高杉晋作 1
旅人で賑わう宿場町の通りを歩いている。
桃色の着物を纏うクオンの横顔は澄んでいた。
「ねえね……!」
女の子の声が人混みから聞こえた。クオンはすぐに振り返る。
僕たちの脇を駆け足で抜けていくのは、二人の幼い女の子だった。
女の子たちの後ろ姿をクオンは静かに見つめる。
少し視線を落とし、目を穏やかに細めていた。
以前の変えようのなかった現実は、彼女の心を何度も打ち叩いたはずだ。
以蔵ちゃんの死。
僕たちが幕末へ再び足を踏み入れたとき、以蔵ちゃんは墓の下に入っていた。
土佐の人たちに話を聞き、地元の女性が案内してくれて埋め墓まで行く。
参り墓ではないのに、なぜか、饅頭が一つだけ置いてあった。
その時のクオンのことを思い出すだけで、胸が苦しくなる。
クオンは未来に強制帰還となった後、何度も僕に幕末に行きたいと懇願した。
どうすることもできない。泣いている彼女を抱きしめることもできなかった。
残酷な別れという鉄鎚だけが静かに下された。
幕末の時間でいえば、今は以蔵ちゃんの死から二年近くが過ぎている。
小さく息を漏らす僕は、痛みのない話題でクオンに話しかけた。
「どこの旅籠にする?」
「しっかりと休めるところにしましょう。この間のように畳が臭いところは嫌です」
彼女の目利きで良質な旅籠を選ぶ。
座敷で寛ぎ、そろそろ外に出掛けようとしたところで大きな問題が生まれた。
幕末で過ごす僕にとって、非常に重要なことだ。
旅籠の風呂に入れなくなった。
「申し訳ないですねえ、風呂には入れません。
風呂の木が外れちまって、湯が漏れているんですわ」
頬がこけた主人の白髪頭が僕に向けられた。
「直せるんですよね?」
「いやあ……明日にならんと、ねえ」
少し顎を上げながら言う主人の顔つきに、腹が立った。
垂れ目でへらへらとしていれば、穏便に時が過ぎるというのだろうか。
旅籠に泊まるときは、条件の一つに風呂の有無があるというのに。
「この先を行くとねえ、湯屋がありますんで、そちらにどうぞ」
主人は背を向け、何かを探っている。
向き直った彼の手には、糠が入った袋と手拭いがあった。
それを僕に向けて、自信に満ちた表情で頷く。
商売人のもてなしですよ、と言わんばかりの笑顔に対し、僕は言う。
「湯屋は好まないので、宿に風呂があるか聞いたんです」
「へえ、わかっておりますう。宿帳に書いているときに言っておられましたねえ。
ええ、はい。聞いておりますう。
――今は風呂が壊れてしまったので、入れませんねえ」
「どうにか……なりませんか」
「へえ、無理ですねえ。無理、ですねえ」
店主は首を突き出し、目を丸くして言う。
不思議な生き物でも見ているのかのように。
僕は店の者に食ってかかるような真似はしない、一度もしたことがない。
誰にだって至らぬところはある。不備というものは偶然生まれることもあるのだから。
人であろうと、物であろうと、それは変わらない。
しかし……今回のことは譲れない。
「泊まる前に……風呂があるって――」
「へえ、風呂は壊れました。なんでもねえ、先程、壊れましたねえ。
ええ、確かに壊れた、そのようですねえ」
――この人……なんでドヤ顔なんだよ……。
「まあ……直せば入れますな。それは当然ですう。ですが、今ではないですう。
今が明日になることはありませんねえ。朝日が昇って明日になるんですう」
――あ、煽ってる……煽ってるの?
「ミナト様、湯屋へ行きましょう」
「ダメだよ……!」
クオンの言葉に、僕は強い言葉を返した。
帳場で筆を動かしていた体格の良い武士の手が止まる。
「迷惑になります。人様に迷惑をかけてはいけません」
淡々と言うクオンの顔は無表情のままだ。
「さあ、湯屋へ行きましょう」
「いや……でも……」
「人の迷惑になることを嫌うミナト様らしくありません」
やむを得ず外に出て、クオンと共に宿場町を歩く。
しばらく進むと、暖簾に「ゆ」という文字が見える。
気が進まない……というより、やはり店の前で足を止めることは必然だった。
「ミナト様、どうされました?」
「やめようよ」
「行きましょう」
「嫌なんだよ。前から言っているじゃん」
今まで明確な理由を告げたことはない。
僕たちの住まいがある江戸や京、他の土地でも風呂が付いている借家を選んでいた。
旅籠だって同じだ。それは変わらない。
「温かい湯につかって、旅の疲れを癒やしましょう」
「嫌だよ」
「なぜですか」
視線がぶつかり合い、沈黙する。
他の旅人は湯屋の暖簾を手で払い、入っていく。
老若男女問わず。足を止めるのは僕たちだけだ。
「理由を教えてください」
「嫌なんだよ」
「物事を拒否することには理由が付きものです。
それを言語化することも大切であると私は思います」
僕は短く息を吐き出す。
クオンをじろじろと見て、湯屋に入っていく男たちに殺意を覚える。
彼らは笑みを浮かべていた。片方だけ上がる口元がたまらなく嫌だ。
「クオンは……嫌じゃないの」
「なにがでしょうか」
「混浴のことだよ」
僕はそれが嫌だった。
「お風呂に入りたいです」
紅い瞳は僕を見つめる。
「この時代の大衆浴場は今も混浴だって、クオンが教えてくれたんじゃん」
「おっしゃるとおりです。
ですが、黒船の来航以来、幕府は異国の意識を受け入れて混浴を禁止にしております」
「わかっていて言うのは卑怯だよ。
それが機能しているかは別の話だよ。特に地方の宿場町なんかでは」
「おっしゃるとおりです」
そう言って、無表情で僕を見つめる。風呂に入るのだという強い意思が感じられた。
「わかった。わかったよ。じゃあ……僕が様子を見てくる」
知り合いが中にいるか確認したいと、僕は湯屋の番頭に嘘を告げ、店の中を見渡した。
入口は男女で別々になっている。
とりあえずは胸を撫で下ろし、脱衣場の暖簾を手で払った。
思わず目を逸らす。視線を落としながら前に進み、浴場の様子を窺う。
多くの人で賑わっている。みんな笑顔で話している。
けれど……。
踵を返し、外で待つクオンの元へ戻った。
「やっぱりダメだよ」
「どうしてですか」
「入口が別々なだけ。脱衣場も浴場も男女一緒。
しかも、浴場には一本の細い綱が引いてあるだけ」
「つまり、空間の区分けですね」
「区分けじゃないよ。男女ともに綱を跨いでいたんだから。
その綱で背中を擦っている人もいたし」
「そうですか、わかりました。ミナト様、入りましょうか」
歯を食いしばってから、クオンの前に立つ。
「今日は風呂に入らなくても……いいんじゃないかな」
「嫌です。私はお風呂に入ります。ミナト様も入ります。一緒に行きましょう」
「ダメだよ」
「入ります」
「宿でお湯を貰って、身体を拭けばいいよ」
「お風呂につかります」
人混みが生む声は僕たちの頭を飛び越える。
二人の間には、沈黙がしばらく続いた。
「そういうこと……ですか」
クオンは眉を下げた後で、急に両の手で顔を覆う。
「私の身体が……大衆の前では相応しくないということですね!?
そう言いたいのですね! ミナト様……!」
手で隠されていた顔が露わになると、紅い瞳は潤んでいた。
「そ、そうじゃないよ」
「ダメです! もうダメです……!
一緒に旅をしている者だと他の人に思われたくないということですね!?
私の……私の胸が小さいから……!」
「違うって」
誤解だ。全く正反対のことを僕は考えているというのに。
「もう! もうダメです……!
確かに大きくはないです! 平助ちゃんにいつも言われます!
ミナト様もそう思っているのですね!?」
彼女の大声によって、道行く人の多くがこちらに目を向けた。
この時ばかりは、剣術の達人のように視線を察知できる。
「声が大きいよ、静かにして。みんなが見てるよ」
「私のは桃色です! 慎ましい円は雅です!」
「しー、静かに。いいよ、そんなこと聞いてないから……声が大きいよ」
「う、うるさい……!? もうダメです!」
クオンの整った容姿、紅い瞳に銀髪。
湯屋に入れば、誰からも注目されることは目に見えていた。
それほどの屈辱があるだろうか。
湯屋という大義名分を得た男たちの視線が、そこにはある。
彼女の身体を舐め回すように見られてしまう。
「クオンだって……嫌でしょ。いろいろな男の人に身体を見られるんだから」
「それは誤解です」
彼女は急に背筋を伸ばした。
「この時代の性は、未来とは異なるのです」
納得できずに問いかけると、いつものように冷静に、わかりやすく説明してくれた。
「湯屋とは誰しもが裸になるのです。そこにエロスというものは存在しません」
「どういうこと?」
「当たり前なことに、人はエロスを感じません。
湯屋では老若男女、裸体が当たり前。つまり、エロスはないのです」
「それは……人それぞれだよ。人によるよ。みんながそうじゃない。
それが楽しみで来ている人はいるはずだよ」
「ミナト様のおっしゃることも理解できます」
「だいたいさ、横浜の湯屋の前を通りかかったとき、僕に激怒したじゃん。
それなのに、湯屋へ入らせようとするのは変だよ」
「あの時とは違います。
あの時は、ミナト様が異人たちと同じ目で、湯屋の前にいる娘たちを見たからです。
腰巻き一枚で胸を露出させ、夕涼みしている娘をいやらしい目で見ていました」
「見てないよ。驚いたんだよ」
「いいえ、じっくりと見ていました。
ですが、ここは異人の来れぬ地方の湯屋です。
ミナト様が明鏡止水の心を持てば、なに一つ、問題ありません」
僕は一度だけ、湯屋の外で涼む腰巻き一枚だけの女性たちを見たことがある。
けれど、それ以来、湯屋が賑わう時間帯で歩くことをクオンに阻止されていた。
開港されている近くの湯屋では、異人たちが店の前で娘たちを見学しているという。
そういうことがあって、娘たちは胸を露出したままの風呂上がりの夕涼みをしなくなる。
幕府が出す禁止令ではなく、異国の男たちの目によって、羞恥心を芽生えさせられた。
「よいですか、ミナト様。
異人と日本の多くの者とは、エロスの認識が違うのです」
「多くの人ってことは、少数派がいるってことじゃん。
百人いて十人いたら嫌だよ。それに、もっといると思う」
「そうですか。それではエロスについてお話します」
クオンは先程の表情とは違い、人差し指を立てて朗らかに話を続けた。
「この時代におけるエロスとは、裸体ではないのです」
「雰囲気ってこと?」
「チラリズムです」
「チ、チラリズム……」
「ミナト様は今、未来におけるチラリズムを想像しましたね?
スカートから覗く足。前かがみになった胸元。腕を上げたときの腋。
ミナト様は想像しましたね?」
「してないよ」
「この時代においても、チラリズムというものは存在します。
ですが、露骨なものではありません。
肌を見せつけるエロスは、雅ではないのです」
行き交う人々には、横文字の意味は伝わらないだろう。
そうであるからか、彼女はどこか楽しげに話を続けていく。
「着物の下に着る長襦袢と肌襦袢。
長襦袢は赤色などを選び、この色が見え隠れします。
しゃがんだ時に少しだけ露わになる白い足、これは足首や脛の辺りです。
つまり、赤と白の対比! 赤が見えて! 白が見える!
これこそが……チラリズムなのです!」
「そう……なんだ」
「日本髪にしている首筋もそうです。
うなじの産毛は本来なら隠れているものです。
これも一種のチラリズムなのです!」
「…………。でも、クオンは、そのことを今まで教えてくれなかったよね」
「ミナト様に言うと意識してしまうからです。
着物の女の子はかわいい、いつも言っていました。
そこでチラリズムを話してしまうと、ミナト様の理性が崩壊すると思ったのです。
人とは意識をすることで、そのものを見ることができます」
「うーん。それはどうだろう。
そういえば、クオンの着物の裾からも赤色が見えたりしたけど、それもそうなの?」
彼女は太ももの辺りを押さえ、こちらに鋭い視線を送った。
「見ていたのですね?」
「見たわけじゃなくて、しゃがんだときに見えたことがあるだけ」
「それこそがチラリズムです! これは……雅なのです!」
僕は溜め息を吐き出す。
「チラリズムの件はいいよ。
湯屋のこと。幕府は寛政や天保のときにも、混浴を禁止するように言っていなかったっけ。
禁止令を出したけど、庶民は無視していた。
それってさ、現場にはエロスがあって、風紀が乱れるからでしょ」
クオンは目を見開いた。
「そ、それは……! 一部の者たちが……!」
「なに?」
「い、一部の不届き者がいたのです! 全体としては雅だったのです……!」
「苦しくないかな、その言い訳」
「なぜですか! 雅なエロスがあるのです!」
クオンの熱弁は続く。
この後、どうしても風呂に入りたいという彼女の意を汲んだ。
湯屋の番頭と主人に頼み込み、閉店後に浴場へ入れてもらった。
それなりの金子は包んだが、クオンの身体を男たちの目から守れるなら安いものだ。
風呂を出て、宿場町の灯りが洩れる薄暗い道を歩く。
「この時代のエロス。その多くは裸体ではないのです」
湯上がりの熱で、クオンの横顔には少しだけ汗が浮かんでいた。
「裸体を見慣れていたら興奮しないのではないか、とミナト様は思いましたね?」
「まあ……少しだけ」
――クオン、こういう話……好きだよな。
「裸体を見慣れているからこそ、視覚ではなく感覚で燃え上がるのです。
視覚よりも互いの感覚で深める。これはとても美しいと私は思います」
「へー」
間延びした声で返事をすると、足元の石ころに躓いて、転びそうになった。
腕を掴んでくれるのは、いつもどおりクオンだ。
「おケガはありませんか、ミナト様」
「うん。ありがとう」
「話の続きです。未来は視覚情報に左右されています。
視覚を除いた感覚、これこそが至高への第一歩です」
「もういいよ、その話は」
隣を歩いていた下駄の音が聞こえなくなった。
振り返ると、白い手拭いを握りしめたまま立ち尽くすクオンがいる。
「…………。つまらないですか」
「ううん、違うよ。勉強にはなるよ」
「私の話はつまらないですか? ミナト様を退屈させてしまいますか?」
薄暗い宿場町に静かな声が通る。
どこかで宴会でもしているのか、多少の喧騒と混ざる。
「違うって。たださ……あの人は違ったから。そういう話が霞むというか」
遠くから煮物の甘い香りがする。僕の頭には、いつでも輝いている人が浮かぶ。
「チラリズムじゃない。いつも……全開だったじゃん。
胸元は開けているし。股を開いて寝ていたりさ。
縁側で裾をたくし上げて、三味線を弾いていたり」
松下村塾の面々が思い出の中で動く。
「股を開くのは品がないって、稔麿ちゃんが着物を直してあげてさ。
志士の振る舞いとして万死に値するって、久坂さんが嘆いて。
でもさ、あの人は……それでも高潔に見えたもんね」
「そうですね。品がないのに雅。雅であるのに品がない。不思議な方です」
「うん。あの時のことも僕は忘れてないよ」
「あの時……ですか?」
「うん。馬関戦争の講和のことだよ」
戦争を終結するための講和会議に臨んだ場に、僕たちもいた。
長州藩がイギリス、アメリカ、フランス、オランダという四カ国連合と戦った。
馬関戦争。
今回の旅の目的は、一人の女性に会うためだ。
彼女はとても無茶なことをする。けれど、誰よりも頼もしく、誰よりも猛る。
隣にいると、自分まで何者かになったように思えてくる。
人を巻き込む力を持つ、熱き人物だった。




