岡田以蔵 13
*
土に混ざった小石が脛にめり込む。
筵があるとはいえ、傷だらけの皮膚には酷く堪えた。
頭上は灰色の空が広がり、湿った風と土の香りが鼻の奥を撫でる。
目の前には地獄の穴が口を開けていた。
――ここで……終わりがか。
腫れた瞼の中にある瞳で周囲を見渡す。
刑場は塀に囲まれ、玉砂利が敷き詰められ、いくつかの立ち木が並ぶ。
背後には斬首を手伝う下役がいて、首斬り役の姿はまだない。
後ろにある牢屋敷の座敷には、検使と三人の者たちが控えている。
寂しげな雰囲気の中で、甲高い鳥の鳴き声が聞こえた。
雨が降る前に、羽を休める場所を探しているのだろう。
うちには雨宿りする場所も、隠れる場所もない。
――ねえね。ミナト。
――腹は減っとらん?
――温かい飯は食えとる?
――ケンカせんで、笑って過ごしておるがか?
会いたい。二人に会いたい。何度も牢の中で繰り返した。
迷惑になるとわかっていても、二人に会いたかった。
関わらせてはいけないと思っていても、心の奥底では願っていた。
喉の奥から何かが迫り上がり、胸の辺りは鎖帷子を着込んだように重くなった。
歯を食いしばっても、涙が目に集まってくる。
頬を濡らすわけにはいかない。これから……うちは斬首されるのだから。
顔を伏せて、目の前の暗い穴を見つめる。
うちの首は、この中に落ちることになるのだ。
繰り返す息は……浅い。
『以蔵ちゃん……!』
大切な人の声だ。身が大きく震えた。
何度も何度も呼んでくれた優しい声だ。
うちを抱きしめてくれた温かい声だ。
「ねえね……!」
声を出して振り返ったが、そこには誰の姿もなかった。
優しい笑顔は……どこにもなかった。
目を伏せ、呼吸は荒くなる。
会いたい。最後に一目でいいから……会いたい。
話したい。もっと、もっと話したい。
決して叶わないことを考えてしまう。
すると、玉砂利を草鞋で踏みつけ、首斬り役の男がこちらに近づいてきた。
「なにを叫んどるがじゃ。おとなしゅうしとけ」
隣にきて、鼻を鳴らす。
「おまんみたいな大罪人を斬るんは、わしまで穢れゆうみたいで嫌ぜよ」
後ろで縛られた縄が手首に食い込む。
うちが軽く頭を下げると、首斬り役は溜め息をついた。
「わしは人を斬るんは初めてぜよ。手元が狂うても化けて出るな」
「首の隙間……」
「ああ?」
「首の骨の隙間は紙三枚ほどやき、そこを真っ直ぐに振り抜けば……一太刀ぜよ」
「な、なんぜっ!」
「骨に当たれば……首は斬れん。骨と骨の間を狙うぜよ。
しっかり狙って斬れば、刃こぼれもしないき」
「お、おまん……! 罪人のくせに、わしを愚弄するがかっ!」
「うちは……ええけど、他のもんは楽にさせたほうがええき」
「な、なんじゃちい……!」
背後で何かを叩く、乾いた音がした。
「なにを騒いでおる! 刑場じゃ! 静かにするぜよ!」
再び鳴る。おそらく扇子で畳を叩いたのだろう。
しばらくの沈黙の後で、首斬り役が口を開く。
「おまんは天下の大罪人じゃ。
おまんと関わったもんも、しっかりと捕えるがぜ」
「関わった……もん?」
「そうぜ。勤王党のやつらは、おまんが口を割ったき、よう捕まえよったぜ。
他にもおるが。わしは知っとるぜよ」
ぽつり。ぽつり。ぽつり。
曇っていた空から雨粒が落ちてくる。
奥歯に力が入り、頬が強張った。
男は嘲笑うかのように話を続ける。
「おまん。勤王党とは違う仲間が京におるそうじゃの」
ぽつ。ぽつ。ぽつ。
後ろで縛られた手が雨で濡れていく。
「それは……どういう意味ぜよ」
顔を上げると、男はにやにやとしていた。
「おまんを手引きしとった薬売りの二人組がおるいう話は知っとるがぜ。
さっき、門の前に物乞いのような女が来よった」
その言葉は胸の奥を突き刺す。奥歯が砕けるほどに、噛みしめる。
「そん物乞いは……なんと言うとったがか」
「おまんの後ろには、薬売りの二人組がおる。
捕まえて厳しい罰を与えんと、御公儀に弓引くことになるち言うとったぜよ」
丸まっていた首と背筋が、天から引っ張られるように伸びる。
「そんもんたちのことなど……うちは知らん」
「とぼけゆうが。おまんが知らぬ存ぜぬ言う、と物乞いも言うとったがぜよ。
そん薬売りは長州や御公儀とも繋がっとるゆう話ぜ」
「薬売りなら……おかしいことじゃないき」
「はっ、それは知らん。
けんど、おまんとの繋がりは、御公儀に対する反逆じゃ。
上役に言うて、わしの手柄にするぜよ。
こん話を伝えれば、殿様から褒美が出るかもしれん」
「勘違いで……終わるきに」
「へっ、見え透いた嘘ぜよ。そん物乞いが言うんには一人は若い女じゃ。
これが異人のような女で、目立つゆう話ぜ。
今の土佐なら、わしに捕まえに行けゆう話があるかもしれん。
そうなったら引っ捕らえて、楽しむだけじゃ」
身体は震え、頭は熱を持つ。少なくなっているであろう血が集まる。
傷んだ己の身体を内側から何度も叩きつけ、最後の鼓舞をする。
鈍い音が座敷の方から出た。
斜め後ろに立つ首斬り役の男が鯉口を切る。
鞘から刃が抜けていく。濡れてきた玉砂利を踏みつける。
「おら、首を下げるぜ、大罪人」
そう言われて、うちは顔を穴に向けた。
下役は、うちの目隠しを忘れている。
雷鳴が地鳴りのように耳を刺す。
首斬り役が命を刈り取る刃を振り上げた。気配でわかる。
玉砂利が擦れて、音が出た。
「あっ……!」
男は情けない声を上げる。
うちは目の前の暗い穴を飛び越えた。
すぐに振り返ると、地面に鋒を刺した首斬り役が狼狽えている。
次いで、塀に囲まれる刑場に怒声が響き渡った。
「斬れ! 早く殺すぜよ!」
畳の上に座っていた上役が立ち上がり、子どもの癇癪のように扇子を振り回す。
――守るきに。うちが二人のこと……守るき。
弱りきった足腰で駆ける。力が入らない。不格好に膝が曲がる。
京の都を駆け抜けた足は……遥か昔のようだ。
背後を見ると、首斬り役は刀を振りかぶり追いかけてくる。
初めて人を斬ると言っていた。
とても人の首を落とすことなどできない、無様な構えだ。
しかし、今のうちも同じだった。
膝に力が入らない。前に進まない。息が荒い。
視界も身体も大きく揺れてしまう。
目の前には高い塀がある。後ろでは肉と骨を断つための刀が振り上げられた。
うちは追いかけてきた首斬り役の男の間合いに飛び込む。
白刃を躱し、体当たりして、男の手に噛みつく。
「ぎいゃ……!」
情けない声を上げた男は、簡単に刀を手放した。
弱りきった足腰で最後の力を振り絞り、再び体当たりして足を踏む。
ずるっという音と共に、男は仰向けに倒れた。
――守るき……うちが守るきに。
男の首元に噛みつく。
暴れる相手の握りこぶしが顔に食い込む。それでもひたすらに、皮を引っ張り上げる。
「ぎいっ……! ひぎい!」
鉄の味が口の中に広がる。相手の叫び声も大きくなった。
少し粘り気のあるような血が、歯の間をぬるっと抜ける。
叫び声が刑場に轟く。
武士の誇りなく、身を捩り、泣き声を上げた。
うちは肉片を玉砂利の上に吐き出す。
転げ回る男が血のあふれる首を手で押さえる。それを蹴飛ばし、再び噛みつく。
顔を何度も殴られる。目の奥で何かが弾けたような気がした。
うちはそのまま地面に倒れこみ、首の肉を噛みちぎる。
丸い石が赤く染まった。荒い呼吸の中で、ぬるりとした血が口元を伝う。
隣には、目を見開いた首斬り役の骸が転がった。
雨の勢いが増していく。天からの恵みによって血は薄まり、大地へと吸い込まれる。
座敷では上役が右往左往し、屋敷の中に向けて怒声を飛ばす。
拷問で痛めつけられた身体に余力などない。
立ち上がり、ふらふらと前に進んでいく。
下役は目を見開き、腰を抜かしていた。
「おまん……さっきの話は誰にも話すな。
話したら……地獄から這い出て、おまんのことも殺すきに」
彼はひたすらに頷くだけで、声を出さなかった。
うちは背を向けて、白い塀に向かって歩く。
いるはずだ。息を潜めているはずだ。
傷んだ身体を震わせて、大きく叫ぶ。
「物乞い! 聞こえとるがか……! おまんがなにをしても無理ぜよ!
ねえねのことは、ミナトが守るき! ミナトのことは、ねえねが守るきに!
――おまんは……二人に勝てんぜよ!」
その時だ。小さな音が聞こえた。
うちの耳でないと聞き取れないほどの音が、確かに聞こえた。
雨粒が落ちる音に紛れて、何かを齧る音だ。
雨の勢いは、さらに増していく。
上役に命ぜられた男たちが外に飛び出してきた。
数は五人。三人は抜刀し、残りの二人は槍を手にしている。
垂れ目の痩せた若い同心の姿はない。
鼻から息を少し抜き、肩に入った力も和らいだ。
頭上を見上げれば、空からは大粒の雨が降りしきる。
息を吸い込むと、雨で濡れる土の匂いがした。
塀に囲まれ、人に囲まれ、命を狙われる。
覚悟はしていた。
死ぬ覚悟はできている。
それなのに。
それなのに……最後の悪あがきをしてしまう。
うちの元に辿り着いた男が刀を振り上げる。
濡れた刃が雨粒を斬り裂く。身を仰け反らせて避ける。
横から繰り出された刃が頬を掠めた。
うちは地べたを這って転がり、斬撃を避ける。
すぐに立ち上がり、彼らに目を向けた。
けれど……。
槍が肩を貫く。塀にも穂先が突き刺さる。
さらなる追撃で、太ももの肉を貫かれた。
視界は雨で霞み、砕けるほどに歯を噛みしめる。
顔を上げ、相手方を睨みつけると、全員が後ずさりした。
「な、なんぜよ! 大人しくしろ!」
「こ、こんの大罪人が!」
前からは怒声が続く。
瞼を閉じる。その裏にいる人たちの優しい声が聞こえた。
『以蔵ちゃんは、どうして戦うの?』
『以蔵ちゃんは人のために戦っているのですよね』
――うちは変わっとらんよ。
一人の男が刀を構え、鋒を震わせて声を荒らげる。
「こんの恥さらしもんが! 土佐の恥じゃ!
なんも考えんと人を斬るだけじゃろが!」
「おまんらなど死ぬべきぜよ……!」
後ろで縛られた縄が手首に食い込む。
うちは目の前の男たちに、静かに言った。
「こん国の泣いている子を助けるんが……うちの義じゃ。
こん国に大切な人がいることが……うちの誇りぜよ」
うちは……口元を緩めた。
「こんの罪人が! 鬼ぜよ! おまんは鬼じゃ!」
「うちは……岡田以蔵ぜよ」
――ねえねが……そう教えてくれたきに。
前から刃が迫る。もう避けられない。
肉が沈む。臓物を貫く。鋒が塀に刺さる。
身体の力が抜けていく。雨が全身を打ちつけ、手足の感覚が薄れる。
腹を蹴飛ばされ、刃が身体から抜けた。
すぐに一撃、二撃と槍が突き刺さる。
腹から穂先が抜け、そのまま玉砂利の上に、うちは倒れた。
胸が大きく動く。けれど、指先の一つも動かない。
意識が遠のく中で何かが見える。
冷たい雨など降っていない。
夏の太陽が燦々と輝く。青空が遠くまで広がっている。
そこには……大切な人たちが笑っていた。
『以蔵ちゃん、おかえり。また顔に泥が付いてるよ』
「ミナト! ただいま! これはアンコやき!」
『以蔵ちゃん、おかえりなさい』
「ねえね……! ただいま!」
『あ、櫛が外れそうだよ。挿し直してあげるよ』
「うん……! ミナト、ありがとう!」
『夕げは以蔵ちゃんが好きな物を作りますね』
「うん! 三人で食うぜよ!」
『以蔵ちゃん、どうしたの。涙が出てるよ』
「これは嬉し泣きぜよ……!」
『はい、以蔵ちゃん。山盛りご飯です。たっぷり食べてください』
「うん……! ねえね! ミナト!」
『なに?』
『なんですか?』
「うちは幸せじゃ! 二人に会えて、とっても……とっても幸せやったよ!」
『僕もだよ』
『私もです』
「ありがとう! 二人は……もっと、もっと幸せになるきに!
これからも! いつまでも! 笑っていてほしいぜよ!」
二人はうちの太陽だ。うちの大好きな二人だ。
隣にはいられない。
一緒にはいられない。
でも……。
ずっと……ずっとこれからも。
必ず守ると誓う。必ず助けると誓う。
うちに大切なものをくれた、二人だから。
二人はいつだって温かい。
いつだって……温かった。
――ねえね。ミナト。
――今度は……うちが返すきに。
――うちと一緒にいてくれて……ありがとう。




