藤堂平助 2
*
「こちらですね」
薄紫の着物を纏うクオンが重厚な門前で言った。
仲の良い女の子が引っ越しをした場所に、僕たちは立っている。
月真院。新選組から分派した御陵衛士の屯所だ。
門前から中を覗くと、向拝の下に人の姿があった。
浅緑の小袖、灰色の袴を穿いている。
その人は木刀を額と地面に押し当て、背を丸めていた。
着物の色も、大きくない身体も、頬の辺りまで垂れる黒髪も昔から変わっていない。
「平助ちゃん!」
クオンは声を上げて、彼女の元に小走りする。
黒い下駄が石畳を叩き、心地よい音が庭に響く。
「あ、クオン……」
平助ちゃんの声には力がない。額には汗が滲み、こちらを見て軽く笑うだけだ。
普段の彼女は、屈託のない笑顔で周りを明るくする。
けれど、今日はまるで元気がない。青ざめているようにも見える。
クオンは平助ちゃんの元に辿り着くと、背負っていた橙色の風呂敷を下ろし、中を探る。
「引っ越し祝いです!」
手にしたのは油紙で包まれた、団子と饅頭の中間ほどの大きさである焼き菓子だ。
「たくさんありますよ! 私の作った菓子です!」
クオンが声を張っても、平助ちゃんの目は虚ろだ。
「どうしたのですか、平助ちゃん。菓子……ですよ」
そう言ったクオンが平助ちゃんの背に触れようとした瞬間、石畳を草履で擦る音がした。
「平助ちゃん。稽古中に悪いのですが、少しよいですかー」
木の陰から優しげな声が聞こえる。
僕たちの前に現れたのは、黒い羽織に灰色の袴を合わせる優麗な女性だ。
長い黒髪を後ろで一つに束ね、前髪の片方だけが顎付近まで垂れている。
「あ、クオンさんにミナトさん。お久しぶりですね」
互いに軽く頭を下げる。涼しげな目元、知的な雰囲気を纏う女性が微笑む。
御陵衛士 服部武雄
「お久しぶりです。服部さん」
「お久しぶりです。黒髪が美しいです」
僕が挨拶をした後でクオンが称えると、服部さんは顔を綻ばせた。
「クオンさんのおかげです。
いただいた椿の油が髪を艶やかにしてくれます。ありがとうございます」
「黒髪は雅です。黒髪の女性は美しいのです」
「私はクオンさんの髪も美しくて好きですよ」
「これは私の自慢なのです」
「あ……クオンさん、少しお手伝いしていただけませんか?
平助ちゃんに頼もうとしていたのですけど」
「なんでしょうか」
「エゲレス語の講義をしているので、みなの前で私と話していただけませんか。
クオンさんはエゲレス語に長けていると聞いています」
服部さんの申し出をクオンは快諾した。
平助ちゃんの異変に気づいた服部さんが、屯所の中に入るように促す。
けれど、当の本人は首を横に振るばかりだった。
クオンはその様子を不安そうに見つつ、服部さんと月真院の中に向かう。
二人が去った後も、平助ちゃんの体勢は変わらない。
汗で濡れた黒髪が頬に張りついている。
「どうしたの? 稽古しすぎたの?」
「うん……ちょっと……」
「少し休んだほうがいいよ」
僕は階に腰を下ろし、平助ちゃんにも座るように促す。
彼女は木刀の柄頭を額に当て、背を丸めたまま近寄ってくる。
「具合が悪いなら横になって休んだほうがいいよ。僕が中に連れていくから」
「うん……大丈夫。ありがとう……」
呼吸は等間隔ではなく、背を揺らすほど荒い。
汗は止まるどころか、さらに噴き出しているように見える。
僕は隣で木刀に身を預けている彼女を尻目に、クオンの橙色の風呂敷を探った。
小分けに包まれた茶色い焼き菓子を取り出して、一つ齧る。
口の水分が奪われて、腰に掛けていた竹筒の水を飲み込む。
その瞬間。
水を流し込む手が止まる。
いつから……そこにいたのか。
僕のすぐ隣に人影がある。一度地面に向けた目を横に動かし、少しだけ首を回す。
黒い袴が視界に入る。
だんだんと目線を上げると、相手の胸には長い髪の毛が垂れている。
さらに視線を上げていく。黒い小袖に白い肌と黒い瞳がある。
瞬き一つせず、こちらの様子を窺っている。
斎藤一さんだ。
よく知った顔を見て、身体から急激に力が抜けた。
「久しぶり、斎藤さん」
「お久しぶり……ですね、ミナトさん」
「音も無く近づくのやめてください。怖いですよ、いきなり隣にいるのは」
「ごめん……なさい。久しぶりに……脅かそうと」
「何回も言っているのに」
「怖がっているところ……おもしろくて。震える身体……見るのは楽しいので」
「驚くと身体に悪いんですよ。
あ、これ、クオンが作った菓子です。よかったら食べてください」
油紙に包まれた丸い焼き菓子を風呂敷から取り、斎藤さんに向ける。
「ありがとう……ございます」
そう言って受け取った彼女は、頬を隠す黒髪を手で払って、菓子を口に含む。
「これあまし……またうまし」
僕は平助ちゃんに聞こえないように、斎藤さんに向けて囁く。
「土方さんへの報告は、これで誤魔化してください」
「承知……しました」
僕たちを見かけた場合、見張るように新選組の土方副長から斎藤さんは言われている。
土方さんは僕たちと討幕派が密通していると疑っているのだろう。
痛くもない腹を探られる。それは仕方がない。
クオンの菓子による買収で、斎藤さんは土方さんに詳細を告げていないはずだ。
斎藤さんはとても任務に忠実だけれど、おそらく重い軽いは判断している。
土方さんも本気で僕たちのことを見張れとは言っていないはずだ。そう……思いたい。
「斎藤さん、御陵衛士に入ったんですね」
「少し事情が……ありまして」
「大変そうですね、いろいろなことがあって」
「任務……ですので。ただあの頃と比べると……寂しいです」
新選組の屯所で菓子作りをしていたことが懐かしい。
あの頃は新選組の総長である山南さんもいた。
今、僕の手にある菓子を食べたら……彼女は喜んでくれただろうか。
ぷるっとした淡い唇に菓子の粉を付けて、ゆっくりと咀嚼する斎藤さんに言う。
「また、みんなで菓子でも作りましょうよ。
御陵衛士の屯所には、すごくうるさい人がいるから、僕たちの家などで」
「私が行っても……いいのですか」
「ええ、ぜひ。また、みんなで作りましょうよ」
「楽しみ……です。一人で作っても……楽しくないです。みんなで……作りましょう」
僕たちはしばらくの間、思い出話に花を咲かせていた。
これから行くところがあると言う斎藤さんは、静かに頭を下げた。
「ミナトさん。久しぶりに……会えてよかったです」
「僕もですよ」
「菓子……おいしかったです。ありがとう……ございました。
また一緒に食べて……ください」
「はい。また食べましょう」
口元を緩める彼女は再び頭を下げて、門に向かう。
腰まである長い長い黒髪が綺麗に揺れた。
彼女を見送り、僕は水を口に含む。
すると、隣に立つ平助ちゃんが小さな嗚咽を漏らした。
彼女の体勢は今も変わっていない。
「ねえ、大丈夫? どこか痛いの?」
「お腹……痛い……」
ふらつく彼女の肩を支えようと、立ち上がる。
平助ちゃんは急に僕に向かって倒れ込んできた。
ふわっと女の子特有の甘い香りが鼻に入る。
僕は彼女を抱いたまま、背後の階へ背を預けるように座った。
「だ、大丈夫?」
平助ちゃんの袴から出る足は、曲がることなく真っ直ぐに伸びている。
「お腹が痛いって……ごめん、下品な言い方になるけど、厠ではなくて?」
返答はない。涙を垂らし、息も絶え絶えだ。
「厠に連れて行くよ」
「ミナトくん……お腹……痛いよ……」
いつも天真爛漫という言葉が似合う彼女が、弱気になっているところを初めて見た。
池田屋事件で頭に深手を負い、生死の境を彷徨った後でさえ笑っていたというのに。
何度か問いかけても、返ってくる言葉は変わらない。
しばらく背中をさすっていると、後ろから手鞠を踏み潰すような怒声が飛んできた。
「なにをしているのですか!」
クオンだ。
僕たちの前方に躍り出て、目を見開いた彼女は烈火の如く怒る。
「平助ちゃん! 離れなさい……! 今すぐに! なんなんですか!
心配になって様子を見に来てみれば、このざまです!」
「違うよ。平助ちゃん、お腹が痛いんだって」
「お腹……ですか?」
クオンは訝しむように平助ちゃんの身体を見渡した。
しばらくしてから小さく頷き、地面に落ちていた彼女の木刀を拾い上げる。
そして、苦しむ平助ちゃんの臀部を木刀の先で突っついた。
「ぎゃっ……! ひぐっ!」
平助ちゃんは涙声に悲痛を混ぜて叫んだ。
「やめなよ!」
僕が声を張ると、クオンは眉を下げた。
「愚かな行いをしているからです」
「それ、どういう意味? お腹が痛くて倒れたんだってば」
「それが愚かだと言うのです」
クオンは手に握る木刀を彼女の隣に置く。
「よいですか、平助ちゃん。
痛いからという理由で躊躇しているから、そのようなことになるのです。
あなたの行いは死を招くこともあります。
目の前の恐怖から逃げることは、負けることに似ています」
言葉の真意がわからず、クオンに問いかける。
「どういうこと?」
彼女は溜め息混じりに返事をした。
「平助ちゃんは厠に行くのを我慢しているのです」
「どうして?」
「厠で深手を負って、今なお恐れているのです。
おそらくは……木に負けた娘なのです」
――そういうこと……か。
僕にも覚えがあった。いや、僕は恐れて戦うことから逃げ出したのだけれど。
それを手助けしてくれたのは、目の前で銀髪を揺らすクオンだ。
「ミナト様。平助ちゃんを運びましょう」
クオンの一言で、青ざめている平助ちゃんを背負い、厠の前まで連れて行く。
「さあ、厠へ入ってください」
クオンが強く言うと、僕の背にいる平助ちゃんは小さく声を漏らす。
「ミナトくん……助けて。クオンが私のこと……」
「う、うん。大丈夫だよ」
「ミナトくん……」
弱気で、どこか甘えたような声を出す平助ちゃんに対し、クオンは強い口調で言う。
「離れてください。どさくさに紛れて、いつまでもミナト様に触らないでください。
あなたは、これから戦場へ一人で向かうのです」
僕は平助ちゃんを下ろし、力の入らないであろう身体を支えた。
俯く彼女に、クオンが冷静に告げる。
「安心してください。剣術が取り柄のあなたに、私が大業物を授けましょう」
クオンは手にしていた橙色の風呂敷を探る。
そこから正方形に切られた紙の束を取り出す。
それは普段から持ち歩いていて、旅に行くときには必須な物だ。
「これは私が作った品です」
平助ちゃんは紙の束を一瞥した後で、僕の二の腕に顔を埋めた。
彼女の頭を撫でようと手を伸ばす。
「ミナト様! 優しさは、時に罪です!」
その大声で僕は手を止める。
小さく咳払いするクオンが、平助ちゃんに向けて穏やかな声を出す。
「さあ、平助ちゃん。使ってください」
「痛いから……やだ」
「これは痛くありません。
厠にある、あのヤスリのように硬い落とし紙とは違うのです。触ってみてください」
恐る恐る指先を伸ばした平助ちゃんは、紙にそっと触れる。
「わあ……や、柔らかい……」
「大丈夫です。戦いましょう」
「でも……」
「クオン特製の落とし紙です。これは撫でるのに最適です」
「と、特製?」
紙の束を掲げたクオンは大きく息を吸い込んだ。
「これは天女の羽衣です……!」
「天女の……羽衣……」
平助ちゃんは目を見開いた。
天女の羽衣。
クオンが研究を重ねて作り出した品で、僕も重宝している。
「さあ、落とし紙として使ってください。厠で戦ってください」
クオンは近くにあった井戸で水を汲み、木桶と天女の羽衣を平助ちゃんに渡した。
「私の天女の羽衣は、水に濡らしても使えます。
今の平助ちゃんの場合は、水に濡らし、押し当てるように使うのです」
平助ちゃんは意を決したのか、天女の羽衣と木桶を手にして厠へ向かった。
僕たちは、その場から離れる。
月真院の手入れの行き届いた玉砂利を踏みしめれば、小気味よい音が鳴る。
僕は隣で歩くクオンに問いかけた。
「大丈夫かな。ずっと我慢していたんだろうね」
「そうですね。ですが、私の天女の羽衣は負けません」
「やっぱり……籌木で傷つけたのかな?」
「そうであると思います」
「あれは……ダメだよ。木のヘラでお尻は……無理」
「紙に移り変わるまで長い時を経たのです。文化とは、なかなか変わらないものです」
「そうだけどさ。使い捨てなら、まだよかったかも。
人が使った物を……また使う。僕には無理だよ」
籌木ではなくても、厠で使う落とし紙はとても硬い物だった。
僕が嫌がったことで、クオンはとても柔らかい落とし紙、天女の羽衣を作ってくれた。
場所にもよるけれど、地方へ赴けば、今も籌木を使う厠がある。
僕は一つの疑問をクオンに向けた。
「平助ちゃん……なんで籌木を使ったんだろう。
まあ、使ったという仮定の話だけどさ。
京なら籌木じゃなくて、ほとんど落とし紙に変わっているでしょ」
「なにかの事情で京から離れ、慣れない籌木でお尻を傷つけたのでしょう。
あの反応からするに……とても深い傷です」
「まあ……我慢してるくらいだしね」
「平助ちゃんのことだから、ささくれなどを見落として、強く拭いたのではないですか。
おそらく皮一枚ではなく、肉を削いでしまったのでしょう。無鉄砲な人です。
拭くことで生まれる激痛から逃れるために、今まで我慢していたのだと思います」
「痛かっただろうね、二つの意味で」
「私の天女の羽衣には鎮静成分が含まれていますので、少しは良くなると思います」
門前で佇み、二人で話していると、平助ちゃんが駆けてきた。
「大丈夫だったよー」
穏やかな顔つきになった平助ちゃんに、紅い瞳を向けるクオンが静かに言い放つ。
「跪いてください。私を神として崇めてください」
「な、なにい……」
平助ちゃんは目を細め、腰を落とし、身構えた。
一触即発の雰囲気だ。クオンは彼女を見下ろして続ける。
「私は天女の羽衣で、平助ちゃんのことを救いました。
それならば私を神として崇め、供物を捧げることが道理であると思います」
僕は眉を下げて、二人の間に入る。
「やめなよ、クオン」
「いいえ。はっきりしておくべきことです。
平助ちゃんは、いつも私のことをバカにしてきます」
「それは……だって……」
微かに返した平助ちゃんは、視線を石畳へ落として下唇を少し出す。
「今回、あなたの門番を救ったのは誰ですか?
幕府ですか? 勤王派ですか? 尊攘の志士ですか? それとも異人ですか?
いいえ、違います。あなたを救ったのは目の前にいる、この私です……!」
「ぐっ……」
「そういうのやめなって。平助ちゃんに会うの楽しみにしてたんでしょ」
「それとこれは別の話です。ミナト様に抱きついた罪は消えていません」
クオンは顎を上げて、さらに続けた。
「さあ、平助ちゃん! 答えなさい……!
あなたのことを助けたのは誰ですか! それがわからぬほど愚かではないでしょう!
さあ、私の軍門に下りなさい……! さあ!」
俯いた平助ちゃんは握りこぶしを震わせた。
聞いたことがある。武士が忠義を尽くす相手は一人だけ。
二君に仕えず。
息を吐いた平助ちゃんは口をすぼめて、ぽつり、ぽつりと言葉を出す。
「あの……礼はするよ。でも、お給金は使っちゃってほとんどない。
料亭は無理だけど……茶屋くらいなら、ご馳走できる……できます」
「そうですか。それなら、お言葉に甘えます」
元々の話と違っているけれど、クオンはあっさりと承諾した。
僕たちは三人で茶屋へ向かう。
険悪な雰囲気など風にさらわれ、クオンと平助ちゃんの楽しそうな姿を後ろから見る。
今年の春、平助ちゃんは新選組から分派した御陵衛士に入った。
そして……新選組は御陵衛士の謀反を警戒している。
今は天皇の墓を守るという御陵衛士の大義名分によって、難を逃れているけれど。
きっかけさえあれば、すぐに両者の殺し合いが始まる。
「ミナトくん……!」
平助ちゃんは後ろを歩く僕に向けて、手を挙げた。
彼女はどう思っているのだろう。
江戸からの付き合いである試衛館の仲間に背を向けたこと。
御陵衛士の盟主である伊東甲子太郎さんに付いていったこと。
その心は、わからないけれど。
彼女は知っているのだろうか。
御陵衛士を作った伊東さんには、別の本懐があることを。
幕府側に付く佐幕ではなく、勤王と開国を推し進めるために作ったということを。
「ミナトくん! 早く行こうよ……!」
その笑顔から葛藤などは読み取れない。
しかし、彼女にも並々ならぬ苦悩があったはずだ。それでも顔を綻ばせている。
いつでも笑い合いたい。いつまでも……笑っていてほしい。
叶わないことであると知っていながら、そう願わずにはいられなかった。




