幕間 ミナト
アスファルトの上を転がる。そこに生まれたのは周囲の悲鳴だった。
この声は大人になった今も耳に残っている。
倒れた僕は身体を起こし、すぐに周囲を見渡す。
僕たちがよく通うパン屋に自動車が突っ込んで、ボンネットは無惨に潰れていた。
少し離れた場所に人が倒れている。すべての感覚が無くなる気がした。
いつも隣にいてくれる人が血に濡れていた。
「クオン!」
すぐに駆け寄り、血だらけのクオンの顔を覗く。
「おケガは……ありませんか……ミナト様」
「クオン……!」
暴走した老人の自動車から僕を庇って、彼女は轢かれた。
小学五年生の頃だ。
人がいればセンサーが反応し、自動車の運転は強制停止する。
それに自動運転機能を使わない者など、ほとんどいない。
老人は自らの手で運転し、安全装置まで解除していた。
そして……事故の記憶はない、人は轢いていない、と容疑を否認し続けた。
周囲の人が呼んでくれた救急車で、僕はクオンと共に病院へ向かう。
血に濡れた彼女は治療室に入ることなく、一般の病室のベッドに寝かされた。
「ミナト様……おケガは――」
「ないよ……! ぼくは大丈夫だよ!」
僕の安否を気遣うように彼女の瞳は動く。
血が少し乾いて、震える手を僕に向けた。その手を労るように、祈るように、掴んだ。
背後にある扉の動く音がした。
ポケットに手を入れた医師と無表情の看護師が病室に入ってくる。
「きみの親御さんには連絡した。もうしばらくしたら、来るだろう」
眼鏡をかけた鋭い目の医師は、そう言った。
「クオンのこと……早く治してください」
「それは無理だ」
「どうして……」
「彼女は人工生命体だ。治療には所有者の許可が必要になる」
「そんな……で、でも……クオンが……」
「親御さんに言いなさい。人工生命体の治療には莫大な金が必要だ」
医師は固めた黒髪に指を通す。
僕が反論する前に、医師と看護師は踵を返し、足早に病室から出て行った。
「クオン……痛いよね」
「大丈夫……です。ミナト様は……大丈夫ですか?」
「ぼくは大丈夫だよ。クオンが……クオンがたすけてくれたから」
背を丸めて彼女の手を握る。
いつもの温もりのある手は、冷たさを持っている気がした。
一時間くらい経った頃だろうか、父が医師と共に病室に入ってきた。
「なにやってんだよ。高い金を払って買ったのによ」
「父さん……! 早くクオンのことをたすけて!」
医師は父に耳打ちした。
彼を一瞥した父は眉間に皺を寄せ、口から息を抜く。
「はっ……そんな金を払うなら、新しい人工生命体を買ったほうがいいじゃねえか」
「父さん……!」
父は僕に目を向けることなく、隣にいる医師の肩を二回叩く。
「廃棄しておいてくれ。あれか……検体にしてもいい。あとは好きにしてくれ」
病室の扉を引く父の背中に、僕は声をぶつける。
「父さん……! たすけて! お金をはらってよ!」
振り返った父が僕に向ける瞳は、酷く憐れみを持っていた。
「お前さ……そういうのやめとけ。意味がねえよ。
人工生命体なんて、所詮は道具なんだよ」
「そんなことないよ!」
「いいか? 家電が壊れたら新しい物を買う。
わざわざ修理してまで使うのか? 新しい物を買うより高くつく修理費を払うのか?
お前はそんな簡単なこともわからないバカじゃないだろ」
「おねがいします! たすけてください!」
「新しいの買ってやるから、それでいいだろ。じゃあな、俺は仕事に戻る」
病室に取り残された僕に、医師は抑揚のない声で告げた。
「さあ、対処は決定した。彼女は廃棄処分だ。きみは家に帰りなさい。
病院も暇ではない。病室を空ける必要もある」
医師は外に出ていこうとする。
僕は彼の腰回りの白衣を強く引っ張って、頭を下げた。
「おねがいします! クオンのこと、たすけてください!」
「触らないでくれ」
医師の目は水溜まりにできる薄氷のようだった。
「廃棄処分が決定したんだ。
さっきも言っただろう。所有者の許可無しに治療はできない」
「そ、そんな……」
「手を離しなさい」
「たすけて……ください」
彼は長く息を吐き出した。
「いいか。命の価値とは各々違う。重い、軽いは個人によって変わるものだ。
人工生命体は人と同じ命であるか、という議論は今は不要だ。
きみにとっては特別でも、きみの父親には『壊れた物』でしかない。
私にとっても同様だ。ビジネスにならなければ助ける必要がない」
「お医者さんですよね!? お医者さんなら……たすけてください!」
僕が掴んでいる白衣を勢いよく引かれた。
指先にあった繊維の感触はなくなるが、気持ちを引くわけにはいかなかった。
「たすけてください!」
「きみは……あの人の息子なのだから、小さな頃から英才教育を受けているのだろう。
そこでは教えてくれないのか? いや……教わるまでもない。
聡明な人間が、物事の本質に気づかぬわけがないのだから」
蔑む目ではない。
あらためて理解させようという意思が滲んでいるように見えた。
「でも……そう言うなら……」
「なにかな」
「お医者さんは……命をどう思っているんですか」
「すべての命は等しくない。救う命と救わない命がある。
それは当たり前のことだ。なんらかの利がなければ、助ける理由も意味もない」
「目の前で人がたおれていても……ですか?」
「そうだ。医療は慈善事業ではない。まっさらな善など、この世にはない。
『患者のために』などというのは、表向きの綺麗事だ。
そこにはいつだって利益や欲があるものだよ。今のうちに知っておくといい。
金があるからこそ、金が動くからこそ、医療というものはある」
「でも……お医者さんは人を――」
「簡単なことだ。医療を施して対価を得られなければ、誰もやらないさ。
今の社会であれば金による対価だ。遥か昔であれば物による対価も同じだ。
金も物も一切得られない状況で、助ける者がいるのだろうか。
自分が無一文で、なにも貰えないとして、きみは誰かを助けるのか?
すぐに自分が死ぬ。それは誰も助けられないことと同じだ」
何と言われても納得するわけにはいかなかった。
何度も同じ言葉を繰り返すしかなかった。
「クオンのことをたすけてください!」
「助けたければ、自分で助けなさい。
他責思考、他力本願、よく考えてみるといい。
己の無力さを棚に上げて、人を非難することの愚かさを知りなさい」
そう言い放ち、彼は静かに出て行った。
立ち尽くす。唾を飲む。言葉が出ない。
意識が遠ざかるような感じがした。
「ミナト様……」
すぐに振り返る。クオンはいつもと変わらぬ微笑みを浮かべ、僕を見ていた。
「ミナト様……申し訳ございません」
「え……」
「膝のところ……破けています。本当に……おケガはないのですか?」
僕の頬に涙が伝う。何もできない無力感が身体を叩く。
クオンの手を握りしめていると、濃紺の制服を纏う三人の男性が病室に入ってきた。
警備員の人工生命体だ。
僕は肩を掴まれ、病室から追い出されそうになる。
「はなしてよ! クオン……! クオン……!」
警備員に両脇を抱え上げられて、病室の扉が目前に迫る。
振り返ると、警備員の肩越しにクオンが見えた。
彼女はベッドの縁を押さえ、身体を大きく震わせて起き上がった。
簡易処置として貼られたガーゼから、大量の血が滲んでいる。
「ミナト様に……乱暴に触らないでください」
「クオン……!」
「ミナト様に……触らないでください!」
クオンはベッドから床に落ちた。
指先の色が変わるほど強く床を掻き毟り、這いずりながら僕の方に進んでくる。
磨き込まれた白い床には、真っ赤な血の跡が引きずられていく。
「ミナト様、今……助け……ます」
「もういいよ! クオン! 動かないで……! もういいから!」
僕は病院を追い出された。
ガラス張りの広い玄関が目の前に広がる。
診療時間は過ぎていて、人気はない。
煌々とした照明設備に照らされる大きな建物が僕の無力さを見下ろし、そびえ立つ。
冬の夜空から雨が降り出した。
一気に大雨となって、僕の心身をあっという間に濡らしていく。
「たすけて……ください」
誰にも届かぬ声。小さい身体から捻り出す声。雨に濡れていく声。
涙が次々とあふれる。
「たすけて……たすけてください! だれかクオンのこと……たすけてください!」
ガラス張りの向こう側から、看護師らしき人がこちらを見ていた。
僕が駆け出そうとした瞬間、相手は背を向け、歩いて行ってしまう。
濡れたアスファルトの上に膝をつく。
そのまま両の手をついて、雨が溜まる細かい溝に額を擦りつけた。
「たすけてください……! クオンのこと! たすけてください!
おねがいします! おねがいします……!」
背中を無数の雨が叩く。
地面は独特の甘い匂いと、つんとする刺激臭があった。
何度も懇願する。クオンを助けるためであれば、何度だって頭を下げる。
当時の僕には、それしかできなかった。
真摯に頼み込むときは、地面に頭をつける。
時代劇の映像で見たことがあった。それを見せてくれたのもクオンだ。
「たすけてください!」
しばらく、叫んでいた。
ふと、身体を打つ雨が止んだ。いや……違う。
大地を叩きつける雨の音は変わっていない。
視界に入ったのは雨粒を弾く黒い革靴だ。
顔を上げる。そこには白髪頭の男性が黒い傘を持って立っていた。
柔和な顔つきだ。僕を見て、優しく微笑んでいる。
「さあ、病院の中に入って。ここは寒いでしょう」
「おねがいです! たすけてください!」
「ええ、大丈夫ですよ。オペ室へ運んでいます」
「た、たすけてくれるんですか!?」
大声を出した僕に対し、男性は口元を上げ、目尻に皺の入る顔を縦に振ってくれた。
「はい。私が執刀しますよ」
胸を撫で下ろす。僕に乗っていた、その重さ。
何体もの地蔵を背負っているように感じた。
男性は雨で濡れた僕の身体を気にせず、背を支えて優しく起こしてくれる。
「さあ、中に入りましょう」
そう促されて、二人で病院の玄関に向かう。
「人のために動くことができる。素晴らしいことですね」
正面を向く男性が言った。彼の眼差しは僕に向けられる。
「この病院の院長をしている池波といいます」
「ぼくは……ミナトです」
頭を軽く下げると、ちょうどよく自動ドアが開く。
池波さんは中に入らず、足を止めた。
手を引かれていた僕が顔を上げると、彼の垂れていた目は丸くなっている。
「ミナトくん……ですか」
「はい。あ、あの……!」
僕は院長の様子を気にせず、矢継ぎ早に続けた。
「お金はなくて……でも、これから大人になったら必ずはらいます!
だから……クオンのことをたすけてください!」
「クオンさん……患者さんの名前ですね」
「はい! おねがいします……! 必ず、必ずはらいます!」
池波さんは瞼を閉じ、黙った。
ゆっくりと、大きく頷いてくれる。
「お金はけっこうですよ」
「え、でも……」
「私は私の独断で動きます。これは私が院長だから、できることですけどね。
私も……きみのように真摯でありたいですから」
準備が整い、オペ室に入る前、池波さんは振り返った。
不安で押し潰されそうな僕に、朗らかに言ってくれた。
「私が助けますよ」




