高杉晋作 3
*
艶やかな木目に囲まれた、異国船の一室。
波の揺れに備えて縁取りされた棚の中には、酒瓶が鈍く光っている。
壁に取り付けられた油ランプは、独特の匂いを放ち、ぼんやりと室内を照らす。
僕たち三人は椅子に座り、相手方の到着を待っていた。
緊迫した空気とは程遠い。隣で葡萄酒を飲んで寛ぐ人がいるのだから。
「勝手に葡萄酒を開けるのは……まずいですよ」
僕が言うと、高杉さんは鼻を小さく鳴らした。
「別にいいでしょ。待っている相手に茶の一つも出さない。
無礼なことをしてきてんだから、お返しだよ。ほら、ミナトも飲みなよ」
「いえ、僕は道連れになりたくないので」
「なんかあっても私がいるから大丈夫だよ。
それに、あいつらからしたらミナトも同罪だろ」
「僕は止めましたよ」
「止められなかったら一緒だよ。私が来島のババアを止められなかったみたいにね」
軽い一言だったけれど、彼女は痛みを隠すように目を伏せた。
「これさ、おいしくないよね。清の上海で飲んだときもおいしくなかった」
僕とクオンの前にあるグラスにも、濃い紫の酒が注がれている。
「うーん。日本の酒とはやっぱり違うなー」
「葡萄という果物だけで作れます。他の物は必要ありません。
葡萄を発酵させてから樽に入れ、熟成させると酒になります」
クオンが説明すると、高杉さんはグラスを鼻に近づけて、吸い込んだ。
「へー、簡単に作れるわけか。大量に作るのに向いているんだね」
これほどの余裕、相変わらずの胆力だ。先の戦争の講和に訪れたというのに。
長州藩と四カ国連合が争った戦い。
馬関戦争。
四カ国はイギリス、アメリカ、フランス、オランダという大国だ。
戦争をしているとき、高杉さんは脱藩の罪で野山獄に投獄されていた。
それは過激派を止めようとするが故の彼女の勇み足と、藩内部の派閥争いが原因だ。
囚われていた高杉さんを交渉役にするのだから、長州藩から信頼を得ている証だろう。
それとも嫌な役を押しつけただけなのか。捨て駒のように使うつもりなのか。
どちらでもない……か。
長州藩の命運が、この講和に懸かっているのだから。
不意に外から発砲音がして、身が震えた。
二発、三発と続く。
「怯えるなよ、ミナト」
「いや、急に鳴るから……。音に驚いただけですよ」
「こんなことで怯えてたら、政はできないよ」
しばらくすると、ドアノブが音を立て、体格の良い軍人が数人入ってきた。
僕とクオンは立ち上がり、頭を下げた。
けれど、高杉さんは葡萄酒を飲み続けている。
「アナタたちがチョウシュウの使いですね?」
顔の彫りが深い、柔和な男性が胸に手を当てて、軽く頭を下げた。
「見てわかるでしょ。関係ないやつが入り込めるほど弱いのか、あんたらの国は」
高杉さんが目を合わせずに言うと、男性は目を丸くした。
「オオ……ソウですね。セッシャ、アーネスト・サトウといいます。
言葉を伝えるモノです。こちらはキューパー提督デス」
大柄な提督は濃紺の軍服を纏い、金色のボタンが波打つほどに腹が出ている。
こちらを品定めするように見て、のそのそと歩く。
その度に左胸の金属飾りが音を立てる。
軍人たちは向かいの椅子に座り、ひそひそと言葉を交わし始めた。
「なんて言ってるの? 少しだけならわかるけど」
高杉さんは首を傾げる。アーネストさんが答えるより先にクオンが返す。
「この二人は美人だ。猿とは違うな。
赤い衣がいい。薄紫の衣もいい。二人とも綺麗な髪の色をしている。
このまま国に連れて帰ろう。そのようなことを言っています」
「ふーん。異人にも繊細な美しさがわかるんだね」
高杉さんが悪態をつくと、アーネストさんはクオンに近づいて微笑んだ。
「アナタは言葉がワカルのですか?」
「はい。私も通訳します。これは二つの国の言葉を繋ぐという意味です」
「オオ、スバラシイですね」
その感嘆とは正反対に、高杉さんが気怠そうに口を開く。
「私は宍戸刑馬と申す。長州藩の家老の子である」
そう言った彼女は笑いを堪えながら、葡萄酒を一口含んだ。
笑いを我慢できなかったのか、紫色の液体を吹き出した。
連合軍の面々は怪訝な表情をした後で、高杉さんを睨んだ。
「ごめん、ごめん。今のは偽りだ。
私の名は長州藩士の高杉晋作。これは訳すなよ、アーネスト」
高杉さんに言われた彼は口をすぼめて固まった。
「こっちの男前がミナト。そして、我が国が誇る美人のクオンだ」
「ミナトさん、クオンさん、デスネ。ワカリました」
「あ、そうだ。アーネスト、この二人のことは記録や手記に書くなよ」
「ナゼですか?」
「私が勝手に連れてきたから。後々、面倒なことになるから書くなよ」
「オオ……ワカリました」
キューパー提督はテーブルに肘をついて、指を組み合わせた手の上に顎を乗せる。
こちらの様子をじっくりと窺う。相手を威圧するためか、やや上目遣いで睨む。
しかし、僕に恐れは一切ない。
僕からすると、商人が交渉で生み出す眼光のほうが鋭く感じる。
目の前の軍人たちも同じだ。
攘夷派などの人たちが醸し出す雰囲気と比べると雲泥の差だ。
まったく怖くない。普通の人たちのように映る。
そのようなことを考えて、テーブルへ視線を落とす。
目の前のキューパー提督は、みたらし団子のタレのような粘り気のある声を出す。
それをアーネストさんが通訳していく。
答えるのは、もちろん高杉さんだ。
「シモノセキを船でトオルことをミトメますか?」
「いいよ。気をつけて通りな」
「シモノセキにきて、水やタベモノ、ワタスことをミトメますか?」
「いいよ。しっかり金は払いなよ」
「海がアレタラ、シモノセキに船をトメルことをミトメますか?」
「いいよ。海に物を捨てるなよ」
一切の躊躇がない。淀みなく進んでいく。
次の言葉を出そうと、キューパー提督が息を吸い込んだときだ。
ドアが叩かれて連合軍の兵士が入ってきた。敬礼し、早口で上官たちに伝えている。
その後に入室する人物たちがいた。
兵士たちに拘束されて姿を見せたのは、伊藤ちゃんと井上さんだった。
「高杉さーん! 助けてくださあーい!」
伊藤ちゃんは涙目で大声を出した。隣では井上さんが目を伏せている。
「伊藤サン! 井上サン! アナタたちも使いの者デスカ!」
アーネストさんは急に声を張り上げた。
「わあ……! アーネストだあ……!」
どうやら伊藤ちゃんたちとアーネストさんは顔見知りのようだ。
「タカスギ……シシドさん。この二人も使いの者デスカ?」
「ううん、違うよ。こいつらは密航を企てた。これは大罪だね。
こっちでは裁かないからさ、あんたらの好きにしていいよ」
――逆、領事裁判権……。
「高杉さーん! それはないですよお!」
伊藤ちゃんと井上さんを縛っていた縄は、アーネストさんの仲介でほどかれた。
グラスを片手に持つ高杉さんが、伊藤ちゃんをじろっと睨んだ。
「私は考えろって言ったよね。どういうつもり?」
伊藤ちゃんは目を逸らし、腹の前で組んだ指先をもじもじと弄る。
「どういうつもりも……なにもありませんよお。
藩命ですもん……藩命は無視できませんよねえ」
「腹の中にあるもんを言いな」
そう続ける高杉さんは、獲物を仕留めようとする鷹の目だ。
「ええ……そんなあ。なにも……ないですよお。お腹は減っていますけどねえ」
「言え。言わないなら……わかってるね。こいつらにあんたの首を差し出す」
伊藤ちゃんは目を閉じて上を向いた。口が蛸のようになっている。
「そうですねえ。
伊藤俊輔はやるんだということ……それを藩や他の人たちに見せておかないとお」
「それで?」
ぬっと首を前に突き出した伊藤ちゃんは、急に目を見開き、声を張り上げた。
「しっかり見せつけないとお! 今後のためにい!
伊藤俊輔という傑物の名を広げれば、お給金が増えるのは当然ですよねえ!
他の藩からも頼まれるかもしれませんよお!
さっきは危なかったから、その分も上乗せしてもらうつもりでえす!」
「そう。それなら壁際に立って聞いてな」
――咎めないん……だな。
高杉さんの横顔には少しの笑みがあった。
先程の発砲音は、小舟で近づいた伊藤ちゃんたちを撃ったものだったのかもしれない。
淡々としていた講和は、二人の乱入の後で再開される。
「戦争のカネをハラッテください。謝るためのカネをミトメますか?」
「いくら?」
キューパー提督と軍人たちは、僕たちに聞こえないように小声で話す。
その中には笑みを浮かべ、舌を軽く鳴らす者もいた。
その後で、アーネストさんが高杉さんに告げる。
「三百万ドル、デス」
「ええっ!?」
壁を背に大声を出した伊藤ちゃんは、ずるずると崩れ落ちていく。
それを高杉さんは叱責する。
「あんたはうるさい。で、いくらなの、アーネスト。
ここは日の本だ。日本の金で言いなよ」
言い淀むアーネストさんを見たクオンが、眉一つ動かさずに答える。
「およそ二百二十五万両です」
高杉さんの鼻から息が抜けた。
単純な数字が僕の頭の中で踊り、転がっていく。
――二千……七百億。
「いいよ」
――ええ……!?
「た、高杉さん! 無理ですよお! だめですよお……!」
僕も伊藤ちゃんと同じ気持ちだ。
歴史を知っている僕でさえ、即答したことに驚いた。
伊藤ちゃんとは、この場で、日本側で、唯一わかり合える人かもしれない。
クオンは平然としている。井上さんは目を伏せている。
アーネストさんが軍人たちに伝えると、彼らの薄ら笑いは静かに止まった。
「だめですよお!」
「なんで?」
「無理です! 無理です! 絶対にだめでえす!」
壁から離れた伊藤ちゃんは、テーブルの前に立った。
先程の縄で拘束されていた手が、今は揉み手に変わっている。
すりすりと、わざとらしい音が出た。
「ミスター、キューパー! ディスカウント、プリーズ!
チョウシュウ、ベリーベリー、プアー!」
「みっともない真似をするな、ぬか漬け茄子」
高杉さんが膝でテーブルを軽く蹴った。グラスの中の葡萄酒が揺れる。
「そんな蓄えありませんよお! 藩が無くなります!
このままだと私の出世もなくなるう!
今日のお給金だって、どうなるか! ちゃんと考えてくださいよお!」
「キューパー提督、いいよ。しっかりと払ってやるよ。武士は誠を貫くもんだから」
「ちょっとお! 私の話、聞いてましたあ!?」
「長州の者たるもの。日本の者たるもの。そんなことで騒ぐな」
高杉さんはテーブルを指で叩き、笑っている。
長州藩の代表として来ているというのに、その表情からは一切の迷いが感じられない。
軍人たちは顔を見合わせている。
意地の悪い者たちが相手から予想外の反撃を食らい、罪をなすりつけ合うように。
しかし、その呆気にとられた顔は、高杉さんの次の言葉で打ち砕かれることになった。
「払うけど、長州藩は払わないよ」
「ええ……!?」
伊藤ちゃんの反応と同じように、アーネストさんは口を開ける。
彼は心が追いついていないのか、連合軍の人たちに一つの言葉も伝えられない。
その様子を見た高杉さんは、アーネストさんを睨みつける。
「あんたはもういいや、アーネスト。お役御免だ。怖気づきやがって。
クオン。ここからはあんたがやりな。私の言葉を包み隠さず、こいつらに伝えて」
「承知しました。高杉さんの言葉は、私が正しくお伝えします」
「俊輔は今後のためによく見て、よく聞いておきな」
「ええ……通訳は私の役目なんですけどお」
笑みをこぼした高杉さんは額を掻いてから、キューパー提督を見据えた。
「長州藩は払わないよ。徳川幕府が金を払う」
クオンの通訳した言葉に連合軍の者たちは眉間に皺を寄せ、大きな手は宙を泳ぐ。
その中には声を荒げる者もいた。
「うるさい、うるさい、最後まで聞け。見苦しいんだよ、金魚の糞が」
クオンの正確な通訳で、軍人たちは勢いよく立ち上がった。
血管が浮いて、唾液が飛ぶ。
冷静さを失っている者たちの中で、キューパー提督だけは鼻から息を抜いた。
こちらを黙って睨む。
一切動じない高杉さんが低い声を出す。
「いいか、よく聞け。エゲレスとメリケン。あと他のやつらも。
私たち長州藩は帝の勅命によって、あんたらを攻撃したんだ。
どうして長州藩が金を払うという話になる」
「私たちを攻撃したのは長州藩だ。金を払うのは当然、長州藩だ。
今すぐに払え、と言っています」
「はっ……アホどもが。アホにもわかるように教えてやる。
いいか、帝は異国を打ち払えと命じた。
日の本から追い払え、とね。私たち長州藩は勅命に従ったまでだよ。
本来なら徳川幕府が成すべきことなんだ。
それを私たち長州藩が代わりにやったんだよ」
「それがどうした、お前らがやったことに変わりはない。
今回の戦に徳川幕府は関係ないのだから、自分たちで責任を取れ。
日本の猿どもが、と言っています」
「黙れ、エゲレス野郎。海の上で、ぷかぷかと浮かぶ死にかけの雑魚が。
言っている意味が伝わるか? その揚げ餅の頭でよく考えろ」
「お前は無礼だ、生きて帰れなくてもいいのか、と言っています」
「あんたらの国ではどうか知らないが、日本では子が悪さをすれば親が責を負うものだ。
あんたらは下のもんが過ちを犯したら、上のもんが尻を拭わずに立ち去るのか?」
「黙れ女、と言っています」
「上に立つ者として恥を知れ、俗物どもが。
この国の武家の親は徳川幕府だ。私たち藩は子なんだよ。
帝の勅命に子だけが従って戦ったんだ。
かわいそうだろ? 子どもが懸命に戦ったんだから。
金はなにもしなかった親である徳川幕府に払ってもらえ。なんなら、もっとふっかけな」
「ふざけるな腐れアマ、金を払うのはお前らだ、と言っています」
「黙れ。海に浮かぶ木桶に隠れているだけの粕漬けが。
漬かりすぎて腐ってしまったんだろうね。
私たち長州藩は一切払わない。金は幕府が払う。それだけのこと。
いいか、何度も言わせるな。その蟹味噌頭で理解しろ、異人ども」
クオンが訳して告げた。連合軍側の全員が絶句して、高杉さんを見ている。
今回の講和は、彼らからすると海を荒らす天災にも似ているかもしれない。




