高杉晋作 8
*
縁側には穏やかな風が吹きつける。
ミナトとクオンは藩医に薬を渡す約束があるそうだ。
懐かしい顔を見て、久しぶりに笑うことができた。
二人を抱き寄せたけれど、悟られないように己も涙を流したのは滑稽かもしれない。
縁側に座っていると、騒がしい声が土間の方から聞こえる。
ミナトとクオンが帰って、日が少し傾いた頃合いで彼女は現れた。
「高杉さーん! お饅頭ありましたあ!」
俊輔はいつものように勝手に食べ物を漁っていた。
私の前には彼女が淹れてくれた、湯気の立つ茶がある。
飲めないほどに熱いはずだ。俊輔はそういうところを気にしない。
縁側に戻ってきた彼女は盆を使わず、手のひらに饅頭を乗せていた。
左手に二個、右手に三個。口には一つの饅頭を咥えている。
含み声で彼女は言う。
「私は四個、高杉さんは一個でいいですよね!?」
左手に乗せた饅頭を向けてくる。
溜め息を漏らすと同時に、咳き込んでしまう。
「あんたね……口に咥えている一個も数に入れなよ」
「ああっ……!」
「ああ、じゃないよ。私はいいから。全部食べていいよ」
「ふへへい! ありがとうございますう!」
縁側に腰を下ろした俊輔は、握りこぶしほどの饅頭をぱくぱくと食べる。
「よく……そんなに食べられるね」
「イエス! イエス!」
「身体に毒だよ」
「大丈夫ですよお! 私は日々、戦っているのでえす!」
「みんな……戦っているよ」
「私はみんなより働いていますからあ! お腹が空くのは仕方ないですよお!」
「それなら……こんなとこに来る暇はないでしょ」
ごくんと喉を鳴らし、熱い茶を流し込んだ俊輔は、満面の笑みを浮かべた。
「また、またー! 本当は嬉しいくせにい!」
「身体に障るよ……あんたの声は」
「ええ……!? そんなあ!」
「今日さ、ミナトとクオンが来てくれてね。久しぶりに会えて嬉しかった……よ。
あんたが食べてる饅頭もクオンの土産だよ」
彼女は眉を下げ、手にしている饅頭に指先が食い込む。
「そ、それは……! それは!」
「なに?」
「私の通訳としての地位を奪うということですかあ!?
薬売りのくせにい! 通訳までやろうとは、クオンちゃんは守銭奴だ!」
「守銭奴は……あんたでしょ」
「ふへへい……金と権力こそ、この世のすべてでえす!」
「悪いけど……少し横になるよ」
身体を横にし、縁側の板に側頭部を当てる。
すると、膝から先を外に出す俊輔が太ももをぱんぱんと叩き、笑みを浮かべた。
「いいですよお!」
「なにが……?」
「床で寝たら頭も首も痛いですよねえ。
傑物である伊藤俊輔のきれいな足をお貸ししますよお!」
「遠慮しておく……気持ち悪いからね」
「ええ……!? 気持ち悪いわけないですよお!」
そう言って、肺を病む私を強引に引っ張る。
病人に対する配慮の無さに苛立ちも生まれるが、そのようなところも彼女らしい。
萎れた野菜のように力は入らない。まったく弱くなったものだ、と自嘲する。
「離して……」
「どうしてですかあ!」
「あんたの手……ウナギみたい。ぬるぬるして。
ほら、なんか蒲焼きみたいな匂いもしてない?」
「や、やめてくださいよお!
私、異国でプリティガールと呼ばれているんですよお!?」
彼女の柔らかい太ももの上に頭を乗せて、庭を見つめる。
夕暮れの風は少し肌寒い。
しかし、俊輔の身体の熱が頭から伝わってきて温かった。
「ふへへ……」
「なに笑ってんの、気持ち悪い」
「こういうのも……いいなあって思ってえ」
「どういうこと」
ちらりと見上げると、俊輔はにやにやとしていた。
「前は高杉さんに振り回されていたのにい、今は私の膝で寝ているんですよお。
人生とは、わからないものですねえ」
「無理やりでしょ……なんか変な匂いする」
「や、やめてくださいよお……!」
「やっぱり……ぬか漬け茄子は臭いね」
「そういうこと言うんですねえ!? いいんですかあ!?
いいんですねえ!? 固い板の上に下ろしますよお!?」
「もう少しだけ……このままでいさせて」
「あ……えっと……はい」
茜色の空は燃えたぎる心のようで美しい。昔は身も心もたぎっていた。
今はそれを手繰り寄せることもない。掻き集めても手のひらに収まるくらいだろう。
今の呼吸は浅い。深く息を吸い込み、叫んでいた頃が懐かしい。
「ふへへ……懐かしいですねえ」
私の心を見透かされたような気がした。
彼女は私の上で笑みを浮かべ、小さく語る。
「異国の建物を燃やしに行ったときのこと。あの頃は……みんなもいましたねえ」
「あんたはいなかったでしょ」
「ええ!? ちょ、ちょっと待ってくださいよお!
いましたよお! むしろ一番! 一番働いていたじゃないですかあ!」
俊輔が食べている饅頭の欠片が落ちてきた。
「働いたって……。覚えてないよ」
「ああー! もう! もうっ! 私が一番活躍したんですからねえ!」
「そうだっけ?」
「火薬とか油とかあ! 私に運べ、運べって言うばっかりでえ!
高杉さんは火を点けるまで、遊んでいたじゃないですかあ!」
「うーん……」
「ひ、ひどい……! じゃあ、じゃあですね、これは覚えていますよねえ!
功山寺で兵を挙げて、藩の者たちと戦うことになったときのことを!」
ミナトも同じことを言っていた。
勝ち目がある戦だと誰も思わなかった。
それでも私たちは藩の体制を変えるために戦った。
勝つか、負けるか、二つではない。
勝つことは、もちろん重要だ。しかし……それ以上に大切なものがある。
苦難に立ち向かうこと。
松陰先生が私たちに教えてくれたのだから。
「それは覚えてるよ。あんた……誰よりも先に私の後ろに付いてくれたよね」
「当然ですよお。高杉晋作がいるところ、伊藤俊輔という傑物あり、ですからねえ」
彼女の顔は見えないが、得意げにしているであろうことは容易に想像できた。
「私が一番に敵陣に突っ込んだんですよお!
力士隊を率いて! その勇猛さときたら! もう敵は恐れをなしてえ!」
「力士の背中に乗って敵陣に突っ込んでいくのは、あんたくらいのもんだよ」
「そうですう! いけ、いけー!って! みんなが憧れたものですう!
あの戦で、伊藤俊輔は天下に名を轟かす者であると、誰もが確信したのでえす!」
「いいから……虚言は」
「そういうこと言わないでくださいよお!
――ふへへい、一番は馬関の講和のときですよお」
饅頭を口に詰め込み、咀嚼している姿は栗鼠と変わらない。
私の髪の毛に饅頭のアンコが落ちてきたけれど、特に咎めることはしなかった。
「あの時……高杉さんが彦島を異国に渡すな、って。私に言ったんですよねえ。
古事記を話せと私に言って。エゲレス語にするの難しかったんですからねえ!」
「…………。そういう癖、やめなよ」
「なにがですかあ?」
間の抜けた声だ。
庭に迷い込んできた黒い野良犬が一声吠えて、すぐに走り去っていった。
「己の話に装飾するな。やってもいないことをやったと思い込む。
私の病より……どうしようもない病に罹っているみたいね」
「や、やりましたよお……!」
「やってないでしょ。それは確実にやってない。
講和で通訳したのはクオン。古事記の話をしてくれたのもクオン。
まあ……後世で語られるのは、あんたみたいな小狡いやつなんだろうけどね」
「そんなあ! でもですねえ! 名を売った者が世の中で勝つんですよお!」
頭の上から茶を啜る音がした。
庭を見つめていると、どこからか鳩がちょこちょこと歩いてきた。
二羽の鳩が並んで、地面を這う虫を食べている。
一つが何かを得て、もう一つは消えていく。
「楽しかったですよねえ」
ふうっと吐き出す彼女の息が聞こえた。
私は身体を揺らして咳き込み、俊輔の言葉に耳を傾ける。
「私は……すごく楽しかったですよお。
松下村塾で学んだこと、みんなと遊んだこと。みんなで戦ったこと。
みんな……どうしているんですかねえ」
「そうだね……」
「私としては、ユリちゃんとかシオちゃんが稼いでいたら嫌なんですよねえ」
「どうして」
「だってえ、ああいう大人しい子に限って、見下してきたりするんですよお。
腹の中は黒い……漆黒だったりするのでえす。
だから、稼がれたら困るんですよお。お給金どれくらいなんですかねえ」
「シオは稼いでいると思うよ。あいつは……あんたよりもエゲレス語が達者だし」
「ええ!? シオちゃんって、そうなんですかあ!?」
「シオは藩に頼ってないけど……あいつなら難なく稼ぐだろうね。
金、金、と欲に目が眩むやつじゃないけど」
「やだなあ……稼いでいたらどうしよお。
シオちゃん、今頃なにしてるんだろ。私より稼いでいたら……嫌だなあ」
のんびりとした彼女の口調は心地よい。
風が髪を揺らし、庭先の樹木からは一つの葉が緩やかに落ちる。
「ねえ……俊輔」
「はあい?」
「新しい時代が……来る。西郷とかは武力で幕府を滅ぼすだろう。
でもね、その後に新たな問題も起こるはずだ」
「なんですかあ?」
「きっと反乱が起こる。それも一度や二度……じゃない。
討幕した者たちが、反旗を翻すことだってあるだろうね」
「ええ……!? そんなあ……!」
「うるさい。その時はさ……あんたが周りのやつらを止めな。
武力による弾圧ではなく、一度は話し合え。
これを頼めるのは……伊藤俊輔しかいないからね。
同じ志を持っている者を殺すのは……次の戦で最後にしな」
返事が私の耳に落ちてこない。
ちらりと様子を窺うと、俊輔は真っ直ぐに庭を見つめていた。
「俊輔……返事は」
「…………。高杉さんがいるから……大丈夫です」
「あんたね……私は――」
「高杉さんがいる! 長州の高杉晋作がいるから、日本は大丈夫なんですよお!
どうせ……どうせ……どうせえっ……!」
耳に突き刺さる声だ。酷く痛いのは彼女の大声のせいではない。
「どうせ……私に押しつけるんですよねえ!?
できないって言ってもお! だから、だから――」
私の頬に滴が落ちてきた。一粒、二粒、と。
「頼むなら、その時に言ってくださいよお!
それなら私……いっぱい働きますからあ!
だから……また一緒に立ち向かいましょうよお!」
「そうだね……ごめん。じゃあ、その時に……頼もうかな」
赤い空は縁側を静かに照らす。頬にも耳にも滴が当たる。
共に歩んできた。無謀な道を選ぶときも隣にいてくれた。
曲がっていたり、真っ直ぐであったり、そういう彼女だからこそ、始末に負えない。
初めて会ったときの俊輔は、とても汚れていた。
泥にまみれて、もじもじと松下村塾の門前で佇む。
俊輔と幼馴染みである稔麿が声をかけても、一言も返さなかった。
眉を下げる稔麿は俊輔の手を引いて、松下村塾の中に招き入れようとする。
だが、足を洗わぬなら座敷に上がるな、と玄瑞が冷たく突き放した。
俯いた俊輔は頬に涙を垂らし、小さく頭を下げて、逃げ帰ろうとする。
それを引き止めたのが、優しい笑みを浮かべる松陰先生だった。
先生は俊輔の泥足を濡れ手拭いで洗い、学問より先に握り飯を与えた。
勢いよく飯を食べて、喉を鳴らして水を飲む俊輔の姿を見て、私は目を細める。
こいつは並の者だ。いや、それ以下だ。
そう思ったと同時に、彼女の強かな腹の中も見えていた。
共に過ごし、俊輔の内側から表に出てきたもの。
出世欲、金欲。
門下生の中には、彼女の持つ剥き出しの欲を見下し、卑しいと言うこともあった。
しかし……それだけでは決してない。
私が最初に感じたことは間違っていた。
俊輔の志は、俊輔の頭は、俊輔の行動は、この先の国をきっと豊かにする。
己の腹だけを満たす者ではないからだ。
俊輔が持つ刃は……いつでも私を助けてくれたのだから。
「泣くな、俊輔」
「だってえ……」
私は浅い呼吸を繰り返し、静かに告げた。
「あんたは国を背負っていくんだ。その涙は民を思いやるためにとっておきな」
ずずっと鼻を啜る音がして、頬に涙が落ちてくる。
その後で咀嚼する音が聞こえて、ぱっと上を見てみれば、俊輔は饅頭を口にしていた。
笑みがこぼれる。彼女の緊張感の無さは昔からだ。
敵陣に斬り込んでいくときも、俊輔は握り飯を頬張り、指揮を執っていた。
「俊輔。この先……日本は異国と戦うこともある。
あんた……その時に、相手側の無辜の民を傷つけるなよ」
「でもお……戦いをしていたら……」
「殺すのは兵士や向かってくる相手の場合だ。
相手国の民をいたぶる恥晒しには絶対に……なるなよ。
それは異人がすることだ。日本の者は卑怯な振る舞いをしない」
「はい……わかりました。でもお、一緒に戦ってくれますよねえ」
瞼を閉じると、光と闇が混ざった。
「高杉さんがいるところには……私がいつでも付いていきますからあ」
鼻の奥に痛みが走る。じんわりと広がっていく。
浅く息を吸い込み、ついつい強がってしまう。
「付いてくるな……気持ち悪い。ぬか漬け茄子」
「ああー! そういうこと言うんですねえ!?」
「うるさい、うるさい。チーズ俊輔」
彼女の膝が大きく動いた。私の髪の毛が太ももの間に入り、強く引っ張られる。
「な、なんで……チーズのこと……」
「おバカ。私だって異国に行ったことあるだろ。チーズは上海にもあったよ」
彼女は声を出して笑い、異国のことを勝ち誇ったように語りだす。
自慢げに、得意げに。それが鼻持ちならぬと憤る藩士たちもいる。
けれど、私は好きだった。そういうところも……好きだった。
庭を見つめて聞き流していると、樹木から葉がひらりと落ちた。
不意に、私の黒髪がゆっくりと撫でられる。
「やめて……」
「ふへへ、いいじゃないですかあ」
「やめてよ……気持ち悪いから」
「本当は嬉しいくせにい」
「布海苔でも手に塗ったの?」
「や、やめてくださいよお! イッツ、ビューティフル、ハンズ!」
軽口を交わす、この瞬間が心を撫でる。
寝込んでいると、時は進まない。
友と話していると、時は恐ろしく進んでしまう。
一生の速さとは過ごし方によるのだと気づいた。
長い時を経ても、何も持たない者がいる。
短い時であっても、志を持てば大義を成せる。
長く生きたからといって、涙を流してもらえるわけではない。
短く生きたからといって、同情されるわけではない。
どのように生きたか。真心をもって道を歩めたか。心を通わせる者がいたか。
人の一生とは、それに尽きる。
松陰先生も松下村塾の門下生も同じだったのだ、と近頃は思う。
「俊輔……今までありがとね」
返事はない。顔には少し温かい滴が落ちてくる。
木々のざわめきは、二人の声と重なっていく。
「私たちってすごいですよねえ、高杉さん」
「そうだね……」
「松陰先生、久坂さん、稔麿ちゃん。みんな見ててくれましたかねえ」
「うん……そうだね」
「高杉さんっ……!」
「うるさいよ……大声出すな」
私の頭に置かれた手は、小刻みに震える。
「ありがとう……ございました。一緒に……いてくれて。
私を見てくれたのは……高杉さんや松陰先生、松下村塾のみんなでした」
「小汚いゴマすり団子が……今や国を動かす一歩前まできたか」
「はい……きました」
「俊輔。間違うことも……あるだろうけどさ。
最後には己の生き様、己の在り方、胸を張って言える人になりなよ。
――日本に……伊藤俊輔の名を知らしめてやりな」
「はい……高杉さん」
「泣くな、俊輔」
私たちが歩んできた絶え間ない青さは、霞むように……きっと消えていく。
いつかは塵となって、誰も知らぬものになる。
いつかは風に乗って、誰にも見えなくなる。
それが事実だ。それが正しい。
真っ赤に染まる夕日を二人で見つめた。
もうすぐ別れを迎える。
もうすぐ……夜が来る。




