじゃん。
がんばってエゲレス語を学んでいた平助ちゃんに、団子くらい買ってあげたいよ」
「特別扱いはよくありません!」
「いいじゃん」
僕は団子を包む茶屋の娘に告げる。
「釣りは取っておいてください。長居してしまったので」
「わあ、おおきに!」
茶屋から出ると、往来には多くの人々が行き交う。
僕は竹皮に包まれた団子を平助ちゃんに向ける。
けれど、なぜか彼女は首を横に振った。
「どうしたの? いいよ、遠慮しないで」
さらに首を振って、彼女は微笑む。
「ううん。私はいらない」
「食べたかったんでしょ?」
「それさ……総司ちゃんに渡してくれないかな」
「え? 総司さんに?」
「うん。ミナトくんに買ってもらった物なのに変な話だけど……ごめんね」
「平助ちゃんは、いらないの?」
「うん。総司ちゃんのお見舞いに渡して。
総司ちゃん……近頃、身体が良くないって聞いたから」
――そういうこと……か。
「えへへ。私は……もう新選組の門はくぐれないからさ」
目を伏せた彼女は額を手で撫でる。
「うん……わかった。渡しておくね」
僕たちは店の前で別れることになった。
クオンは手作りの焼き菓子を橙色の風呂敷から取り出し、平助ちゃんに手渡す。
「あの人に取られないように、みんなで食べてください」
「うん、ありがと。見つからないようにする。クオンの菓子、毛内さんも喜ぶと思うよ」
御陵衛士には何でも一人で食べてしまう強欲な者がいる。
平助ちゃんはどう思っているのだろうか。
問いかけようとしたとき、彼女は笑みを浮かべた。
「またね……!」
その笑顔を見ると、嫌な話はできない。
「うん。またね」
僕に続いて、クオンが平助ちゃんに返す。
「お菓子を作ったら、また持っていきますね。
それと天女の羽衣も渡しておきます。
今後は無茶な戦いではなく、神の慈愛によって包まれてください」
「うん! ありがと!」
遠ざかっていく小さい身体は人混みに飲まれ、消えていく。
「ねえ、団子のことだけどさ。意地悪なことを言わなくてもよかったじゃん。
平助ちゃんがどうして金子を持っていないか、クオンも知っているんでしょ」
「賭博は身を滅ぼします」
彼女の紅い瞳は、今もなお平助ちゃんの背中を追っているようだ。
「それが嘘だって知ってるでしょ」
「もちろんです。
苦労して身も心も傷つき、それでも生活が立ち行かない人に金子を惜しみなく分ける。
私は平助ちゃんのことを尊敬していますし、大好きです」
「それなら……変に突っかからなくてもいいじゃん」
「だからこそです。私は彼女の照れ隠しの嘘に付き合ってあげているのです。
これは良き友情であると私は思います」
「そっか……。
平助ちゃんが組長だったから、八番組は結束が強いって、前に総司さんが言ってたよ。
自分の組より、遥かにまとまっているって」
「はい。組長として隊士のことを考える素晴らしい人です。
元八番組は、今も平助ちゃんのことを慕っていると私は思います」
平助ちゃんは明るい。
太陽のようなという表現があるけれど、まさにその言葉が相応しい。
彼女が消えていった人混みを見つめる。
温かな笑顔が今もなお脳裏に残っていた。
僕は視線を落とし、溜め息を漏らす。
どこからか花の優しげな香りがした。




