幕間 〓〓
あの日も同じような雨が空から落ちていた。
朦朧とした意識を土砂降りの雨音が叩く。子守歌にしては刺々しい。
大樹の下で筵にくるまって、ただ時が過ぎるのを待つ。
地面から生える草を噛んでみると、青臭さが鼻から抜け、苦みが口の中に広がった。
何日も食べていない。しかし、腹は声を出さない。
喉は雨が降れば潤う。食べ物は盗めば手に入る。寒さはボロ布を纏えばしのげる。
けれど、そのような日々は長くは続かない。
人々が私に対して忌み嫌う目を向けることは、当然だった。
浅い呼吸を繰り返す。何も考えられない。雨音だけが聞こえる。
家族はすでにいない。流行り病で次々と失った。
父と母。順に亡くなった。妹も私の目の前で息を引き取った。
私には誰もいない。一人になった。
村人から避けられ、居場所もなく、流れ着くままに各地を転々とした。
素性の知れぬ者が、まともな暮らしなどできるわけがない。
男たちに身体を売ることも多かった。
草が茂る道端。石が転がる河原。獣が息づく山の中。どこでもあった。
どれほど身を削ったところで、地面に投げ捨てられる金は蕎麦の一杯にしかならない。
対価が払われず、逃げられることもある。
下手に深追いすれば、動けなくなるまで嬲られることもあった。
役人からは盗人として追われ、泥の中を逃げることにも慣れている。
震える手。見えぬ明日。耐え難き苦しみ。
私は三途の川の岸辺に立っているのだろうか。
降りしきる雨が痛みを流してくれることはない。
「大丈夫ですか?」
死にゆく者へ向けられた、天からの声だと思った。
善の心を持つ者には晴天から使いが来る。業の深い者には雨空から使いが来る。
そのようなことを思った私の前に、傷んだ草鞋が見えた。
たくし上げられた灰色の袴から白い足が覗いて、泥で酷く汚れている。
しかし……とても美しく見えた。
「水を飲みますか? 湧き水ですよ」
朽ちている藁の穴から相手を見た。
身体には蓑を纏っていて、背中には大きな行商箪笥のような荷がある。
菅笠を深く被っているから、表情は窺えない。
女の旅人だ。口元は優しく上がっている。
その人は私の前にかがんで、繊細な焼き菓子を扱うように抱き起こしてくれた。
「さあ、どうぞ。飲んでください」
水の入った竹筒が私の唇に触れる。
母と同じだった。熱を出した私に、いつでも白湯を飲ませてくれた。
私も母に倣い、病に伏す妹に飲ませたものだった。
一口水を飲み込む。幼かった妹の声を思い出してしまう。
『ねえね……あ、あまざけ……のみたい』
『うん……今度、買ってくるね』
乾いた身体に染み渡る水を飲んでいると、旅人の優しい声が雨の音と重なった。
「全部、飲んで大丈夫ですよ」
穏やかな言い方だ。旅人の顔を見る。菅笠から落ちる雫と白い肌が神々しい。
木の幹に背を預けるように座らされた。
隣で背負い箪笥を下ろした旅人は、中身を探っている。
「すごい雨ですね。いきなり降ってきたので、大変でしたよ。
ですが……雨は天からの恵みですから、私は好きなんです」
私は返事をすることなく、彼女を見つめた。
「なにか……ないかな。あ……あった」
旅人の手が掴んだのは、竹の皮に包まれた物だ。
握りこぶし二つ分はありそうな包みを開ける。
「あっ……」
彼女は高い声を出して、少し口を曲げた。
「ごめんなさい。
握り飯か饅頭だと思ったのですが……焙烙玉でした」
聞き慣れない言葉だ。
竹皮の中身は油紙で巻かれている。
おそらく物騒な物だ。それを持ち歩く女の旅人とは何者なのだろう。
「友に頼んで、特別に作ってもらったんですよ、この焙烙玉」
そう言って、困ったように笑う。
しかし、一瞬だけ口を横一文字に結んだ姿に、微かな寒気を感じた。
彼女は菅笠を外す。それを見て、私は息をのんだ。
家族を失ってから、初めて見る優しい瞳だ。
他の者が私に向ける侮蔑、憐憫、嫌悪、それらとは確実に違っていた。
真っ直ぐに私を見てくれる。
背負い箪笥の引き出しを開ける旅人は、新たな物を取り出し、私に向けた。
「ごめんなさい。このような物しかなくて」
食べ物を受け取ったところで、私の腹は音を立てない。すっかり眠っていた。
何日も食べていないからだろうか。
手にした食べ物は……とても重く感じた。
両の手に精一杯の力を込める。
「全部、食べていいですよ」
彼女の言葉を聞き入れず、私は細くなった腕を何度も震わせる。
べぎん……。
二つに割れた、その片方を旅人に向ける。
彼女の目は細く垂れ下がり、うん、うんと頷いた。
「あなたは人として大切なものを持っていますね」
――大切なもの。
「人を想う心です」
私の心の声を見透かしたように、そう言った。
旅人の横顔。その瞳は遠くを見ている。雨に濡れた地面でも森でもない。
「辛くはないですね。甘い……うーん、少し甘いですかね」
一口齧った彼女は苦笑いした。
私は旅人の様子を窺ってから口に含む。
水分が抜けている。食感は柔らかい。
甘さを噛みしめていると、甘酒を飲みたいと言った妹のことを思い出す。
病に侵された空腹の中で、うわ言のように言っていた。
『ねえね……あまざけ……』
井戸は枯れていて、甘酒どころか満足に水も飲めなかった。
空から降る雨のように、目から涙があふれ出す。
もう一口、齧る。
甘い。私には……とても甘く感じた。妹に飲ませたかった甘酒と同じくらいに。
瞳を覆う滴の中に、いつかの妹が現れる。
『ねえね……あまざけ……のみたい』
『うん……買ってきたよ。ほら、飲んで』
『わ、わあ……あまい。はい……ねえねも、のんで』
『うん……』
『あまくて……おい……しいね』
『うん……おいしいね』
『ねえね、いつも……ありがとう……』
私が妹に飲ませたのは……雨水だった。
何日も前に桶に貯めたものだ。
近所の家から盗んできた、少しすえた飯を木の棒ですり潰し、雨水と混ぜた。
それを甘酒と言って……妹に飲ませた。
酷い娘だ。酷い姉だ。酷い人間だ。
妹は私に笑顔を向けて……そして死んだ。
「悔しかったでしょう」
身体が震える。涙目で隣を見ると、旅人はただ静かに雨粒を追いかけていた。
「なにもできずに奪われる。理不尽に奪われていく世の中です。
見ていることしかできなかった。泥水を啜ることしかできなかった。
守りたいものを守れなかった。
あなたは……とても悔しかったでしょう」
私の奥底に眠っていた感情が表に駆け出し、暴れそうになった。
そうだ。
私は悔しかった。私は憎かった。私は突き飛ばしたかった。
家族を次々と殺した病を恨んだ。
両親に何度も助けられていた村人が、妹のことで懇願する私に見向きもしなかった。
だから……恨んだ。
私たちから奪うだけ奪い、笑っている国の上に立つ者も恨んだ。
憎んでいる。すべてを憎んでいる。
そして……妹を助けることのできなかった己が憎い。
何よりも……何よりも憎い。
「変えたい……とは思いませんか」
旅人は微笑み、私を見た。
「善の心が笑われない世の中に。人の優しい想いが笑われない世の中に。
理不尽に傷つけられる人がいなくなる……そのような世の中に変えてみませんか」
その言葉は、遠くで鳴る雷のように私を貫いた。
「私と一緒に来ませんか」
唐突な言葉を出し、そっと私の手に触れてくれた。
黒く汚れているというのに。
優しく、優しく撫でてくれた。
温かい。とても温かい。涙が止まらない。
彼女の微笑みには嘘偽りのない心があったから。
私が小さく、小さく頷くと、旅人は優しく微笑んだ。
「私の名は――」
その瞬間、強い風が吹きつけた。
周囲の木々を揺らし、葉に溜まっていた雨粒が一斉に降り注いだ。
彼女が口にした名は、雫の落ちる音に掻き消されてしまう。
私に見えたのは、穏やかに名を紡ぐ、その柔らかい唇の動きだけだった。
「あなたの名を教えていただけますか」
私は小さく首を横に振る。真っ暗な日々の中で名を無くしていた。
心の奥に押し込んでいたのかもしれない。
誰からも呼ばれることがない。生きていく上で必要がなかった。
私が私であるということは、誰も知らないのだから。
私の名を呼んでくれる家族は……もういない。
「そう……ですか。もし、よろしければ、私が名付け親になってもよいですか?」
温かい。なんと温かい言葉なのだろう。
彼女は私に大切なものを贈ってくれた。
私に名を与えてくれた。
私にとっては出会いの証。
今も手の中にあるのは……一つの萎びた大根だ。




