高杉晋作 9
*
寝床にいると、板張りの廊下から足音が聞こえた。
ひた、ひた、ひた。ひた……ひた。
月明かりに照らされた障子には、妖しげな人影が蠢く。
しばらく見ていても、相手は障子の細い桟に手を掛けたままで動かない。
「入ってきな」
私が言うと、障子が音を立て、静かに動く。
そこに立つのは、今日という日の最後の訪問者だ。
座敷の行灯の灯りは畳の上を這って、壁に広がる。
「夜分に押しかけるなんて……ずいぶんと無礼だね」
「申し訳ございません。
ですが、客人に寝たまま挨拶することも無礼であると私は思いますよ」
そう言ったのは、黒い着物、黒い手拭いを被る女だ。
「客人……か。刺客の間違いでしょ」
「あなたは……変わりませんね」
「座りな。虫とか落とすなよ」
畳に正座した女の表情は窺えない。
座敷は互いの息遣いが聞こえるほどだ。そこに虫の鳴き声が紛れ込んでくる。
「なにしに来たの。私を殺しに来たのか? それとも……私に話があるの?」
「どうでしょうね」
女の口元はいやらしく上がる。
「あんた……私に詫びることあるんじゃない」
その一言で座敷に緊張の糸が張り巡らされた。
「詫びること……ですか。おかしなことを言いますね」
「暗躍してるだろ……あんた」
「さあ……なんのことでしょうか」
「とぼけるな……私は知っているからね」
目の前の女がしてきたこと。
それは予想の範疇を飛び越えないけれど、引かれた線に限りなく近いはずだ。
そうであれば、問いたださなければいけない。
「あんたが……やったんだろ」
「なにをですか」
「吉田稔麿。久坂玄瑞。入江九一。あいつらの死に関わってるんじゃないか」
凛とした佇まいで座っている女は、小さな声を出す。
「そうだとしたら……どうされますか?」
悪びれる様子もなく、淡々と言い放った。
「私が……あんたを止める。それが最後の役目だ」
「できませんよ。弱りきった、そのお身体では。
柳生新陰流の免許皆伝とはいえ……。
私と争うには、ずいぶんと難儀なことであると思います」
「私は……負けたことがない。いつだって負けないからね」
腕に力を込めて、重い身体を起こす。
震える指先で懐を探り、クオンから貰った薬を暗闇から灯りの下へ出す。
薬包紙を広げ、口に含み、枕元に置いてあった水差しで胃に流し込む。
「つらそうですね。寝ていたほうがよいですよ」
「いらぬ……心配ね」
座ったまま呼吸を整えていると、全身が火照ってきた。
血が躍る、あの頃のようだ。
手を握りしめる。昔の半分くらいだろうが、それでも近頃の私の身体とは違う。
べぎん……。
一つの音が座敷に響いた。
音の出処に目を向けると、女が萎びた大根を持っていた。
二つに割れた、その片方を私に差し出す。
「それが……見舞いの品なの?」
女は無言だ。大根の断面は水分が滲み、うっすらと光っている。
「せっかくだけど、近頃は喉を通らなくてね」
「そう……ですか」
「あんたさ、どういうつもりなの」
「どういう、とは?」
「あいつらの死に関わってるんだろ」
私に向けられていた大根は、静かに畳の上に置かれた。
もう片方の大根が女の懐に捩じ込まれる。
私の身体は、さらに熱を帯びてきた。
「話は聞いている。あんたが京に潜伏していること。
『黒き物乞い』と一部の者たちから呼ばれている。
新選組もあんたのことを探していると聞いたことがあるよ」
「誤解です。自らの手で殺めたわけではありませんよ。それは私の流儀に反しますから」
「殺したのか、はっきりと言え」
「今の話を理解されましたか? 私が『殺した』わけではありません」
「それを答えとして受け取っていいのか」
「どうでしょうね」
足に力を込めて立ち上がる。膝は震えるけれど、動かすことはできる。
身体が熱を帯びているからか、近頃の身体とは様子が違う。
――クオン。ありがとね……戦えるよ。
座敷の刀掛けに手を伸ばす。愛刀を手にするのは久しい。
鞘を握り締めると、刀を自由に振るっていた頃の想いが手のひらから染み渡る。
歓喜も。悲痛も。惨劇も。
苦楽を共にしてきた刀だ。
「脇差なら貸してあげようか」
背を向けたまま女に伝えると、鼻から息を抜く短い音が聞こえた。
「必要ありません。私は斬り合うつもりはありませんから」
「戦いから逃げるのか?」
振り返ると、彼女は背筋を伸ばして私を見ていた。
「違います。争うための道具が別である、ということです。
刀ではない。私は頭で戦っているのですから」
そう言って、人差し指の先で二回ほど、こめかみを叩いた。
「そう……か。一騎討ちから逃げるのね。恥を知れ、俗物め」
暗い中でもわかる。
内に秘めた重い感情を滲ませ、歯を食いしばっているのだろう。
そして……獣のように威嚇する牙を持ち合わせていることも、よくわかる。
「かつてのあなたは、多くの志士の先頭に立ち、勇ましく刃を振るっていた。
ですが……今の身体で戦うのは無理でしょう」
「卑怯者の相手には、これくらいがちょうどいいんだよ」
「そのようなことしか言えないのですか。私がじきじきに戦う理由はありませんよ」
私は着流しの帯に打刀と脇差を差し込む。
刀掛けのすぐ下に置いていた短銃を掴み、彼女に見せる。
「ほら、短銃だ。これなら使えるか?」
「使いません、そんなものは不要です」
私は開け放たれた障子から、外に向かって短銃を投げつける。
土手のほうまで飛んでいったのか、草に落ちる軽い音がした。
長めの息を吐き出し、女に向かって言う。
「怯えて震えているだけなら、外に出ないで布団を濡らしておくだけにしな。
――泥水を吸い上げて腐った花は美しくない」
「なんだと……」
女の口元が歪んだ。頬が細かく動いていることが暗がりでもわかる。
「このまま退くなら、己の弱さを認めて、私の草履を懐で温めな」
「誰もがあなたに付き従うと思っているのですか。それは傲慢というものです」
「逃げるな。さあ、表に出な」
「それほど……戦いたいのでしたら、お相手しましょう」
「決断が遅いんだよ、鯛のあら煮」
二人で外に出た。
春の陽気とは全く違う、冷たい空気が私たちの周りを包む。
互いに裸足で、無言のまま月明かりの下に立つ。
夜空には無数の星が光る。澄んだ空気を大きく吸えるのは久しぶりだ。
女は腰に手を回し、帯から何重かの和紙に巻かれた物を抜いた。
毟り取るように和紙が千切られて、出刃包丁が顔を出す。
刀身は錆びついているのか、月明かりに照らされても光を返さない。
刃は虫食いのように欠けていた。
「あんたに相応しい立派な業物だね」
「本当にやるのですか」
私は鯉口を切り、すうっと抜いて刃に月を映す。
正眼に構えると、口を開けずに咳き込んでしまう。
身体は確かに動くが、すっかり傷んだ肺はそうもいかないようだ。
「刀を抜いて向かい合ってるんだから、斬り合う以外になにがあるってのさ」
「あなたの死期を早めるだけでしょう」
「菜っ葉も切れないような包丁で私と戦えるのか。間合いも圧倒的に不利だ」
「懐に入り込めば、関係ありませんよ」
「そう……か。志は関係あるけどね。大義を知らぬ者には、よく似合ってるよ」
包丁が横一文字に振られ、僅かに見える女の瞳は私を睨んだ。
「大義を知らぬだと……私のことを知らぬ者に言われたくない」
「さあね。でも、今の反応でわかるさ。
駄々をこねる幼子のような……泣き虫女のことはね」
「愚弄するか……」
じりじりと間合いを詰めて、互いに様子を窺う。
ひんやりとする地面が足裏を刺す。砂と皮膚が擦れる。
月明かりを遮るように女が飛び込んできた。
振りかぶった刃は私の顔に影を作る。
動くことを忘れていた足腰を奮い立たせ、半身で躱す。
身を沈めた女の口元が微かに動く。足元を這う刃が空間を切り裂き、喉元に迫る。
右肘で女を突き飛ばし、同時に後方へ飛ぶ。
足の骨が軋み、肉は無数の棘が刺さったように痛む。
「惜しいですね……あと少しで、あなたの首から血があふれ出たというのに」
「戯言ね。斬らなきゃ意味がない。そんなことで喜ぶ様が弱い証だ」
女は地面を蹴り上げて、こちらに駆けてくる。
すっ、と視界から消えた。
女が沈む。
地を這うような脛蹴りが私の足首に食い込む。
体勢を崩さずに踏ん張り、下にいる女目掛けて鋒を突き立てる。
身を捩らせた相手の肩を貫く。しかし、肉の感触はない。刃は黒い着物だけを裂いた。
女は得体の知れぬ生き物のように上体を起こし、包丁が私の首元に迫る。
顎を月に向けて躱し、刀を横に薙ぐ。
私の刀は女の傷んだ着物を裂き、再び間合いが離れる。
少ない動きであるのに、呼吸が荒い。血は激しく体内を走る。
どれくらい持つのだろうか。せめて……もう少し。あと少しだけ。
包丁の刃を指先で撫でる女は、小さく溜め息を漏らす。
「満身創痍ですね。まだ続けますか?」
「気にするな。あんたの減らず口に、私の刃を刺さないといけないんだから」
「あなたは死ぬことを確信している。だから、最後に刀を手にした。
かつての栄光にすがるように。かつての己に救いを求めるように。憐れなものです」
女は、ずいっと首を前に出した。
「あなたの大義は……もはや失われています」
「あるさ。今も変わらず、心に置いてある」
「そうですか。ぜひ、教えてください。あなたの大義とは……なんですか?」
「言うつもりはない」
「なぜですか。成せぬことと知り、口にはできなくなりましたか」
「私は……語らずとも見せてきたつもりだよ。
己の一生をかけて、松陰先生と友の意志を継いだ」
「それも……露となって消えますね。どのように感じますか。
大いに暴れていたはずが、今は無力。抗えなくなった、その心の内は」
咳が飛び出す。何回も。何回も。
女から目を逸らさず、着流しの袖で口元を拭うと、衣からは鉄の匂いがした。
「こういうのも……悪くないよ」
「強がりですね。弱くなった己を認めたくないのでしょう」
女は首を回し、月に向けて無防備に顔を上げた。
「私がいなくなっても……その志を受け継いでくれる者がいるからね」
「誰ですか。あなたの志を継いでくれる者とは。
託せるとしたら……前原一誠さんですか。あなたとは少し違うと思いますよ」
「そうだね。一誠さんは身近な人たちに誠を尽くすから」
しばらく沈黙した女は、夜風に乗せるように深い溜め息をついた。
「まさか……伊藤俊輔ですか。
やめてください、あのような俗物。他の者も……同じです。
松下村塾の傑物たちから見れば、天と地ほどの隔たりがあるでしょう」
「さあ……誰だろうね。私にもわからない」
「愚かですね……己の義を貫けなくなる、それを隠すための言葉です。
――私が長州藩の高杉晋作に幕を引きましょう」
「やれるものなら……やってみなよ、鯛のあら煮」
月が夜空に浮かぶ。何度も刃を交え、斬り結ぶ。
女は私の刃をいなす。刃こぼれしている包丁が着流しを掠める。
虫の鳴き声に混ざり、鋼と鋼の罵り合う音が木霊する。
髪を振れば、汗が飛んでいく。
私はいつの間にか笑っていた。
咳き込めば、口の中は微かな血の味がする。
瞬き一つ、女が懐に飛び込んできた。
胴を狙う包丁を避けて、女の腕を掴み、首根っこを刀の柄頭で強く打つ。
小さい唸り声と同時に、腹を蹴り上げる。肉にめり込む感触が伝わった。
後頭部に重い衝撃が走る。女は軽やかに身を翻し、死角から私の頭を蹴った。
共に後ずさりする刹那、私の刃は女の黒い着物を斬り裂く。
互いに息は荒い。吐息は風に混ざり、口元からは血が垂れる。
「なぜですか」
「なにが」
「今……あなたが下がらずに踏み込んでいたら、私は斬られていたかもしれません」
「それはわかるんだね」
「ふざけるな……情けをかけて……私を愚弄するのか!」
女の怒声は、背後にある山の隙間に入り込んでいく。
「どうした、急に子どものように叫んで」
「黙れ……! そんなに偉いのか! きさまらは……そんなに偉いのか!」
「夜は静かにしな。癇癪持ちのクソガキが」
女は頭に被っていた手拭いを上にずらした。包丁を構えて突進してくる。
私の右に飛び込み、身体を反転させ、背中から現れたかのような包丁が顔を出す。
刀で受け止め、じんと痺れた手で下へ押し込む。
足払いで女を倒し、脇差を左の逆手で抜く。女の細い首に刃を押し当てた。
引けば肉は斬れる。押せば肉は斬れる。
立て膝をついた私は、女の顔を見下ろす。
哀しいような……怯えているような、そのような顔をしていた。
手に込めた力を緩める、その瞬間だった。
全身の力が急に抜けた。
咳き込み、打刀を握り込んだままの拳を口元へ当てると、手と柄が血に染まる。
次いで、女の首に押し当てる脇差が地面に落ちた。
息ができない。口に血が溜まる。
仰向けになって倒れ、意識が遠のいていく。
――まだ……もう少し……。
どれくらい、そうしていたのだろうか。虫の讃歌が私を呼び起こす。
意識が朦朧とする中で横に目を向けると、戦っていたはずの女が座っていた。
「なぜ、刃を止めたのですか。
病であるとはいえ、あのまま刀に身体を乗せていたら、私の首は斬れていましたよ」
「ああ……そうだね……」
「己が死ぬから、命というものに畏怖を感じたのですか」
「さあ……ね。どうだろう。ただ……お互い様じゃないか」
「どういうことですか」
「本気でかかってこない女に、勝機は一つもないということだ」
「…………」
腕は上がらない。力が入らない。指先も。足先も。
確かに感じるのは、冷えた地面が背中を突いているということだけだ。
私は隣で座る女に目を向けた。
「もう……やめな」
「あなたに言われたくありません」
「暗い道を歩くなんて……寂しいもんだろ」
「あなたには……わからないでしょう。腐った水を啜ることの虚しさが。
太陽が消えてしまう……その恐ろしさも、その痛みも、その苦しみも」
静かに立ち上がる彼女は、私を見下ろした。
黒い着物からは、深い痛みと強い恨みが立ち昇っているかのようだ。
女は私の脇を通り過ぎていく。
「もう……やめな」
土で汚れる女の裸足が止まった。
「あなたは……やめましたか」
彼女の声は仰向けになった私に降る。
「あなたは人に言われて……己が決めた道に背を向けましたか。
あなたの今までの生き様に、一つでも偽りがあったのですか」
今日は昔話を多くされる日だ。ミナトからも。俊輔からも。
咳き込むと同時に、笑いが込み上げてくる。
「それも……そっか。確かに……私が言えたことじゃないね」
女の細い足は動き出す。足音は遠ざかっていく。
冷えた夜風が吹きつける。
それらに混じって小さい、小さい声が聞こえた。
「さようなら……」
黒い着物に黒い手拭い。それは誰も知らぬ暗闇の中に消えていく。
「じゃあね……大バカ……女」
独り言と笑いによって、口から血が出る。
「そうか……私も同じか……」
静かな夜。うすら寒い夜。誰もいなくなった夜。
夜空に輝く月が私を見下ろしている。
――松陰先生。松下村塾のみんな。
――私は……しっかりと歩めたと思う。
夜の中に無数の光が浮かぶ。自然の香りが鼻を優しく撫でる。
美しい。日本は美しい。昔から変わらない。
四季折々の宴は、いつも私の隣にいてくれた。
虫の鳴き声も、葉の揺れる音も、風が踊る音も。
私にとっては子守歌だった。
浅い呼吸は大地に馴染んでいく。
身体は静寂という海の中をゆっくりと泳ぐ。
――後のことは頼んだよ、みんな。
――大丈夫だよ。あんたならできるさ。
――逃げても隠れてもいい。でも、戦いな。怖くても必ず戦いな。
――立ち上がれ。そういうときが人にはあるから。
――大丈夫だ、一人じゃない。怖いんなら私が見ててやる。
――あんたが笑って生きられる世の中にしてみな。
――泣いてる人がいるなら、手を引っ張ってやれ。
――巨悪がいるなら、私の代わりに蹴散らしな。
――己の想いを見つけて。己の生き方を見つけて。己の大切な人を見つけて。
――笑って……生きな。
――あー、おもしろかったなー。
――うん。楽しくて……良い人生だった!




