高杉晋作 6
*
「ふへへい! すごかったですねえ!」
講和を終えて、砂浜で寝転ぶ伊藤ちゃんが声を上げた。
井上さんは特に話をするわけでもなく、そそくさと帰ってしまった。
海の上を揺蕩う黒船を見つめる高杉さんは、大きく身体を伸ばす。
その真っ赤な着流しの背中に、僕は声をかける。
「高杉さん。ありがとうございました」
欠伸をしたまま振り返る彼女の目尻には、一粒の涙があった。
「へ? なにが?」
「分が悪くても、一歩も引かない姿勢。良い経験になりました」
義のない理不尽な要求を跳ね返す。相手の言いなりには決してならない。
人と国を守るためであれば、己のことを顧みない。
僕は自分の目で確かに見た。
「あれくらいは当然でしょ。大したことじゃない。
一誠さんも来ていたら、私たちで黒船を奪うとか、もっと楽しめたかもね」
顔を綻ばせる高杉さんが、砂の上の蟹を追いかけるクオンを見つめた。
「あの子にも助けられた」
そう言ってから僕に視線を戻す。
その瞳は艦内のときのような威圧は一切含んでいない。
「講和も無事に終わった。みんなで酒を飲もうよ」
「お酒……! いいですねえ! どこに行きますかあ!? たらふく飲みましょう!」
身体を勢いよく起こす伊藤ちゃんの額は、夕日によって光る。
「おバカ。勝利の美酒とはその場で飲むものよ」
「ええ……どこに酒があるんですかあ」
「は? 持ってきてないの?」
「持ってくるわけないじゃないですかあ。講和の場に酒はいりませんよお」
半笑いの伊藤ちゃんは、額の汗を手で拭った。
「着流しと刀であんたのことを試したけど、酒のことは言ったよね?」
「…………。聞いてないですう」
「言った」
「い、言ってないですよお。思い込みとは恐ろしいものですねえ」
「準備しているときに言った。出発前にも言った」
「………………。よ、よかったですよお、無事に講和が終わってえ。
国土を一つでも奪われたら、欧米諸国の属国にされることは目に見えてますからあ。
あんな異人たちに日の本を奪われたら、ご先祖様に顔向けできませんよねえ」
打ち寄せる波の音が、二人の会話に静かに入り込む。
潮風が沈黙に纏わりついて動かないまま、時が過ぎる。
緊張の糸が僕たちの周りで結ばれていく。
蝶結びをほどくように、糸を緩めたのはクオンだ。
「お酒、ありますよ」
クオンは蟹を手のひらに乗せて、細い指先で愛でる。
そのまま砂浜に放置されている、朽ちた小舟に向かう。
そこに隠していた橙色の風呂敷を手に取り、こちらに戻ってくる。
中には手拭いで包まれた通い徳利と朱色の盃があった。
高杉さんは伊藤ちゃんを見据える。
「俊輔。クオンは持ってきてくれたよ」
「うう……」
「言われたこともできないんじゃ、国の舵取りなんてできるわけないからね」
「でも……! でもですねえ!」
「うるさい。なに?」
「酒を持って旅をするより、飲みに行ったほうが楽ですよお!
私は力を温存するためにい! 無駄な力は本領を隠しますからあ!」
伊藤ちゃんの言い訳は届かない。
クオンの手によって、それぞれの盃に酒が注がれていく。
四人で円を作り、目を合わせ、手に持つ盃を軽く掲げる。
阿吽の呼吸で同時に日本酒を口に含む。
米の香りが鼻から抜ける。程よい酒の熱さが喉を流れる。
僕は高杉さんの盃へ酒を注ぐ。
「ありがと」
微笑む姿を見て思う。
武力という戦に負けても、決して心が屈することがない人だ。
牢獄に入っていて、馬関戦争には出陣していない高杉さんがすべてを収めた。
彼女は顎を上げて、酒を飲む。
白い肌から浮き出る鎖骨に汗が乗って、色気と剛気が醸し出されている。
僕たちは、しばらく昔話をした。
話に入ってこない伊藤ちゃんに僕が目を向けると、同時に高杉さんも彼女を見た。
「あんた、なにしてんの?」
問いかけられた伊藤ちゃんは、にやりと笑う。
矢立の筆を握り、左手には開いた和綴じの帳面がある。
軽やかな手の動きで、文字をすらすらと綴っている。
「今日の講和を書き留めてますう!」
「書くなら偽りなく記しなよ」
身体をびくっと震わせた伊藤ちゃんの目が泳ぐ。
「おい、返事しな」
「正確に……記せるわけありませんよお。そこのところは理解してもらわないとお」
「どうして?」
「だってえ、ミナトくんとクオンちゃんは長州の者ではないんですからあ」
「そんなこと関係ない。ちゃんとあったことを書きな。
アーネストには書くなって言ったけど、それは国同士の問題になるとまずいからだ。
あんたの個人的な手記なら、別に構わない」
「だめですよお! 長州の講和なのに、高杉さんが二人を呼ぶんですからあ!
勝手なことは、やめてくださいよお! 今の長州はボロボロなんですからねえ!」
伊藤ちゃんの叫びは痛いほど理解できる。
一年前、長州藩は馬関海峡を通る異国船を砲撃した。
それに端を発し、今年になって四カ国連合が長州藩を攻めてきた。
今回の講和は、その戦を終結させるためのものだった。
僕とクオンは京で起きた蛤御門の変を目の当たりにしている。
久坂さんと別れた後で、すぐに高杉さんのいる長州に向かう。
その時、高杉さんは野山獄に投獄されていた。
講和の使者に任命された彼女と再会し、僕たちも付いていくことになった。
今年の長州藩の流れは常軌を逸している。
夏に起きた池田屋事件で、稔麿ちゃんを含む多くの維新志士が亡くなった。
その血も涙も乾かない、僅か一箇月後だ。
昨年の八月十八日の政変で都から追い出されていた長州藩は、復権のために挙兵した。
それ故に京で起こった、蛤御門の変。
荒ぶる藩士たちを指揮していた久坂さんは、轟々と燃え盛る炎の中で散った。
そこから数週間後には、今回の馬関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)が勃発した。
長州藩にとっての苦難は、さらに続く。
蛤御門の変で京を火の海にした長州藩に対し、朝廷から幕府に追討の勅命が下った。
今は十万以上の軍勢が長州藩に迫ってきている。
幕府。諸藩。異国。
たった一つの藩が、四面楚歌の状態で息つく間もなく戦い続けている。
だからこそ、伊藤ちゃんの嘆きは理解できる。
「二人を連れて行ったことが知られて、私の首が飛んだらどうするんですかあ!」
「上のやつらに差し出せばいいだろ」
「そ、そんなあ……! いつも私に押しつけないでくださいよお!」
「まあ……いいじゃん、少しくらい」
「少しじゃありませーん! だめでえす!
そう言うなら、手記くらいは好きに書かせてくださいよお!」
伊藤ちゃんが膝の上に乗せる和綴じの帳面、僕は背後から覗き込む。
『英国艦隊 講和談判の事。
長州藩正使、高杉晋作。ユーライアラス号に乗り込む。
伊藤俊輔、井上聞多、これに従う。キューパー提督の怒号――』
急に和綴じ本を胸に押し当てる伊藤ちゃんは、僕に笑顔を向けた。
「ふへへ……まだ書いてる途中だからあ」
そう言った彼女だが、和綴じ本を高杉さんにあっさりと抜かれてしまう。
「あひい……! か、返してくださいよお!」
すぐに立ち上がり、奪い返そうとする。
彼女の肩を片手で押さえつけた高杉さんは、もう片方の手で器用に和綴じ本を開く。
「なに……これ。キューパー提督の怒号が飛び交う。
伊藤俊輔は眉一つ動かさず、流暢なる異国の言葉にて応戦せり……はあ?」
呆れた声を出しつつ、続きを読み上げる。
「その雄弁さ、敵味方を問わず感服。
キューパー提督をして『伊藤俊輔。彼女こそ日本一の傑物なり』と言わしむ。
種々の談判の末、提督は彦島を奪うと暴論を吐く。
されど伊藤俊輔だけは、日の本の為、民の為、敢然としてこれと戦う。
その勇敢なる姿に異人は畏怖し、膝を屈するに至る。
高杉晋作も伊藤俊輔の働きを大いに喜び、井上聞多は己の無力を恥じて逃亡せり。
今回の講和成立は、偏に伊藤俊輔の尽力によるものである」
股の間に手を挟んだ伊藤ちゃんは小刻みに身体を揺らし、僕たちの様子を窺っている。
高杉さんは無言で和綴じ本を彼女に返した。
「だって……だってえ、二人が講和に参加していることを書いたら……」
「書いたら、なに」
「お給金が減らされるかもしれませんよお。
それにクオンちゃんが藩の召し抱えにでもなったら……。
それって私の出世の邪魔ですからあ、そこは阻止しないと」
高杉さんは彼女に反応しない。砂浜で胡座をかいて、僕に盃を向けた。
盃に酒を注ぐと、微かに笑い、一口で飲み干す。
「ミナトに注いでもらう酒はうまいね。
この酒に合う肴があったら、もっとよかった」
「鯛のあら煮ですか。昔、毎日のように食べていましたよね。
今も変わらないんですか?」
「好物は変わらないさ。ミナトは毎日食べる飯と味噌汁を嫌いになるの?」
「それは……ならないですね。日本人の心ですから」
「ほらね。好きなもんを嫌いになんてなるわけがないんだよ。
――それは……きっと人も同じさ」
そう言って笑み、物憂げに目を伏せた。
新たに注いだ酒を高杉さんは飲む。
「ミナト、クオン、ありがとう。
講和は終わったよ。聞かせて。あんたらが見たこと」
その発言の意味を僕はすぐに理解することができた。
講和に同行するよう依頼されたときのことだ。
僕は相次いで亡くなった松下村塾門下生の話を伝えようとした。
けれど、彼女は今は聞かないと断った。
「玄瑞。稔麿。九一。三人の最期を教えて」
久坂玄瑞。吉田稔麿。入江九一。
松下村塾で才人、傑物と呼ばれた四人のうち三人が命を落としている。
僕は彼女たちの最期を見た者として伝えなければいけない。
「入江さんは、長州藩へ現状を伝えるように久坂さんから託されたのですが……。
脱出するとき、敵兵に襲われて……命を落としたそうです」
高杉さんは先程のように、盃を僕に向ける。
トク、トク、トク。
「久坂さんは戦の責任を取る、と言っていたので……自害したと思われます」
「責任を取る、か。あいつ……らしいね。最後まで仲間の気持ちを汲んだか」
「はい。久坂さん……言っていました。
己が進んだ道は、後で太陽が必ず照らす。
長州には高杉晋作がいるから……大丈夫だ。
必ず我らの志を力に変え、新たな時代を作るために戦ってくれる、と」
「あいつ……古漬けのやつらの気持ちまで汲む必要はなかったんだよ。
真木とか来島のババアの寝言なんて、無視しとけばよかったんだ」
「そう……ですね。それと……久坂さんから高杉さんに向けた最後の言葉です。
『暴れ牛の女。乳ばかりでないことを私に見せてみろ。長州藩士、高杉晋作』って」
「はっ……バカな女だ。焼く前の餅のくせに。
蛤御門で貝のように腹をぱかぱか開いてたら……世話ないね」
僕が酒を注ぐ彼女の盃は……滴るほどに揺れていた。
「ねえ、ミナト」
「はい」
「あんたが腰に差している脇差とクオンの帯にある短刀。それ……稔麿のでしょ」
「はい。稔麿ちゃんから譲り受けました」
「私も短刀をいただきました。
命を奪うものではありません、心を守るためのものです、と言ってくれました」
クオンは凪の音に静かに声を乗せた。
「そう……。どうだったの、稔麿の最期は」
高杉さんの問いかけに、僕は稔麿ちゃんの背中を思い出して告げる。
「立派な武士でした。敵兵が大勢いるのに、一人で立ち向かったんです」
「へえ……大人しさが売りのおチビちゃんなのに。
まあ……己の芯を強く持っている子だから。
退けない戦いだったんだろうね、あいつにとって」
「囲まれている状態で四人を斬り捨てたんです。
傷を負ってしまってから、会津の佐川官兵衛さんと一騎討ちになって……」
「佐川官兵衛……ね。あいつ熊みたいな女でしょ、どうだったの」
「傷を負っていなければ、勝っていたと僕は思います」
「やっぱり、あいつらしくはないね。
具体的な策を練って、勝機を十分にする慎重派なのに」
さざ波の音が心の中に入り込んでくる。
波打ち際に生まれる境界線が色付く。
一歩戻れば薄く。一歩進めば濃い。
「傷を負っていなければ……稔麿は佐川にも勝てたか」
「おっしゃるとおりです」
クオンがはっきりと答えた。
「そっか……そうだね。稔麿が私以外に負けるわけないもんね」
あの日、あの時、血に濡れた彼女の口から託された言葉がある。
「稔麿ちゃんからの遺言です」
「遺言? なに?」
こちらに顔を向けた高杉さんは、急に眉間に皺を寄せた。
「いや、待って。そんなものいらない、縁起でもない。
ミナト、さっきは玄瑞の遺言を勝手に言ったね」
「それは……ごめんなさい」
彼女は黒髪に指を潜り込ませて、後ろに流した。
砂浜に打ち寄せる波は大海原へ帰っていく。
視線を落とす高杉さんが小さく呟いた。
「でも……うん、一応、聞いておこうかな。稔麿が私に向けた最期の言葉でしょ」
「ばーか」
「…………。あの根暗! 真面目ガキ……!」
声を荒らげた高杉さんの横顔は険しくはない。
隣から鼻を啜る音がして、目を向ける。
伊藤ちゃんが何度も、何度も目元を手で擦っていた。
「伊藤ちゃん……」
僕が呟くと、彼女の嗚咽は激しくなる。
「な、なんで、みんな死んじゃうのお。お給金だってえ、これからたくさん……」
「久坂さんから伊藤ちゃんに向けた言葉も預かったよ」
「え……私にも?」
「俊輔、高杉を隣で支えてくれ、どうか頼むって」
「久坂さんが……私に……」
こちらを見た顔は涙と鼻水で濡れている。
「で、でもお……久坂さん、私のこと……嫌いなのかなってえ」
「そんなことないよ。伊藤俊輔がいるなら、高杉晋作は大丈夫だって笑ってたよ」
「久坂さん……稔麿ちゃん、入江さん……」
彼女は唇をすぼめて、背を丸め、ぼろぼろと涙を流す。
胸を手で押さえて、息ができないほどの泣き声を上げた。
「みんな……みんなあ……」
「俊輔、よかったね。玄瑞は素直じゃないから、口にできなかったんだろ」
真っ赤な着流しから衣擦れの音が出る。
高杉さんは足元の砂粒を摩擦で歌わせて、立ち上がった。
背筋を伸ばし、海を見つめて呟く。
「人は死んだとしても成せることがある。人の想いは繋がっていくものだ。
一人では成せないことが、いずれ多くの人によって形となる」
彼女の僅かに跳ねる黒髪を潮風が揺らす。
「ミナト、クオン。あんたらに礼を言う」
僕たちの前には、茜色に染まる海がある。
その温かい色を見つめる高杉さんは、柔らかく言った。
「玄瑞。稔麿。九一。あいつらの最期を教えてくれて……ありがとね」
一歩前に踏み出した高杉さんは振り返らず、僕の前に盃を向けた。
僕は朱色の盃に酒を注ぐ。
「私のいないところで死ぬなよ。私たちは同じ釜の飯を食べた仲だろ……。
松陰先生の松下村塾で学んだ……門下生だろ」
盃の表面は大きく波打ち、こぼれ落ちた雫が乾いた砂浜に吸われていく。
「勝手なこと言って、勝手に押しつけて、勝手に残していきやがって。
ただ……安心しな。大丈夫だよ。
あんたらの志は……私の胸にちゃんと残ってるからね」
沈んでいく太陽に彼女は盃を掲げた。
真っ赤な陽の光と真っ赤な後ろ姿。
彼女の熱き心と同じ色をしていた。




