藤堂平助 1
桃色の着物の袖から覗く、クオンの白い腕を見つめた。
「どうかされましたか、ミナト様」
「ううん、なんでもない」
僕を交通事故から守ってくれたときの傷が、彼女の腕には今も残っている。
小さく息を吐き出すと、風が吹きつけた。
傾斜のきつい土手に腰を下ろし、旅籠で作ってもらった握り飯を二人で食べる。
塩気がよく効いていて、ぶるっと顔が震えた。
川を隔てた向こう岸では、何かの行事なのか、多くの人が連れ立って歩いている。
整然とした行列を見ていると、最近まで過ごしていた長州藩での日々が蘇ってきた。
「高杉さんの葬儀……すごかったね」
「はい。とても慕われていました」
「あれほどの行列……初めて見たよ」
高杉さんの葬儀は、大いなる悲しみと大いなる熱に包まれた。
反乱、戦争、講和。時代を駆け抜けた女傑の死。
僕とクオンも参列者に混じって、ただ涙を流した。
その一方で、拭いきれぬ不安が今もなお僕の心を覆っている。
高杉さんが亡くなった日のことだ。
朝げを共に食べようと、早朝から高杉さんの元へ向かう。
僕とクオンの軽やかな足取りは、ぴたりと止まった。
庭にある大樹の下で、声を押し殺し、泣き崩れている伊藤ちゃんがいた。
すぐに駆け寄る。
そこには大樹に背を預け、真っ赤な着流しを纏う高杉さんがすでに冷たくなっていた。
我が子を抱きしめるかのように、愛刀を胸に抱いて。
その顔はとても穏やかで、どことなく微笑んでいるようにも見えた。
安らかに眠る彼女の傍らには、折られて萎びた大根が転がっていた。
その断面には、一口だけ齧られた跡と血が付いている。
僕たちは高杉さんの前で涙を流し、縁側に彼女を運んだ。
すると、クオンが僕の腕を引いて、庭の隅まで連れて行く。
伊藤ちゃんに聞かれないようにする配慮だったのだろう。
『座敷の畳に泥を引きずった跡があります。
それと……喀血を踏んだ足跡の向きが二つ。
裸足で外に出て、再び座敷に戻ったかのように……少し不自然ではないでしょうか』
クオンの言うとおり、畳の上には違和感があった。
己の死期を悟った高杉さんが、畳の上ではなく、外に出たいと思う気持ちはわかる。
けれど、裸足で往復することは解せない。
疑心に追い打ちをかけたのは、高杉さんの刀だ。
僕は高杉さんの身体を清めるクオンと伊藤ちゃんに背を向けた。
左手で持つ高杉さんの愛刀を見つめる。
柄が血に濡れているのは、喀血したときのものだろう。
柄の中で茎が微かに揺れ動く……目釘が緩んでいる。
その刀を両の手で持ち直し、身体の前で掲げて、頭を下げる。
無礼であると思いつつ、鞘から刀を抜くと、刀身には真新しい刃こぼれがあった。
背筋に悪寒が走る。
労咳とはいえ、すぐに亡くなるような症状は出ていなかった。
違和感のある畳の汚れ。折られて血が付いた萎びた大根。刃こぼれのある刀。
そして……後にわかったことだが、前日に渡した薬包紙が見当たらない。
僕の胸の中は何かに掴まれる。
高杉さんは何者かと戦ったのではないだろうか。
誰だ。誰だ。疑問を繰り返す。
再び底無しの沼に、つま先を浸けたときだ。
「ミナト様、沢庵がよく漬かっていますよ」
隣にいるクオンは旅籠で漬けられた沢庵を食べて、小気味よい音を出す。
「うん……そうだね」
確定的なことは一つもない。憶測の範疇を出ない。
高杉さんは庭で何者かと戦い、何かの理由で座敷に戻り、再び外に出た。
そして、大樹の下に行ったのではないだろうか。
「ミナト様、聞いていますか? どうされたのですか」
「うん、聞いてるよ」
僕は握り飯を口に運び、咀嚼し、飲み込んだ。
何が起こったかはわからない。
労咳によって喀血し、亡くなったと考えるのが普通だ。
軽々しく疑心を口にすることなどできなかった。
高杉さんが刺客に狙われたという可能性があると言ってしまえば……。
長州の者たちは血眼になって下手人を探すだろう。
それを高杉さんは……望まない。
仮に暗殺に近いことが行われたとしても……。
彼女ほどの人物が、一つの手がかりも残さないまま亡くなるとは考えにくい。
胸には重い鎖が絡みついてくる。いくら考えたところで答えは出ない。
しかし、一つの変えられない事実はある。
日本から高杉晋作という女傑がいなくなってしまった。
「私の話を聞いてください」
「聞いてるよ。握り飯と沢庵もいいけどさ……タンパク質が食べたくなるよね。
山で食べた新鮮な肉もおいしかったよ」
「ダメです! 薬と呼んでください!」
「大丈夫だよ。みんなも薬とか、ほとんど言わないじゃん」
「私は秘事に惹かれるのです!」
僕とクオンは高杉さんの死を受け入れた後も、長州藩から出て行かなかった。
口にはしなかったけれど、離れたくない、という想いが無意識に働いたのかもしれない。
長州に滞在するなかで、時に河原へ赴き、時に山に入り、薬草などを採った。
クオンは夏の山で獣を狩ることも多かった。
伊藤ちゃんが入手してくれたスペンサー銃を借りて、クオンは猪や鹿などを仕留める。
難しいはずの鳥撃ちもそうだった。
鳥の胴体を撃てば身が弾ける。だから、正確に頭を撃ち抜いていた。
大きな獣は僕たちだけでは運べないから、村の若い衆を引き連れていくこともあった。
山に入れてくれる村人たちに、お礼として獣の肉を渡す。
村人たちは感謝と畏怖を込めて、彼女に通り名を付けた。
御山の隠れ姫。
その話を聞いたクオンは、満面の笑みを浮かべていた。
けれど、農民たちの噂を耳にした伊藤ちゃんは、別の通り名を彼女に与えた。
弾喰いの山猿女。
スペンサー銃は新式の小銃で、連続で七発も撃てる。銃本体と弾はとても高価だ。
それを狩りに使うことに怒りを覚えた伊藤ちゃんの嫌味が通り名に表れたのだろう。
弾喰いの山猿女、と伊藤ちゃんから呼ばれていることをクオンは知らない。
握り飯を食べ終えた僕たちは、住み慣れた家の方向へ歩みを進める。
京の入り口に差し掛かった頃合いだ。
稲を刈り終えた田園が左右に広がる。その道の先に群衆の姿が見えた。
数え切れない者たちが道を占領し、何やら怪しげな動きで大騒ぎしている。
だんだんと互いが近づき、大勢の声が耳を突く。
「ええじゃないか! よいじゃないか! ええーじゃよい、よい!」
声は大きくなり、人々がこちらに迫ってくる。
「ええじゃないか! よいじゃないか!
ええーじゃよい、よい! ひゃっ、はっ、はっ!」
思わず身を強張らせて、クオンに問いかける。
「あれ……幕末で割と有名な『ええじゃないか』だよね」
「はい。民衆運動ですね」
前にクオンの授業で聞いた話によると、この民衆運動の詳細はわかっていないらしい。
ええじゃないか。
天から御札が降ることで始まった。
神のお告げがあるのだから、これから良いことが起こる。
だから、何をしてもいい、といったような思考なのだろうか。
裕福な家に乗り込み、食事や酒の要求、強奪まがいのこともある。
神という畏れを笠に着ているから、乗り込まれた家の者は安易に追い返せない。
それに多勢に無勢だ。
百姓一揆の者たちが、個人の家に攻め入るようなものだろう。
道の端に寄ると、クオンは一団から僕を守るように、一歩前に踏み出した。
「いいよ、クオン。危ないから後ろに下がってよ」
僕は彼女の手を引いて、背後に隠す。
「私が前に立ちます」
「ダメだよ。危ないから僕が前にいるよ」
「ですが……」
「いいから」
「はい……ありがとうございます」
大声で叫ぶ者たちは踊り狂う。
その笑顔は無理に作られたものなのか、どこか歪さを感じる。
「ええじゃないか! よいじゃないか! ええーじゃよい、よい!」
――ひっ……。
一瞬、息が止まる。目の前に来た一団は、普段の姿とは一線を画していた。
体格の良い男性が女性用の着物を纏い、化粧を施し、袖を振り回す。
白粉を塗った顔には、黒い棘のような髭が飛び出している。
女性の中には男装する者もいて、着物をはだけさせて、高く飛び跳ねていた。
普段の地味な色の傷んだ着物とは、まるで違う。
目を刺してくるような菜の花色の着物が特に目立つ。
白い肌襦袢だけの者もいて、朱墨のようなものが塗りたくられている。
手で何度も叩きつけたような跡だ。
ある人の白い着物の背には、恨み言のような文字が赤く、赤く、書かれている。
狂気を含む宴だ。絶叫は止まらず、踊り狂っている。
「ええじゃないか! よいじゃないか!」
中年男性が僕の前で手を打ち鳴らし、同じ言葉を何度も繰り返す。
激しく、激しく。手が腫れるほど叩く。
男は急に身を沈めて地面を転がる。すぐに立ち上がって、高く高く飛び跳ねる。
「けけけけ……!」
相手は瞬きを一つもしない。
首を激しく左右に振り、握りこぶし三つ分ほどまで近づいてくる。
――ひっ……!
「ええじゃないか! よいじゃないか! やっぱ、ぱ! やっぱ、ぱ……!」
目は一切笑っていない。
涎を垂らす大きな口は、三日月のように吊り上がっている。
両の手を交互に振り上げ、両足は地面を激しく叩く。
僕の左手は自然と脇差に伸びた。
まともではない。この狂乱は。何があってもおかしくない。
歯を食いしばり、悟られないように鯉口を切る。
目の前の中年男性は僕の前から移動せずに叫ぶ。
「おっべんさあ! やらんべえい……! にひい! にひいよ……!」
――な、なにを……言っているんだ……。
「ええんべ! ええんべ! やらんべい! おっべんさあ!」
――な、仲間に……なれということなのか?
もはや逃げ道はない。僕は唾を飲み込み、脇差の柄に右手を掛けた。
やるしかない。襲ってくれば、すぐに刃の峰で打ちすえる。
すると、中年男性は急に踵を返した。
奥の方で踊っている女性に近づいて、背後から抱きつく。
そのまま相手の脇に腕を差し込み、身体を軽く持ち上げて、円を描くように回す。
一団はようやく歩き始め、僕たちの前を通り過ぎていく。
向こうから歩いてくる旅人がいれば立ち止まり、狂った踊りを見せつけている。
彼ら彼女らの背中は、だんだんと遠ざかっていった。
先程の緊張が残っている僕は、深い息を吐き出す。
「こ、怖かった……。今までで一番、怖かったかも」
「おケガはありませんか、ミナト様」
「う、うん。クオン……見た? おじさん……すごい化粧をしていたよ」
「あれ以上ミナト様の顔に近づいていたら、私が成敗していました」
「女の人も……すごく露出していたよね。いいのかな、あんなに乱れて」
「雅ではありませんでしたね」
「怖かったけど……でも、みんなで騒いで楽しそうだったね」
「あの輪に入りたかった、ということですか」
「まあ……ほんの少しだけね。外から見ていると怖いけど」
「ダメです……!」
その怒声に身体が少し跳ねる。
「な、なに。急に大声出さないでよ」
「絶対にダメです! 私は認めません!」
「どうして……」
クオンは勢いよく頭を振ってから答える。
「よいですか! あのようなものには不適切な交わりというものが付きものなのです!
あの方たちは、これから酒宴を開き、みんなで交わるのですよ!」
「それは……一部の人だけじゃないの?」
「いいえ……! 違います!
農村に住む者たちは、日頃の鬱憤を晴らすために祭や宴を大切にしています!」
「まあ、そういうことも……あるんだろうけど」
「農民のおなごも乱れるのです!
武家の娘たちのように、純潔を守ることや貞操観念があると思わないでください!」
いつにも増して熱が入っている。彼女の紅い瞳も濃くなっているような気がした。
「それは言い過ぎだね。乱れない子もいるよ」
そう言って歩き出しても、後を追ってくる気配を感じない。
振り返ると、俯き加減のクオンの姿があった。
「どうしたの? 行こうよ」
「――ですか」
「え?」
「みんなと交わりたかったのですか!?」
「ち、違うよ……!」
「ああ……! ミナト様が汚いおじさんと!」
クオンの大声で、大きな背負い籠を揺らす農民男性が立ち止まった。
ひょっとこのような顔で僕たちを見ている。
「静かにしてよ。おじさんだけじゃないし、女の子もたくさんいたでしょ」
「不潔です! あのように汚いおじさんと!
私は絶対に認めません……!」
「な、なんで、おじさんにこだわるのさ……」
「男女は関係ないのです! 相手も関係ありません!
あの手の者たちは、とにかく乱れるのです!
ミナト様が! あのような汚いおじさんに……!」
クオンは先程の「ええじゃないか」の踊りと同じくらいに狂っていた。
一つ違うのは、彼らは内に秘めた怒りを偽りの笑顔に乗せているということ。
クオンは表に出さなくても良い怒りを声に乗せているということだ。
頭上に広がる空の青さに似合わない、彼女の下品な話は続いた。
*
町に入ると違和感を感じた。
どこか騒がしい。人々の姿ではなく、その内面が。
随分と幕末の生活にも慣れたから、空気感で何となくわかる。
「なんか……お祭り前の感じが町からするね。祭りの時期じゃないのに」
「それはミナト様が変態だからです」
「もういいよ、その話は」
「な、なんですか! もういいって!
私はミナト様が汚されないように、心配しているのです!」
「いいよ。なにもなかったでしょ」
「はっ……!」
クオンは身を仰け反らせて、大きく目を見開いた。
「なに、どうしたの」
「私がいなければ一緒に付いて行けたから、そのことを不満に感じているのですね!?」
「もういいって。おもしろくないよ、その話」
目を見開いていた彼女は急に顔を伏せて、その場にうずくまった。
美しい銀髪が僕に向いている。
「早く行こう。家で休もう、歩き疲れたよ」
「私は行けません」
「どうして……」
「話したくないと……言われたからです」
「言ってないよ、そんなこと」
「おもしろくない……おもしろくない者とは話したくない、と」
「おじさんの話がおもしろくないってこと」
「もうダメです……」
「ほら、帰るよ、クオン――」
言葉を続けようとしたときだ。
頭上から白い紙が降ってきた。
ひらり、ひらり、ひらり。
風に乗り、ゆっくりと地面に落ちる。
一枚だけではない。何枚も。何枚も。空から降ってくる。
砂埃が付いた長細い紙を手に取ると、そこには謎の文字が墨で書かれていた。
一文字のみだ。梵字だろうか。僕と同様に、紙を手に取る者たちも多くいる。
「ねえ、クオン」
「もうダメです……私は――」
「いや、そうじゃなくてさ。これって、なんて書いてあるの?」
彼女は静かに顔を上げ、涙を浮かべた紅い瞳で紙を見つめる。
「見慣れない字だけど……梵字かな?」
「…………。いいえ、梵字ではありません」
「他の国の字?」
「それも違います。私が知る限り、既存の文字に当てはまりません」
「じゃあ……なんなんだろ。子どもが書いたのかな。
それにしては、きれいな字だけど」
クオンは地面に落ちている他の紙に目を向けた。
「なにかの目的で、独自の文字を使っているのかもしれません」
「なにかの目的……ああ、間者とかって――」
鋭い視線を感じた。ひんやりとした刃で、首元を撫でられるかのように。
すぐに振り返り、左右を見渡す。纏わりつく不快感が身体に広がる。
「上です、ミナト様」
クオンの声に促され、家の屋根に目を向けた。
魔除けの意味が込められた鬼瓦の隣に、人の影がある。
逆光によって、うっすらとした輪郭しか判断できない。
額に手を翳し、目を凝らす。
その人物は紙の束を持っていて、何枚も宙に投げている。
ひらり。ひらり。ひらり。
屋根の上にいる人が立ち上がると、太陽の光はすぐに遮られた。
見たことがある。
傷んだ黒い着物。表情を隠す黒い手拭い。
以蔵ちゃんに助けられた京の暗い路地を思い出す。
「クオン……」
「はい。おそらく、あの時の人ですね」
寒気が背筋から頭に突き抜ける。
屋根の上に立つ人の口元は、にやりと左右に引かれた。
手の動きは変わらず、静かに紙を散らしていく。
「クオン。離れたほうが――」
僕が言いかけた瞬間だ。どこからともなく大きな声が町の中に轟いた。
「ええじゃないか……! ええじゃないか……!」
それを皮切りに、複数の声が次々と連なっていく。
一文字だけ書かれた紙は、今も空から降り注ぐ。
手に取って訝しむ者もいるが、大義名分を得たかのように狂乱する者もいた。
「ええじゃないか! よいじゃないか……!」
辺りは絶え間ない声によって、埋め尽くされていく。
陽の光に目を細め、再び頭上に目を向ける。
黒い着物の女性は、すでにいなくなっていた。
胸焼けしたときのような突っかかりを喉に感じる。
吐こうとしても吐き出せない、そのような感覚だ。
息を吸い込み、クオンに問いかける。
「あの人って、どこかで会ったこと……あるかな。
以蔵ちゃんが助けてくれたときじゃなくてさ」
すでに立ち上がっているクオンは、淡々と答えた。
「私の記憶と合致する人はいません。顔が手拭いで隠れてはいますが……。
前に会ったときの声と雰囲気から判断しますと、あの時が初めてです」
「そっか……そうだよね」
「なにか気になりますか?」
「うん。前に会ったときも……なんか気になったんだよね」
僕は周りに目を向けた。狂乱に加わらない町の人も大勢いる。
眉を下げた顔は呆れているというより、さまざまな不安が表に出ているような気がした。
まるで、近々起こる大政奉還を予期しているかのように。
日本で一番長く続いた武家政権は、有終の美を飾ることなく幕を閉じる。
異国の存在。時代の混迷。志士の決起。
徳川家として生き残りの道を模索し、政権を朝廷に返上する。
二百六十年以上続いた徳川の世が、もうすぐ終わる。
「ええじゃないか……!」
空の下で不気味に響き渡る声は、僕の耳から離れなかった。




