高杉晋作 5
「Enough……Shut up!」
黙れと声を荒らげたキューパー提督は、指先で挟んだ葉巻をテーブルに叩きつけた。
目の前で火の粉が弾ける。
「Stop! Please stop!」
アーネストさんが勢いよく椅子から立ち上がり、クオンを制止する。
しかし、クオンは首を傾げるだけで、嬉々として古事記を英語で続けた。
なぜ、話の続きを聞かないのだろう。これほどおもしろい話はないだろうに。
そのような意思が彼女の赤い瞳から滲み出ている。
「Shut up……!」
「Stop! Stop!」
怒声を浴びても、桃色の唇の動きは止まらない。
それを見て笑みをこぼす高杉さんが、クオンに向けて言った。
「いいよ、クオン。ありがとね。異人たちには日本の話は早すぎたみたい。
こんなやつらに、我らの趣を理解できるわけないよ」
「わかりました。これから……楽しくなるというのに」
クオンは異国の軍人たちのことを鋭く睨んだ。
――やめなよ……講和の場なんだから。
キューパー提督は唇を突き出し、頬の筋肉を震わせていた。
顔には、十分すぎるほどの血が集まっている。
それを見た高杉さんは鼻を鳴らす。
「この偽天狗が。海じゃなくて、山に行け」
テーブルの上を指先で小刻みに叩くキューパー提督が口を開く。
クオンも再び通訳を始める。
「それで彦島を私たちに貸すのか、と言っています」
「貸さない」
「渡さないことがなにを意味するのか、わかっているのか」
「なにを意味する……か。ふーん、おもしろいね、言ってみな提督」
高杉さんが自身のグラスへ注ぐ葡萄酒は撥ねて、卓上に小さな溜まりを作る。
酒瓶は軽い音を鳴らし、その役目を終えた。
「いいか。もう一度、長州と戦争してやる。
次は手を抜かない。辺り一面火の海になるぞ」
高杉さんは俯く。短い黒髪がさらりと揺れた。
声を押し殺し……笑っている。
「ねえ、聞いた? 今の……聞いた?
船から砲撃しただけで勝ったつもりでいるよ。
陸で私たちと斬りあったこともないくせに」
そう言いながら、僕の肩を何度も叩く。
「ふざけるな、これは遊びではない。お前らの国を滅ぼすことなど簡単だ。
力を持たぬ、技術を持たぬ、小さき猿どもめ」
「あー、そう。そうなの」
彼女の笑いは一瞬にして引っ込んだ。
泣き叫ぶ赤子が不思議なものを見て、その涙を止めるかのように。
赤子と一つだけ違うのは……冷徹な目をしているということだった。
「提督、ちゃんと聞きな。
彦島には日本の民が住んでいる。毎日を懸命に歩いて、毎日を生きている。
ねえ、提督。もう一度、言ってみな。あんたらはなにが欲しいの?」
「彦島を私たちに渡せ。安心しろ、借りるだけだ。
なんの問題もない。直ちに認めなければ、再び戦争する」
酒で焼けた低い声が出ると、必ずクオンの透明感のある声が続く。
高杉さんは沈黙した。
室内は静寂に包まれる。提督の葉巻によって空気は淀んでいた。
その中で、凛とした声が再び場を支配する。
「日本を奪うのか」
「奪うわけではない、借りるだけだ。何度言えばわかる。
お前らは猿だから、頭が悪い。私たちは奪わない。少しの間だけ借りる」
「黙れ。恥知らずの異人どもが」
キューパー提督は厚みのある手をテーブルに叩きつけた。
「Shut up……!」
「あんたが黙れ」
「また戦争になるぞ。今度は焼き尽くす。全員殺してやる、と言っています」
「そう。それなら今すぐに焼け。でもね……この国は渡さないよ。
日本は、あんたら異人が土足で上がっていい場所ではないんだよ」
相手を刃で斬り裂くような眼光のまま、高杉さんは続けた。
「いいか……日本の砂一粒でも踏みつけてみろ。
あんたらのすべてを喰らい尽くしてやる」
熱き志と消えぬ魂で、容赦なく口にする。
僕の胸は高鳴り、熱を帯びていく。
クオンが訳すと、相手側から罵声が生まれる。
アーネストさんが軍人たちを止めても勢いは収まらず、今にも暴れだしそうだ。
けれど……不思議と僕は怖くなかった。
頬を抉るように爪の先で掻くキューパー提督は、短く鼻を鳴らす。
「それなら仕方ない。お前のせいで長州が消える。
日本もだ。こちらは全勢力をもって潰す。
お前たちの住む日本が滅ぶことになるぞ」
「望むところだ」
「お前のせいで、すべてが無くなる」
「それでも構わない。私たち長州は滅ぶとわかっていても戦う」
「調子に乗るな、猿が。いいか、お前らなど――」
室内に衝撃音が轟く。
高杉さんがテーブルに手のひらを叩きつけた。
首を突き出し、目の前のキューパー提督を睨む。
「長州が負けても、日本には他の者たちがいる。
今は日本の中で争っているが、異国相手であれば関係ない。
薩摩、肥前、彦根、そして……庄内だ。
いいか、覚えとけ。庄内には鬼が棲んでいるからな。
異人が奪うために日本の大地を踏めば、山奥の鬼を呼び起こすことになる」
静まり返る。誰かの唾を飲み込む音が微かに聞こえた。
張り詰めた室内でキューパー提督が言う。
「わかった、必ず後悔させてやる。兵士も民もすべて殺してやる。
小さな島の猿どもめ、清のようにしてやるからな。
日本は我らのものになる、覚悟しておけ」
クオンの通訳する声と椅子の引く音が重なる。
高杉さんが立ち上がった。
次の瞬間。
刃が鞘を走る。
綺麗な刀の刃文が妖しく光り、提督の首元に突きつけられた。
和紙一枚分、それほどの近さで止まる。
激しい音が響く。他の軍人たちが椅子ごと身を引いた。
首に刃を向けられた提督は、目も口も……鼻の穴までも開ききっていた。
笑みを浮かべることなく、とても冷たい表情で高杉さんが言う。
「日の本に手を出すな。攻めてくるなら私たちは戦う。
なにがあろうとも日本の民は引かない。
――日本は和の心を持った勇敢な民族だからだ」
しんと静まり返る。
「日本を奪うつもりなら……まずは、私のことから斬ってみろ」
僕は冷淡に見つめていた。
隣で刀を抜いた頼もしい人にではない。相手側の軍人たちに対してだ。
キューパー提督が刀を向けられているというのに、誰も助けようとはしなかった。
動いたのは、後ろに下がったときだけだ。
日本の武士であれば全員が即座に抜刀し、上の者を守ったはずだ。
いや……さすがに現場に立つ軍人たちが控えていたら、今の状況ではないか。
目の前にいるほとんどが、四カ国の指揮官だからだろう。
それに……歴戦の軍人である彼らは、高杉さんの常軌を逸した殺気を察知したはずだ。
提督を筆頭に、軍人たちは目を見開いたまま微動だにしない。
高杉さんは深く溜め息をつき、苦笑を浮かべた。
キューパー提督から刀を離すと、綺麗な所作で刀を鞘に納める。
「おい、さっきの異国の足軽。こういうときは、抜いた刀を納めてもいいよ。
震えて泣く相手を斬るのは、やめておけ」
そう言って笑う高杉さんが、キューパー提督を見たまま続けた。
「俊輔、刀から手を離しな」
僕は伊藤ちゃんに目を向ける。壁際から離れた彼女は刀に手を掛けていた。
腰を落とし、今にも踏み出さんとする足の重心は、軍人たちに向けられている。
「私が言ってんだ。やめろ、斬るな」
伊藤ちゃんは目を見開いている。少し荒い呼吸で肩が動く。
双眸は瞬き一つしない。軍人たちを見据えている。
斬る……つもりだ。殺気が身体から滲んでいる。
「あんたの気持ちはわかってるから……抜くな」
ずずっと草鞋に付いた砂と床が擦れる音がした。
「俊輔……! 抜くな! 刀を納めろ!」
高杉さんの大声が室内に反響し、身体は震える。
次いで、伊藤ちゃんが鯉口を切っていた刀は、小さい音を立てる。
微かに見えていた刃は鞘に納まった。
「はい、はい、怖気づくなよ、キューパー提督。
やり合うなら……覚悟しなよ。異人に日本は奪えないからな」
鋭い瞳で睨みつけている。
「日本には私がいる。いつでも相手をしてやるから、かかってこい」
四カ国の軍人たちは意気消沈している。
餌を求めていた鯉は口を動かすだけで、麩を食べることはできなかった。
僕たちは講和を終えて、甲板に出る。
澄み渡る青空から眩しい陽の光が降り注ぐ。
その中を一羽の白い鳥が優雅に飛び回っていた。
高杉晋作の生き様を褒め称えている、そのように僕には見えた。




