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散りゆく桜の真実、ぼくは未来で口づけを  作者: 陽野 幸人


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岡田以蔵 12

             *




 うちは突き飛ばされ、地面に倒れた。


 脇腹を蹴り上げられて、息が止まる。


 牢獄には男の声が響く。


「おまんは大罪人じゃ! こん恥さらしがあっ!」


 後ろに回された手首の縄が引っ張られて、ぎりぎりと食い込む。


「土佐の名に泥を塗りよって!」


 二人の内、うちの髪の毛を掴んだ男の臭いが鼻を突く。


「ううん? なんぜよ、これは」


 そう言った男に、背中を膝で押さえつけられた。

頭に挿していた紅色の櫛を抜かれる。


 うちは身を捩って、声を荒らげた。


「返せ! うちの大切なもんやき!」


「暴れるなっ! こんの腐れ女が……!」


 背骨に膝が食い込む。重石に潰される漬物のように口から唾が出た。


「か、返せ……! それはうちのじゃ!」


 何度も足を地面に叩きつけると、耳をつんざく声が牢獄に響く。


「おい! 手を貸せや! 大罪人が暴れゆうが!」


 その声で板間を踏みつけてくる足音がした。


 二人が牢内に駆け込んでくる。


「暴れるな! 容赦しないぜよ!」


「やっちゃれ! やっちゃれ!」


 振り上げられた棍棒が肉を激しく叩く。食い込む木が骨の髄まで鈍く響いた。


 息が一瞬止まり、喉奥から籠もった音が出てしまう。

けれど、どうしても引くわけにはいかなかった。


「か、返せ……それは大切なもんやき!

うちのじゃ! 返せ……!」


「罪人のくせに髪飾りとは、なんちゅう不届きもんじゃ!」


「おい! わからせちゃれ!」


 仰向けに引っ張り返されて、足を押さえつけられる。


「覚悟するぜよ! こん大罪人がっ!」


 何度も何度も殴打される。鉄の味が口に広がる。


「返せ……! 櫛に触るな! うちのじゃ! うちの大切なもんじゃき!」


 喉元が男の太い腕で押し込まれる。息ができない。意識が遠のく。


 奪われてはいけない。とても大切な物だ。初めて人に買ってもらった。


 うちのために……ミナトが買ってくれた櫛だ。


『うちはいらん。普通のおなごとは違うきに』


『日本髪じゃなくても、髪を束ねている根元に挿せばいいよ。

この紅色と白い花の櫛はどう? 以蔵ちゃんに似合うよ、きっと』


『うちはええ。似合わん』


『試してみようよ。ほら、こうすれば挿さる。

――うん、よく似合ってるよ』


 過去の優しさと今の悔しさで鼻の奥が痛む。


「よーし、よし! 人斬りがどがいに泣き喚くか、見ものぜよ!」


 乱暴に押さえつけられて、抵抗の声は牢獄の壁に吸い込まれていく。


 吐き気がする男たちの臭いも声も、うちを壊すには十分なほどに腐っていた。


 殴打の数だけ嘲笑が生まれていく。


 肌を叩く音。捻り出す声。下卑た咆哮。


 そのようなものが耳にこびりつく。


 男たちは狂った獣のように、目を血走らせ暴れている。


 最後に頭を蹴飛ばされ、血の臭いは口から鼻に抜けた。


「はっ……こん櫛を売れば金になるがぜ」


「その金で飲みにでもいくぜよ」


「わしも行くがじゃ」


「おまん、これから毎日痛めつけちゃるぜ!

こん人斬りが! 大罪人の下士に身の程をわからせちゃるき! 覚悟しい!」


 男たちが出ていった牢内は静まり返る。


 身体のあちこちが痛い。

特に腹の辺りは、ずんずんとした鈍い痛みが広がる。左肩はぴくりとも動かない。


 うつ伏せにされて、首を締め上げられ、馬乗りになった男が激しく引っ張ったせいだ。


 月明かりはない。辺りは暗闇が広がる。


 地面を這って進み、髪の根元を牢獄の壁に押し当ててみても、一つの感触も伝わらない。


 櫛を買ってもらった日から毎日触っていた。寝る前に外して、眺めていた。


 誰にも届かぬ声で呟く。


「返せ……大切な櫛じゃ……き。ミナトがくれたもんじゃ。

返しちょくれ……返しちょくれ……」


 涙がぼろぼろとあふれる。傷んだ袴に染み込む。


 情けない。動けない。声が出ない。


 目を瞑り、ミナトへの謝罪の言葉を心の中で何度も唱えた。


 瞼の裏には大切な二人の姿がある。


 櫛を奪われたうちのことを怒らず、ミナトは優しく頭を撫でてくれた。


 ねえねは抱きしめてくれた後で、櫛を奪った者たちを怒ってくれる。


 うちの大切な二人は……今頃どうしているのだろう。








 ぽた、ぽた、ぽた。


 雫の落ちる音が微かに聞こえた。


 土佐の牢獄に来てから、どれくらいの時を経たのか。


 商家の前で捕まってから、京の牢獄で三月(みつき)ほど過ごした。

その後は、今いる土佐の牢獄に送られ、激しい拷問を受けた。

身体の自由は利かず、目を開けていることのほうが少ない。


 うちは……蛇のように這いつくばっている。


「おい。おい、岡田以蔵」


 小さな声で言うのは、垂れ目で痩せた若い同心の男だ。


 太い木の格子の先で首を何度も動かし、周囲を気にしている。

それは男の生来のものだろうか。

今まで彼に乱暴をされたことはないが、特に印象があるわけでもない。


「おい、返事するがぜ。おまんに差し入れじゃ」


 牢内の地面に置かれた物は、竹の皮に包まれている。


「握り飯じゃ」


 普段は少し傷んだ臭いのする握り飯に、塩が溶かれただけの汁物だ。


 力の入らない手で竹の皮を引き寄せる。


 紐をほどくと、色の付いた握り飯が二つあった。

鉄の匂いと、甘辛い醤油の香りがする。カツオを混ぜた握り飯だろうか。


――ねえね? ミナト?


 薄汚れた手で一つ掴み、丸っとした握り飯を見つめる。


 同心の男は、ふうっと息を吐いた。


「おまん……なんで吐かんがか。

勤王党や東洋様を殺したことを吐けば、こがいなことされんと斬首になれるぜよ。

なんで黙っちょるのか、わしにはわからん」


「知らんもんは……知らんき」


「そがいな嘘を誰が信じるがじゃ。

誰が指示したかは、みーんなわかっちょるき。

大殿様が公儀に盾突くもんを許すわけがなかろう。

まして、幕府と朝廷をくっつけようとしよった東洋様を殺すとは……」


「知らん」


「知らんことあるか。おまんらのせいで、わしらまで上士に目をつけられるき。

おまんは、どうせ死ぬがぜ。早う吐いて、首を落とされたほうが楽ながじゃ」


「うちは……なんも知らん」


「知らんでもなんでも、殺した言うちょったらええがぜ。

――あと……これもじゃ」


 男は小刻みに震える手で腰の辺りを探り、矢立(やたて)を外した。

次いで、懐から皺の入った和紙を取り出す。


「書きたいもんがあれば、これで書けゆう話じゃ。辞世でもってことじゃろ」


「誰から……ぜよ」


 かがんだ同心は、左右をしきりに気にしている。


「泥まみれの農民みたいな女に頼まれたぜよ」


「名は……」


「確か岩田。んにゃ、岩……なんじゃったかの。

少ない金じゃったき、もっと寄越せ言うても渋りよったがぜ」


――岩崎さん……か。


「その女も坂本とかいうもんに頼まれた言うとったぜ。

けんど、紙と筆があってもなあ。おまん、字が書けるがか?」


「前は書けんかった。けんど……いっぱい稽古したき、今は……書けるぜよ」


「そいたら早う書け。見つかったら、わしが咎を受けることになるがぜ」


 木の枠の間から、一枚の和紙が伸びている。 


 書きたいことがある。伝えたいことがある。


 傷んでいる身体は動かない。

かろうじて上げた右手の指先で和紙を掴むが、ひらりと落ちてしまった。


 手のひらで和紙を引きずる。矢立を受け取って、赤黒く乾いた指先で筆を取り出す。


 綿の墨を筆の毛先へ染み込ませていると、同心が口を開いた。


「おまん、おマツのことを知っとるがか?」


「おマツ……?」


「わしの妹じゃ」


「知らん……」


「おまんが土佐におった頃、助けられたことがあるいうちょったぜ。

岡田以蔵は……人のことを無闇に傷つけんと言うとった。

岡田以蔵は悪うないち。わしに小言を言うてくるがぜ。お役目やいうのに」


「お役目でも……人から恨まれることはあるぜよ」


「はっ……おまんが言うと、えぐみがあるぜよ。熟れてない渋柿のようじゃ。

――早う書け。ないならないでええ。わしは渡したんじゃき」


 起き上がる気力はない。

うつ伏せのまま指先に力を込めた。地面の湿った臭いが鼻から肺に滑り込んでくる。


 丁寧に。一つ一つの字を丁寧に。


 血と土で汚れた指を震わせて、白い和紙を黒く染めていく。


 久しぶりの筆の感触だ。指先は変な動きを繰り返す。


「わしの妹以外にも、よう助けよったそうじゃの。

おまんに助けられゆう話はよく聞いたぜよ。けんど、それは正しいんか?」


「それは……どういう意味ぜよ」


 うちが聞き返すと、同心は深い溜め息をついて首を振った。


「人助けしゆうが、今は罪人として捕まっとるぜ。

こんげな酷い目におうて、飯もまともに食えん。

生まれた家でおとなしゅう畑を耕しちょったら、こがなことにはなっちょらんぜ。

頭が悪いんは、おまんみたいなことを言うぜよ」


 筆は止まる。和紙が墨で滲む。うちは掠れた声を出す。


「人のために……なにかをするんは頭が悪いがか?」


「はっ……人のことなんてどうでもええがじゃ。結局、人は己のことしか考えん」


「こん国の先のことは……こん国の子らのことは考えんがか」


「そんなんは関係ないぜよ。

下っ端が国の政(まつりごと)に口を出すき、今のおまんみたいになるがぜよ。

アホはアホらしく、泥水を啜るんが似合っとるんじゃ」


「日の本で泣く人がおる」


「いて当たり前ぜよ。なんを言うがか。

食うか食われるかぜよ。食われるもんは食われるしかないき。

そうなるんは、そいつが悪いんじゃ。弱かもんは、弱かまま食われるだけぜよ」


「それを変えたいき……変えるために動くぜよ」


「変わらん。なーんも変わらんぜよ。

土佐は土佐。上士は上士。下士は下士じゃ」


「変わるきに」


「あ?」


 日本の明日を見る人たちの顔が頭をよぎった。


「こん国は……変わるきに。うちができんでも、他に動く人がおるぜよ。

長州には高杉さんがおるき。肥後には腕利きの人斬りがおる。

他にもたくさんの……志士たちがおるきに」


「はっ、変わらんぜ。土佐の下士のもんが動いても変わらん。

勤王党を見ればわかろうが。結局はなんも成せん。

この世はすべて決まっとるんじゃ。

奪うか奪われるかぜよ。犯すか犯されるかぜよ」


「それだけじゃ……ないきに」


「あ? なんぜ?」


「大切なもんがあるきに。こん国には……こん国の人には大切なもんがあるき」


 一枚の紙に辞世の句をしたためる。暗がりで書く文字は、ぼんやりとしていた。


 格子の外で、同心は手を開く。


「ほら、寄こすぜよ」


 彼に向けて伸ばす手は、刀を握っていた頃と比べ、随分と弱っている。


「もう二枚……紙をくれんか」


 うちが言うと、同心は酷く嫌そうな顔をしたが、懐から紙を取り出してくれた。


 震える手で一枚の和紙に文字を連ねていく。家の者に伝えておかねばならない。

うちが死んだ後、この約束だけは守ってほしい。


 一年後、十年後、五十年後、百年後まで。


 新たな一枚の和紙を見つめる。これは先程より大事に書かなければいけない。


 一文字。一文字。ゆっくりと筆を動かす。


 想いを込めて。うちができる精一杯のことだ。


 涙が滲み、鼻水を啜る。


 想いがあふれる。ぽた、ぽた、と和紙に落ちる。


 黒い文字を書き終えると、自然と笑みがこぼれた。


 心が……安らぐ。


「こん一枚はうちの家へ。さっきの一枚と、こん一枚は坂本さんへ」


「め、めんどうじゃ! おまん頼み事が多すぎるぜよ! 覚えられん!」


「そんくらい……誰でも覚えられるきに」


「無理じゃ! おまん、己ができんことを人に言うがか……!」


「うち……できるぜよ。おまんができんだけじゃ。

己ができん言うて、他のもんもできんと思うんはアホの考えじゃ」


「な、なんじゃちい! その言い草は! 阿呆は、おまんじゃろが!」


「うちはアホやないき。おまんがアホじゃ」


 頬に伝う涙も、今ある会話も温かい。


 昔だったら……京に行った頃は、このようなことはなかった。


「わしは才人じゃ! おまんは阿呆じゃ!」


「そがいなこと言うたら、才人に無礼になるき。

うちは才人を見てきたがぜ、よう知っとる」


「はっ! おまんは、なーんもわかっとらん! おまん、知っとるか!?」


「なんがか」


「能ある鷹は爪を隠す! そう言うんじゃ……!」


「吠える犬は噛みつかぬ、と言うぜよ」


「な、なんじゃ! それは! 偉そうに言うながぜ!」


「才人に聞いてきたらええぜよ」


「こがいなとこに才人がおるわけないぜ!」


 二人の言い争いで和紙はくしゃりと音を立てた。


 いつか届くだろうか。日の本を飛び回る龍の背に乗って。




             *




 辞世の句などを書いてから六日ほどが過ぎた。垂れ目の若い同心が姿を現す。


 あの日以来、うちの牢の前に来ては話をしている。

同心は生まれてからずっと土佐にいるから、京や江戸の話が聞きたいようだ。


 大福や団子を持ち込んできて、一緒に食べたりもした。


 彼は以前と同じように周囲の様子を窺っている。

相変わらず、うちは地べたに伏せていた。


「おい。おい、以蔵」


「聞こえとる」


「今日は文じゃ」


「文……武市先生がか?」


「違うぜ」


「岩崎さんがか?」


「違うぜ」


 同心は人目を警戒し、懐から文を取り出した。こちらを見ずに向けられる。


 うちは文を受け取り、上包みを開く。


 そこに書かれている文字を見て、血の気が引いた。


 指は震え、痣だらけの皮膚から熱があふれていく。


 同心は顔を横に向けたまま、小さく声を漏らす。


「今朝、家から出て屋敷へ向かっているときに渡されたがぜよ」


 指先の震えは変わらない。和紙の上を虫が這うような音が出る。


 彼は気にすることなく続けた。


「この前の農民みたいな女は汚かったけんど――」


 うちの充血しているであろう目は、綺麗に綴られた文字に釘付けになる。


「今日の女は、物乞いみたいなやつじゃ」


――物乞い……。


「物乞いとはいえ、金はたっぷりともろうたがぜ。

四両も払えるんなら、あがいな身なりいうのもおかしな話じゃ。

顔を覗いたけんど……あれはええ女じゃ。

大根を齧りよったんは品がなかったけんどな。おなごちゅうもんは――」


 視界に入らない同心は、へらへらと笑っているのだろう。

うちの耳に、うちの頭に、刺すように入るのは……あの禍々しい物乞いの声だ。


 息をすることも忘れ、何度も文字を追った。


『岡田以蔵殿。

伝え聞くところによれば、未だ罪を認めず、沈黙を貫かれているご様子。

その忠義心は立派なれど、いささか現状が見えておらぬようで心が痛みます。

貴殿はかつて「守る」と仰せでしたね。

なればこそ、賢明な貴殿には分からぬはずもございますまい。

これ以上の沈黙が何を招くか』


 歯を食いしばり、手は震える。


『貴殿の行いは薬売りである御二方の命を削る刃となりましょう。

籠の中の鳥……否、牙を失った犬になにができましょうや。

吠えるのみ。這いつくばるのみ。息絶えるのみ。

牙も刀も奪われた貴殿に、果たして大切な御二方を守るすべはおありでしょうか。

どうぞ、最後には悔いなき選択を』


 心の臓が激しく鳴る。綴られているのは、抗うことのできない事実だ。


 息を吸い込む。浅く。深く。何度も繰り返す。目を瞑る。


 決断をすることに……時はかからなかった。


「すまんけど……頼み事があるき」


「なんじゃ? 面倒事はごめんぜよ。

あ、饅頭なら、ちゃんと持ってきて――」


「吟味役に言うてくれんか」


「おまん……」


「すべて……話すきに。土佐勤王党のことも、暗殺のことも。すべて話すぜよ」


――武市先生。同志のみんな。許してつかあさい。


――うちは裏切りもんになる。


――けんど、わかってほしいぜよ。


――うちに二人を守らせてほしいぜよ。


――どうしても……どうしても守りたいきに。




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