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散りゆく桜の真実、ぼくは未来で口づけを  作者: 陽野 幸人


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46/63

幕間 〓〓

 あの日も同じような雨が空から落ちていた。


 朦朧とした意識を土砂降りの雨音が叩く。子守歌にしては刺々しい。


 大樹の下で筵(むしろ)にくるまって、ただ時が過ぎるのを待つ。


 地面から生える草を噛んでみると、青臭さが鼻から抜け、苦みが口の中に広がった。


 何日も食べていない。しかし、腹は声を出さない。


 喉は雨が降れば潤う。食べ物は盗めば手に入る。寒さはボロ布を纏えばしのげる。


 けれど、そのような日々は長くは続かない。


 人々が私に対して忌み嫌う目を向けることは、当然だった。


 浅い呼吸を繰り返す。何も考えられない。雨音だけが聞こえる。


 家族はすでにいない。流行り病で次々と失った。

父と母。順に亡くなった。妹も私の目の前で息を引き取った。


 私には誰もいない。一人になった。


 村人から避けられ、居場所もなく、流れ着くままに各地を転々とした。

素性の知れぬ者が、まともな暮らしなどできるわけがない。


 男たちに身体を売ることも多かった。

草が茂る道端。石が転がる河原。獣が息づく山の中。どこでもあった。


 どれほど身を削ったところで、地面に投げ捨てられる金は蕎麦の一杯にしかならない。

対価が払われず、逃げられることもある。

下手に深追いすれば、動けなくなるまで嬲(なぶ)られることもあった。


 役人からは盗人として追われ、泥の中を逃げることにも慣れている。


 震える手。見えぬ明日。耐え難き苦しみ。


 私は三途の川の岸辺に立っているのだろうか。


 降りしきる雨が痛みを流してくれることはない。


「大丈夫ですか?」


 死にゆく者へ向けられた、天からの声だと思った。


 善の心を持つ者には晴天から使いが来る。業の深い者には雨空から使いが来る。


 そのようなことを思った私の前に、傷んだ草鞋が見えた。


 たくし上げられた灰色の袴から白い足が覗いて、泥で酷く汚れている。


 しかし……とても美しく見えた。


「水を飲みますか? 湧き水ですよ」


 朽ちている藁の穴から相手を見た。


 身体には蓑(みの)を纏っていて、背中には大きな行商箪笥のような荷がある。

菅笠(すげがさ)を深く被っているから、表情は窺えない。


 女の旅人だ。口元は優しく上がっている。


 その人は私の前にかがんで、繊細な焼き菓子を扱うように抱き起こしてくれた。


「さあ、どうぞ。飲んでください」


 水の入った竹筒が私の唇に触れる。


 母と同じだった。熱を出した私に、いつでも白湯を飲ませてくれた。

私も母に倣い、病に伏す妹に飲ませたものだった。


 一口水を飲み込む。幼かった妹の声を思い出してしまう。


『ねえね……あ、あまざけ……のみたい』


『うん……今度、買ってくるね』


 乾いた身体に染み渡る水を飲んでいると、旅人の優しい声が雨の音と重なった。


「全部、飲んで大丈夫ですよ」


 穏やかな言い方だ。旅人の顔を見る。菅笠から落ちる雫と白い肌が神々しい。


 木の幹に背を預けるように座らされた。

隣で背負い箪笥を下ろした旅人は、中身を探っている。


「すごい雨ですね。いきなり降ってきたので、大変でしたよ。

ですが……雨は天からの恵みですから、私は好きなんです」


 私は返事をすることなく、彼女を見つめた。


「なにか……ないかな。あ……あった」


 旅人の手が掴んだのは、竹の皮に包まれた物だ。


 握りこぶし二つ分はありそうな包みを開ける。


「あっ……」


 彼女は高い声を出して、少し口を曲げた。


「ごめんなさい。

握り飯か饅頭だと思ったのですが……焙烙玉(ほうろくだま)でした」


 聞き慣れない言葉だ。


 竹皮の中身は油紙で巻かれている。

おそらく物騒な物だ。それを持ち歩く女の旅人とは何者なのだろう。


「友に頼んで、特別に作ってもらったんですよ、この焙烙玉」


 そう言って、困ったように笑う。


 しかし、一瞬だけ口を横一文字に結んだ姿に、微かな寒気を感じた。


 彼女は菅笠を外す。それを見て、私は息をのんだ。

家族を失ってから、初めて見る優しい瞳だ。

他の者が私に向ける侮蔑、憐憫、嫌悪、それらとは確実に違っていた。


 真っ直ぐに私を見てくれる。


 背負い箪笥の引き出しを開ける旅人は、新たな物を取り出し、私に向けた。


「ごめんなさい。このような物しかなくて」


 食べ物を受け取ったところで、私の腹は音を立てない。すっかり眠っていた。

何日も食べていないからだろうか。


 手にした食べ物は……とても重く感じた。


 両の手に精一杯の力を込める。


「全部、食べていいですよ」


 彼女の言葉を聞き入れず、私は細くなった腕を何度も震わせる。


 べぎん……。


 二つに割れた、その片方を旅人に向ける。


 彼女の目は細く垂れ下がり、うん、うんと頷いた。


「あなたは人として大切なものを持っていますね」


――大切なもの。


「人を想う心です」


 私の心の声を見透かしたように、そう言った。


 旅人の横顔。その瞳は遠くを見ている。雨に濡れた地面でも森でもない。


「辛くはないですね。甘い……うーん、少し甘いですかね」


 一口齧った彼女は苦笑いした。


 私は旅人の様子を窺ってから口に含む。


 水分が抜けている。食感は柔らかい。


 甘さを噛みしめていると、甘酒を飲みたいと言った妹のことを思い出す。


 病に侵された空腹の中で、うわ言のように言っていた。


『ねえね……あまざけ……』


 井戸は枯れていて、甘酒どころか満足に水も飲めなかった。


 空から降る雨のように、目から涙があふれ出す。


 もう一口、齧る。


 甘い。私には……とても甘く感じた。妹に飲ませたかった甘酒と同じくらいに。


 瞳を覆う滴の中に、いつかの妹が現れる。


『ねえね……あまざけ……のみたい』


『うん……買ってきたよ。ほら、飲んで』


『わ、わあ……あまい。はい……ねえねも、のんで』


『うん……』


『あまくて……おい……しいね』


『うん……おいしいね』


『ねえね、いつも……ありがとう……』


 私が妹に飲ませたのは……雨水だった。


 何日も前に桶に貯めたものだ。


 近所の家から盗んできた、少しすえた飯を木の棒ですり潰し、雨水と混ぜた。


 それを甘酒と言って……妹に飲ませた。


 酷い娘だ。酷い姉だ。酷い人間だ。


 妹は私に笑顔を向けて……そして死んだ。


「悔しかったでしょう」


 身体が震える。涙目で隣を見ると、旅人はただ静かに雨粒を追いかけていた。


「なにもできずに奪われる。理不尽に奪われていく世の中です。

見ていることしかできなかった。泥水を啜ることしかできなかった。

守りたいものを守れなかった。

あなたは……とても悔しかったでしょう」


 私の奥底に眠っていた感情が表に駆け出し、暴れそうになった。


 そうだ。


 私は悔しかった。私は憎かった。私は突き飛ばしたかった。


 家族を次々と殺した病を恨んだ。


 両親に何度も助けられていた村人が、妹のことで懇願する私に見向きもしなかった。


 だから……恨んだ。


 私たちから奪うだけ奪い、笑っている国の上に立つ者も恨んだ。


 憎んでいる。すべてを憎んでいる。


 そして……妹を助けることのできなかった己が憎い。


 何よりも……何よりも憎い。


「変えたい……とは思いませんか」


 旅人は微笑み、私を見た。


「善の心が笑われない世の中に。人の優しい想いが笑われない世の中に。

理不尽に傷つけられる人がいなくなる……そのような世の中に変えてみませんか」


 その言葉は、遠くで鳴る雷のように私を貫いた。


「私と一緒に来ませんか」


 唐突な言葉を出し、そっと私の手に触れてくれた。


 黒く汚れているというのに。


 優しく、優しく撫でてくれた。


 温かい。とても温かい。涙が止まらない。


 彼女の微笑みには嘘偽りのない心があったから。


 私が小さく、小さく頷くと、旅人は優しく微笑んだ。


「私の名は――」


 その瞬間、強い風が吹きつけた。


 周囲の木々を揺らし、葉に溜まっていた雨粒が一斉に降り注いだ。

彼女が口にした名は、雫の落ちる音に掻き消されてしまう。


 私に見えたのは、穏やかに名を紡ぐ、その柔らかい唇の動きだけだった。


「あなたの名を教えていただけますか」


 私は小さく首を横に振る。真っ暗な日々の中で名を無くしていた。

心の奥に押し込んでいたのかもしれない。


 誰からも呼ばれることがない。生きていく上で必要がなかった。

私が私であるということは、誰も知らないのだから。


 私の名を呼んでくれる家族は……もういない。


「そう……ですか。もし、よろしければ、私が名付け親になってもよいですか?」


 温かい。なんと温かい言葉なのだろう。


 彼女は私に大切なものを贈ってくれた。


 私に名を与えてくれた。


 私にとっては出会いの証。


 今も手の中にあるのは……一つの萎びた大根だ。




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