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散りゆく桜の真実、ぼくは未来で口づけを  作者: 陽野 幸人


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高杉晋作 2

             *




「俊輔、あんたは来なくていいよ」


 長州の山で言い放ったのは、短い黒髪を斜めに分ける女性だ。


 切れ長の目元に、強い言葉を出す口元。すっきりとした顎に、綺麗に通る鼻筋。

身体全体から強気な雰囲気を滲ませる。

地面を這う蟻が、自ら道をあけるほどの威圧感もあった。


「だめですよお! どうして、来なくていいなんてえ!」


「うるさいよ。あんたの声は耳に悪いから、静かにしな。

井上もいらない。あんたらは陸で指をくわえて、そこで学びな」


「ちょ、ちょっと待ってくださいよお!

私たちはエゲレスから、長州のために帰ってきたのにい!」


 先程と同じように大声を返すのは、灰汁色の小袖に黒い袴を穿く女の子だ。

つるっとした額と垂れた目には愛嬌がある。


 長州藩士 伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)


「だめでえす! 認めませえん! レッツ、ゴー、トゥゲザー!」


「うるさいって。その甲高い声は耳に悪い。だいたいさ、あんたの所作には品がないよ。

ほら、今日の私の格好を見な。これこそ雅というもの」


 そう言った女性は歩きながら両の手を優雅に広げ、身体を見せつけるように回る。


 武士の正装である裃(かみしも)ではなく、公家の者のような格好をしていた。

黒い烏帽子(えぼし)を被っている。

薄いからし色の直垂(ひたたれ)には、丸紋が散りばめられている。


「ね、これが品というもの。あんたの額には品がないよ。

なんか……ぬか漬けにされた茄子みたい」


「ぬ、ぬか漬けってえ! やめてくださいよお!」


 後に伊藤博文と名を改める伊藤ちゃんが顔を歪ませた。


「浅漬けの茄子を異国船に入れるのは無礼でしょ?」


「だめですよお! 通訳として私は行くんですからあ! だめです! だめです!

井上さんからも言ってくださいよお!」


「一度言い出したら聞かないよ。狂人なんだから、この人は」


 冷ややかな目をした井上聞多さんは、山道に落ちていた枝木を拾い、宙を切った。


 僕たちが歩みを止めずにいると、伊藤ちゃんは駆けてきて前に飛び出す。


「まずいですよお! だめでえす!」


「なにが」


 威圧的な女性の言葉に尻込みする伊藤ちゃんは、ぶるっと震えた。


「わ、私は! 私は藩命によってえ!

通訳として同行するように言われたんですよお!」


「藩が言ったから、なんだっていうんだ。

私がいらないって言ったら、いらないんだよ」


 女性は僕たちに目を向け、口元を上げた。

それは優しさというものではなく、自信が表れている不敵な笑みだ。


 長州藩士 高杉晋作(たかすぎしんさく)


 吉田松陰先生が主宰していた松下村塾の門下生だ。


「通訳にはクオンが最適でしょ。俊輔の拙いエゲレスの言葉なんて役立たずだ」


 高杉さんが伊藤ちゃんの額をぺちりと叩く。


「そ、そんなあ! 私はエゲレスで異人と話してますよお!

長州を守るためにエゲレスから帰ってきたのにい!」


 伊藤ちゃんは当てつけがましく、子どものような地団駄を踏む。


 彼女に一切見向きもしない高杉さんは、僕たちに視線を送った。


「ね、クオン、ミナト。一緒に行こう。

松下村塾の門下生として、異国のアホどもに一泡吹かせようよ」


 変わらない強者の笑み。薄紫の着物を纏うクオンは、表情を変えずに返す。


「それは賢明な判断であると思います。

私であれば言葉の細かい部分を正し、相手に伝えられます」


「だめえ! クオンちゃんはだめえ! 私は藩命でえ! 藩命なんだよお!」


 伊藤ちゃんが口を尖らせても、クオンは腹の前で手を重ねて淡々と言う。


「私が思うに、俊輔ちゃんは直訳しかできないと思います。

私は意思を汲み取りますし、相手の心情に訴えかけることもできます。

ただ言葉を並べるだけでは、免許皆伝とは呼べません。目録すら厳しいのです」


――クオン。それは酷いよ。


「へっ! わかってないねえ!」


「なにがでしょうか」


「言葉に大事なのは心なんだよお! だいたい合ってればいいんだよー!

松陰先生も言ってたもんねえー!

学問をどれほど学んでも、実際に動かなければ意味がないってさあ!」


「ダメです。これは講和です。そのような軽い気持ちなら下がっていてください」


「な、なんでよお!

これを成せば偉くなれそうな気がするのお!

お給金だって、たーっぷり! たっぷりだよお!

あっ……! も、もしかして! そういうことかあ!」


「なんでしょうか」


「私の分のお給金を狙ってるんでしょお!?」


――伊藤ちゃんって……本当に初代内閣総理大臣になるのかな……。


 彼女は懇願する。高杉さんは鼻で笑い飛ばす。


「行ったことにすればいいだろ。誰もわかりゃしないよ」


 五人で山を抜け、沿岸に出る。そこには壮大な景色が広がっていた。


「すごい……ね」


 僕は隣にいるクオンへ告げた。


 十隻以上の黒い船が佇み、海峡を塞ぐように占拠している。

海面に反射した陽の光が、黒い船の横腹で踊り狂う。

波打つ度に船体が小さく揺れて、舌舐めずりしているような不気味さがある。


 これが長州藩という、日本の一つの藩を攻めてきたのか。


 海岸まで辿り着くと、高杉さんは船を見てから背伸びをした。


「さっ、準備するかなー」


 そう言って、烏帽子を海岸に投げ捨てた。

次いで直垂を脱ぎ始め、白い肌が露わになる。


 僕の視界に突如として暗闇が降りた。


 双眸は温かい手で塞がれて、クオンの甘い香りがした。


「ねえ、俊輔。替えの着物ある?」


「ないですよお。なんで脱ぐんですかあ」


「ここに来るまでは民に見せていただけ。

余興よ、余興。敵陣に乗り込むには一張羅でしょ」


「ええ……持ってきてないですよお」


 弱気かつ呆れたような物言いだ。


 伊藤ちゃんの後に、クオンの明瞭な言葉が砂浜を走った。


「このようなこともあるかと思い、高杉さんの一張羅を持ってきました」


「おっ、さすがはクオン」


「今、ご用意します。

ミナト様。手を離しますが、決して目を開けないでください」


 クオンは僕から離れた。暗闇の中で、さらに強く目を瞑る。


 しばらく、時が過ぎた。


 しかし……。


「ミーナト」


 反応してしまった。目を開けてしまった。高杉さんが僕の名を呼んだから。


 目を惹かれる。真っ赤な着流しを羽織っただけの張りのある白い肌が見えた。


「見てはいけません……!」


 クオンが僕の前に立ち塞がり、視界を遮った。


「いいよ、いいよ、クオン。ミナトも男。見てしまうのは仕方ないよ」


「そういうことではありません!

なぜ、高杉さんは声をかけたのですか! それにミナト様も!

目を開けないでくださいと言ったのに見る! これは……ダメです!」


「声をかけられたから、反射的に――」


「言い訳するなんて最低です! ただ見たかっただけでしょう!

高杉さん! ミナト様が高杉さんの身体を見て、おかしくなったらどうするのですか!」


「落ちつきなよ。また癇癪を起こして。

あんたは綺麗な形と色をしてるでしょ、自信持ちな。

俊輔なんてさ、お猪口に茄子を乗せたみたいになってんだから」


「や、やめてくださいよお! それ病にかかってますよお!」


 叫んだ伊藤ちゃんは、己の胸元を隠した。


「俊輔ちゃん……」


 クオンは重病患者を見舞うような顔をした。


「ぷっくりとして茄子の色味……力強さという点で見れば、雅かもしれませんよ」


 その後で口元だけを上げ、小さく鼻を鳴らす。


「そんな目で見ないでよお! 違うのお! 私だってえ! きれいな色なのお!」


 僕は息を口から抜いて、辺りを見渡す。波打つ海面に何かが浮かんでいた。


 異人が捨てた物だろうか。黒い染みのように広がっている。


 ゆらゆら、と。気味の悪い動きだ。


 瞬きをした、その瞬間。


 突如として海の中から人が現れた。


 海藻のような髪を振り回し、海水を飛ばす。身に纏う白い肌襦袢は透けている。


 クオンは僕の目を塞ぐことはしなかった。

見惚れることはないという考えが、彼女にはあるのだろうか。


 海から現れた人は、日々の暮らしの中で会うことも多く、それが嫌だった。


 海面を割るように進み、こちらを睨みつける。


 思えば、彼女に初めて会ったのも海だ。


 松陰先生と出会ったときに現れた女性。


 篠原泰之進。


 彼女は珍しく近寄ってこない。

普段であれば、間違いなく金銭の要求をしてくる。


 篠原さんは以蔵ちゃんに咎められて以来、しばらくは大人しくしていた。


 けれど、その生活は長く続かなかった。

僕たちの近くに以蔵ちゃんの姿がないことに気づき、家に乗り込んでくることも多い。

町で会えば、茶屋の支払いを強制してくることもあった。

しかし、今日はどういうわけか、睨みを利かせるだけだ。


 熱を帯びた潮風が吹く。


 篠原さんは僕のことを見ていない。

その視線の先を追う。高杉さんが篠原さんに視線を返している。


 睨み合う二人。高杉さんは首を傾げていた。篠原さんは首を垂らし、上目遣いだ。


 二人の鋭い視線は、穏やかな潮風を潰す。


 先に目を逸らしたのは篠原さんだった。

腰籠に手を添えて、海岸林の中へ消えていく。


 高杉さんは眉を下げて、僕を見た。


「なに、あの女。すごく睨んでたけど」


「あ……知っている人です」


「へえ、知り合いなの。でも、声をかけてこなかったじゃん」


「おそらくですけど……高杉さんがいたからです」


「え、なんで?」


「怖かったんだと思います。あの人、そういうことには鋭いので」


「なんで。私ほど優しい者はいないのに」


 冗談なのか、本気なのか。推し量ることはできない。


 人を惹きつける魅力は十二分、同時に相手を圧倒する威圧感も持つ人だ。

誰彼構わず攻撃的になることは決してないけれど。


 彼女は海岸林の方を見て呟く。


「あんな目つきの悪い女、初めて見た」


「松陰先生と初めて会ったとき、一緒にいた人なんです」


「初めて……か。あれ、それって……」


「はい。黒船を見に行ったときです」


 あの日と今の状況は少し似ている。

講和のためとはいえ、これから黒船に乗り込むのだから。


「じゃあさ、松陰先生が葡萄酒を飲んだときの話、友と飲んだって」


「そうです。その葡萄酒を黒船から盗んできたのが、あの人なんです」


「へえ、やるじゃん。あのおばちゃん」


 高杉さんは腹を軽く叩いて笑い、その後で伊藤ちゃんを見た。


「一張羅には刀が必要だね」


 そう告げられた伊藤ちゃんは、寝違えたかのように首を横に動かし、顔を背けた。


「刀と脇差、持ってきてますよ」


 僕は高杉さんに向けて言った。


 背中の行商箪笥を下ろす。

大小を括っていた縄をほどいて、彼女に刀と脇差を向ける。


 僕が刀を持ってきていたことに、高杉さんは道中で気づいていただろう。


「ありがとう、ミナト。俊輔、わかるか。こういうところだよ」


「へえ?」


 気の抜けた声を出す伊藤ちゃんに、高杉さんは穏やかな声で続ける。


「クオンは私が直垂を脱ぐのを予想して、一張羅を持ってきてくれた。

私が出発前に『講和に刀はいらないか』と言ったのに、ミナトは刀を持ってきてくれた。

これがどういうことかわかるか、俊輔」


「私が……持ってくればよかったですねえ」


「アホ、違う。本当は二つとも必要だった。私は気まぐれで言ったわけじゃない」


「へえ?」


 眉を下げ、口をへの字にする伊藤ちゃんは首を傾げた。


「二人は私がいらないと言った物を持ってきてくれた。

でもね、ご機嫌取りをしようとしたわけじゃない。

私のことをよく見ているからだ。私の動きを先読みできる想像力があったからだ」


「そんなあ……たまたまですよお。偶然のことを当たり前みたいに言われてもお」


「違う。二人はちゃんと考えてる。

私はあんたを試すために一張羅と刀を置いてきた。

けど、あんたは言葉どおりに受け取って、ただ言うとおりにした」


「そ、そんなあ……それ言いがかりですよお。

立場を利用した嫌がらせですよねえ?」


「違う」


「よくないですよお、そういうのは。みんなを困らせてはだめでえす」


「いいか、俊輔。覚えておきな。

偉い相手にごますれ、擦り寄れ、相手の言うとおりになれ、って言っているわけじゃない。

むしろ戦え。偉い者とはとことん戦え。

己が強者と思い込んでいる相手には、絶対に負けるな」


 高杉さんは僕たちを見て何度か頷いてから、俯いている伊藤ちゃんに言葉を続けた。


「人を想う心、想像力を養いな。わからなくてもいい、間違っていてもいい。

でもね……しっかりと考えな。己のことを。相手のことを。

そうすれば、政をするときに民のことを考えられるようになる。

相手の気持ちを想像できない者は、政をするべきじゃない」


 真っ直ぐに伊藤ちゃんを見つめる高杉さんは、少しだけ笑った。


「いいか、政に大切なのは人心だ」


「でもお、講和の場に刀を持ち込むのは……だめですよお。

私たち長州が頭を下げる講和なのに、武器は――」


「いいんだよ。講和がうまくいかなかったら、異人たちを斬るんだから」


 目を見開く伊藤ちゃんは声を荒らげる。


「だ、だめですよお!

そんなことしたら長州が今度こそ滅ぼされるかもしれませんよお!

私のお給金も出なくなるじゃないですかあ!」


「騒ぐな。いいね、さっきも言ったけど、あんたは来なくていい。

己がなにをするべきか、しっかりと考えな。いいか、ちゃんと考えろ。

それで、あんたの答えを私に見せろ」


 彼女は僕たちに背を向け、両の手を広げた。


 燃え盛るような真っ赤な着流し。


 彼女の熱き心が表れているかのようだ。


 愛刀を腰に差し、振り返った姿は、空から舞い降りる天女のごとき美しさ。

同時に荒々しい強さを見せる鬼でもあった。


 天女と鬼神。


「さあ、戦の続きをしにいくよ……!」




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