高杉晋作 4
キューパー提督は厚い唇をぶるっと震わせ、のっそりと立ち上がった。
縁取られた棚の中から一つのグラスを取り出して、テーブルの上に置く。
目の前の卓上には、蝋燭の火がゆらゆらと踊る。
「提督。まあ、葡萄酒でも飲みなさい」
高杉さんは開けていた葡萄酒を彼のグラスに注ぐ。
嘲笑うかのような彼女とは対照的に、キューパー提督は口元を歪める。
そして指をぱちんと弾いた。
壁際に控えている一人の兵士が葉巻を取り出して、すぐに提督に渡す。
キューパー提督は葉巻の先端を口に咥え、肉のように噛み切る。
「ファイアー! プリーズ、ファイアー!」
壁際に戻っていた伊藤ちゃんが、英語を口にして飛び出してきた。
蝋燭立てを手に取り、キューパー提督に向ける。
訝しむ彼を気にすることなく、伊藤ちゃんは微笑む。
「オッケー、オッケー、ナイス、ファイアー!」
目を細めるキューパー提督は、蝋燭の火の前で葉巻を悠然と回していく。
「俊輔。あんた、ここで死にな。海に飛び込んで死ね。切腹は認めないからね」
「ええ!? そんなあ!」
こちらに向き直った勢いで、伊藤ちゃんは蝋燭立てを振り回した。
キューパー提督の睨みつける視線には気づいていない。
クオンは高杉さんが放った発言を相手側に伝える。
彼らは目を大きく開き、口をお猪口のように広げた。
連合軍の先程の怒りはどこかに飛んでいったのか。
「ハラ、キリ……ハラキリ。ハラキリ」
切腹、という言葉をクオンがハラキリと伝えた。
開国されたことで、彼らも人伝いや書物などで知っているのだろう。
伊藤ちゃんは再び腰を曲げ、キューパー提督に蝋燭を向けた。
異人に対する腰は低く、笑顔は絶えない。
まるで、キューパー提督は上官であり、自身は長年の部下のように振る舞う。
しかし……彼女の垂れる目尻、その奥にある瞳が笑っているようには見えなかった。
伊藤ちゃんは笑顔のまま、壁際に戻った。
室内には油ランプの灯りに照らされた紫煙が立ち昇る。
キューパー提督は高杉さんが注いだ葡萄酒を口に含む。
ぐじゅ、ぐじゅ、と口の中で汚い音を出し、こちらを睨みつけた。
グラスを手に持った高杉さんは、京の都にいる芸妓のごとく微笑んだ。
「キューパー提督は、敵の盃を簡単に飲むんだね」
「敵ではない。お前らは軍門に下るのだから、と言っています」
「へえ。ずいぶん呑気なもんだ」
「軽口はいい。賠償金のことはわかった。幕府に繋いでもらおう。
幕府が払わなければ長州藩が払え。次の話をしよう。しっかりと聞け」
濃い煙が吐き出される。高杉さんの顔に当たるが、彼女は微動だにしない。
キューパー提督は背後に目を向ける。
側近らしき者が日本の地図をテーブルに広げた。
地図を見つめるキューパー提督が鼻を鳴らす。
特定の場所を人差し指でこんこんと叩き、緩急をつけた言葉を出す。
最後に「ヒコシマ」と強調した。
「海を自由に動くには――」
「いいよ、クオン。伝わったから」
高杉さんはクオンの通訳を制止した。
その後で、酒が僅かに残るグラスを持ち上げ、僕に向ける。
うっすらと色づくグラスへ葡萄酒を注ぐ。
高杉さんは味わうことなく一気に飲み干した。
「提督。なんで彦島が欲しいの?」
「幕府が賠償金を払うのは承知した。だが、支払いには信頼関係が必要だ。
それの担保として彦島を借りたい」
「はっ……それは欲しい理由じゃないでしょ。理由だよ、理由」
「船用の石炭を置いたり、船の整備に使う。借りるだけだ、決して奪いはしない。
彦島は日本のものだ、それは変わらない。私たちは人から奪うことなどしない」
ちらりと隣を見ると、高杉さんは目を瞑っていた。
唾を飲み込み視線を動かすと、その端で身体を震わせる者がいた。
「ドント、ハブ……ノーランド」
壁際に立つ伊藤ちゃんは俯き、そして呟いた。
「なんだと、彦島をすぐに渡せ、と言っています」
クオンの通訳に反応せず、眉を下げる伊藤ちゃんは高杉さんに顔を向けた。
「高杉さん……日本が清のようになってしまいます」
瞼を閉じていた高杉さんは、油ランプの光を取り込むように目を開ける。
「キューパー提督。日本の領土を奪いたいんだろ」
「話を聞いていたのか。借りるだけだ」
「正直に言え、人道を知らぬエゲレス人が。
それとメリケン。あんたらは他所の土地を奪って暮らしているヤドカリだよね。
二枚舌のやつらの言うことを信用できるか。この塩ウニ頭が」
クオンの冷静な通訳は、連合軍の者たちを激昂させた。
一人の軍人が立ち上がり、つかつかと歩いてテーブルを回り込み、短銃を抜いた。
高杉さんに黒い穴が向けられる。
彼女は物怖じせず、短銃を掴んだ。
そして、銃口を真っ赤な着流しの奥にある肌に自ら押しつけた。
「撃ちなよ。やってみろよ」
軍人は声を出さない。乾いた唇は小さくなって、息を吸う音だけが聞こえる。
「ほら、やれよ。今すぐやれ」
相手を睨みつけたまま、高杉さんは怒鳴る。
「やれよ! てめえが抜いたんだ! 早くやれ!
私たちは刀を抜けば、相手のことを斬る覚悟があるんだよ!
てめえは殺すから抜いたんだろ! やれよ!」
張り詰めた空気が頬を引っ掻く。
高杉さんの瞳は熱せられた刃のようだ。相手の目は外で揺れる波だ。
静寂が場を支配する。相手側の誰も言葉を出さない。
「はっ、腰抜けが。帰れ、帰れ。
今夜は提督に抱いてもらって、仲良くナマコを擦りつけあえ」
軍人を押し返す高杉さんは、キューパー提督に問いかける。
「提督。あんたは日本の領土が欲しいって言うけどさ。
この国の成り立ちを知ってるの? 知っていて奪うと言っているのか?」
「そんなもの知るわけない、と言っています」
「そう。じゃあ、これからのために知っておきな」
彼女は口調を柔らかくして、クオンに問いかける。
「クオン、古事記を覚えているよね?
暇があれば、稔麿と二人で楽しそうに語っていたもんね」
「はい。稔麿ちゃんとは神々の話で盛り上がっていました。
どの神が美しいか、雅であるか。私たちは常に探求していました」
「それなら、この異人どもに教えてやりな。初めから最後まで一節も漏らさずに」
クオンは椅子から立ち上がり、相手側へ歩み寄った。
頭を下げてから、演説するかのように古事記の話を始める。
「In the beginning of heaven and earth――」
室内にいる者は彼女に目を向けたはずだ。
僕と高杉さん以外は。
「私はね、清を見てきたんだ」
「アヘン戦争後の……清ですね」
彼女は幕府の視察団、長州藩としての参加で、清の上海へ留学していたことがある。
イギリスは植民地であるインドを介して、清にアヘンを売り捌いていた。
薬物のアヘンは……多くの清の民を破滅させる。
清国がアヘンを禁じると、エゲレスは戦を仕掛けた。
自由貿易を阻害するのか、お前たちは悪だ、イギリスには大義がある、と断罪して。
高杉さんは空になったグラスに葡萄酒を注いで、一口だけ飲んだ。
「相手から奪うことだけを考えて、大義なき戦を起こしたのはエゲレスだよ。
戦に負けた清は香港をエゲレスに奪われて、各地の港を開けた。
拠点として借りているだけという言葉を並べているけど、現実はそうじゃない」
彼女はグラスの表面を見つめる。
その横顔は普段見せない。とても寂しげに眉間に皺を寄せていた。
目の前ではクオンが淡々と、しかし、人を惹きつける話し方で古事記を語っている。
どのように日本という国が生まれたのか。神々のことを伝えていく。
「清の男たちは泥にまみれて、異人に足蹴にされる。
抵抗することができない清の女たちは、貞操と尊厳を奪われる。
領事裁判権。清で悪さをした異人を裁くのは、悪さをした側だ。正当に裁くわけもない」
そう言って、息を長く吐いた。
「私は見たよ。おなごが異人に引きずられて、船の中に押し込まれる姿を。
大声で泣きながら……助けを求めていた」
「高杉さんは……どうしたんですか」
この人は見て見ぬふりはしない。決して、知らぬふりはしない。そういう人だ。
「助けようとしたよ。でも……助けられなかった。
その子は港に捨てられ……死んだよ」
「そう……ですか」
「その子だけじゃない。多くの女や子どもが異人に襲われている。
だからこそ、私たちは戦わなければいけない。異人に日本を奪われてはいけない。
この国を……守らなければいけない」
悔恨の念が彼女の言葉を押し潰すかのようだ。
喉に流す葡萄酒は痛みを和らげるどころか、憎悪を増しているのかもしれない。
前方から聞こえるのは、クオンの流暢な英語だ。神々の名を異人に刻み込んでいる。
高杉さんは目の前にいる異人を一瞥した後で、視線をテーブルに落とした。
「日本を異人に渡すわけにはいかない。
先の世に住む日本の民が平和に暮らすために。家族や友と笑って過ごすために。
この『日本』は渡さない」
淀みのない言葉が胸に刺さる。
高杉さんは松陰先生の志を受け継いでいる。
誰よりも過激で、誰よりも熱情を持つ。
彼女の言葉一つ一つが、僕の生きる二つの世界を両断していく。
幕末と未来。
このような人が未来にいてくれたら。
日本人は美しい心を持ったままでいられたのだろうか。




